ふくいくたる花と文化の薫る梅の香りに包まれる早春の水戸へ

※この記事で紹介する内容にはPR・広告が含まれています。

黄門さまこと徳川光圀公や、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜公の出身地として知られる茨城県水戸市。数々の歴史や文化の足跡を感じさせる町は、早春から花盛りとなります。全国に名高い梅の名所・偕楽園では、恒例の「水戸の梅まつり」が開催。また緊張とリラックスを意味する「一張一弛」の精神に基づき、「修練」と「休養」の調和こそ学問大成の道と唱えた水戸藩第9代藩主徳川斉昭によって天保12年に造られた修練の弘道館と休養の偕楽園は一対の教育の場となっており、現代に息づく日本人の勤勉さと礼節の心のルーツとして日本遺産「近世日本の教育遺産群」に認定されています。偕楽園の美しい梅と城下町の面影を色濃く残す歴史的名所をめぐり、水戸の春を堪能しに出かけてみました。

徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の城下町として栄えた水戸。市内には今も徳川家ゆかりの名所が点在します。金沢の兼六園、岡山の後楽園とならぶ「日本三名園」のひとつに数えられる偕楽園を中心に、毎年早春には「水戸の梅まつり」が開催されます。梅の名所といえば誰もが思い浮かべる水戸を代表する偕楽園は、天保13年(1842)水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が『孟子』の「民と偕に楽しむ」という一節から名付けられ、「民と偕に楽しむ場にしたい」という願いを込めて千波湖を望む景勝の地に造園された回遊式庭園です。全国随一の梅の名所として知られ、台地状の七面山の傾斜を利用した庭園には、本園、拡張部を合わせて約110品種3000本もの梅の木が植えられています。斉昭公が梅を植えたのは、百花に先駆けて咲く梅を愛していたということと、戦いや飢饉に備えた軍用貯梅のためという二つの理由があったといいます。偕楽園の梅林は「かおり風景100選」にも選ばれています。

水心鏡・月宮殿・滄溟の月・蝶の羽重・・・などはすべて梅の品種名。もともと中国から伝来した梅には、中国の地名や風物から名付けられた美しい名称を持つものが多い。梅の寿命は200~300年あり、園内には樹齢100年を超える老木が160本くらい、創設期から生きる老木もあります。梅の木は樹齢80年ぐらいを超えてくると、太い幹や枝にねじれといった特徴が現れ、枝振りがくねくねと曲がって成長していく姿が古代中国の書体・篆書体に似ているために「香篆梅」、別名「雲龍梅」と呼ばれる大きな古木も本園の中心に鎮座しています。

 

園内の梅は品種が豊富で開花時期も異なるので、12月末から咲く梅もあり、長期間観梅できるのが魅力です。また六角形の囲いをしてある梅は、形や香り、色などが特に優れた品種として昭和59年(1984)に選定された『水戸の六名木』です。水戸にしかない品種のため斉昭公の別称から名付けられた「烈公梅」・白色中輪の「白難波」・淡紅色の中輪の一重咲きの「柳川枝垂」・八重中輪で黄色い中心部からおしべが勢いよくでる「虎の尾」・「月影」・徳川光圀の師だった中国の儒者・朱舜水が日本に「もたらしたとされる中国の江南地方でこれ以上の梅はないという意味で名付けられた明るい紅色の大輪の「江南所無」の六品種で、写真の「月影」は花の輪郭の美しさと豊かな香りは全品種のなかでも有数とのこと。じっくり鑑賞しながらそれらの違いを楽しんでみます。

斉昭公自ら構想をを練り、自然の地形を巧みに生かした園内は、相反するものが調和する自然界の理の従い、陰と陽のエリアに設えられています。まずは本来の入口である好文亭表門から入り、孟宗竹林や杉林などを配した「」からめぐりのが本来の回り方。松材が多く用いられ松煙色となっているため、その色味から「黒門」とも呼ばれる表門は、切妻造りの腕木門で屋根は茅葺きになっていて、偕楽園の入口にふさわしい落ち着いた風情を醸し出しています。

江戸時代多くの人々の往来があった旧岩間街道の付近に設けられた「北門」つまり好文亭表門は主要な門でした。門の近くに咲く梅も楽しめます。

好文亭表門から一の木戸を抜けすぐの孟宗竹林や杉林などを配した「」で心を静めます。園内の西側に広がる竹林は、弓の材料にするために斉昭公が京都の男山の竹を移植したものです。空を覆い尽くす孟宗竹と立ち並ぶ杉が、どこか幻想的な世界を感じさせます。

崖下から湧く「吐玉泉」。常陸太田市に産する寒水石から噴出する湧水は斉昭公が茶会の時に利用したという名水。さらに進むことで大森杉、笹の叢と幽遠閑寂な「陰」の世界が広がります。

静寂のなか、清々しい青竹に心奪われていると、やがて中門をくぐり「」のエリアの入口に立つ木造二層三階建ての別邸「好文亭」にたどり着きます。

斉昭公自らが意匠・設計を手掛け、詩歌の集いなどに利用された名建築です。好文亭という名は学問を好むという梅の異名である「好文木」からつけられたといいます。晋の武帝の「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」という故事にもとづいて斉昭公が名付けました。別邸と太鼓橋廊下でつながる奥御殿を総称して好文亭と呼び三階を特に楽寿楼と呼んでいます。二層三階の建物は杮葺き、奥御殿は茅葺きでその造形は調和のとれた素朴清雅な風情を漂わせています。入口で入場料200円を払い中に入ります。

玄関から順路はまず奥御殿を見学します。10室からなる質素な平屋造りで藩主夫人などの休養の場ですが、城中で出火した際の備えともいわれています。菊の間・つつじの間・桜の間・萩の間や藩主夫人の座所や奥対面室として使用された松の間・控えの間の紅葉の間。

竹の間・梅の間・清の間の三室は明治2年に城下柵町の中御殿から移築したもので斉昭夫人の貞芳院が明治6年まで住んでいました。中でも梅の間は奥御殿中最も高貴な部屋で、明治以降皇族来亭の折には休憩室として使用されました。各部屋名にちなむ襖絵が描かれています。

太鼓橋廊下を渡って好文亭に入った所が、18畳の総板張り(漆塗り)の広間東塗縁です。斉昭公が領内の80歳以上の家臣と90歳以上の庶民を招いて養老の会を催した場所です。天井は丁寧な作りが美しい網代張りです。

最上階・楽寿楼は南面8畳の間が正室で、藩主がお出ましの時のみ使われました。東・南・西のの三面は板縁で欄干がつき、近景、遠景とも眺めが良く、斉昭がここからの風景を楽しみながら思考を練り、また鋭気を養うための部屋です。

表門から続く狭い視野がここで一気に広がり、感動を呼び起こすようにと視野を妨げぬように細かい心配りが見て取れます。創建時の床柱は島津斉彬から贈られた薩摩竹でした。眼下に梅林や園外の千波湖まで一望でき、この建物を境に「」の世界に入ったことに気付きます。紅白の梅が一面を染める光景は息を呑むほどに美しい。

芝前門を出ると視界が一気に開け梅林、見晴広場へ続きます。

まさに陰から陽へ踊り出る感覚が味わえます。東西梅林では、色とりどりの梅の花が咲き乱れ、空気までふくいくたる梅も香りに包まれます。とくに東西梅林の東端から大杉森を背景に見ると白や淡い紅色に咲く梅花と、暗緑色の杉森との調和が美しいとのこと。

東西梅林を楽しんだあと東門から出てJR常磐線を跨ぐ偕楽橋を渡ります。偕楽園の眼下には梅を中心とした田鶴鳴、猩々、窈窕の各梅林、明るい芝生広場、水鳥たちが遊ぶ月池が点在し、水戸藩の黄金期を主導した斉昭の希宇を体現するような大空間が広がっています。

今度は梅桜橋を渡ってJR常磐線沿いに歩き偕楽園駅(臨時駅)から偕楽園に隣接する「常盤神社」へ向かいます。途中には「崖急に梅ことごとく斜めなり」と明治22年(1889)に偕楽園を訪れた正岡子規が詠んだ句碑があります。

常盤神社」は明治6年(1873)に創祀された二代藩主水戸光圀(義公)と斉昭(烈公)を祀る神社で文武両道の御神徳は全国に篤く崇拝されています。

境内には斉昭公の右腕として活躍した藤田東湖を祀る東湖神社や水戸の歴史が一目でわかる義烈館もあります。

次に偕楽園とあわせて水戸の城下町をめぐるため、車はそのまま偕楽園下駐車場に停めておき偕楽園駅(臨時駅)からJR常磐線で一駅の水戸駅に向かいます。

梅に彩られた城下町!江戸の鬼門を守る馬の背台地に立つ水戸城」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/14590

水戸と大洗は鉄道で15分、車で30分程度の距離。水戸で梅まつりを楽しんだあとは、大洗であんこう鍋や鹿島灘はまぐりを味わうのがおすすめです。早春の茨城で美しい花景色を眺め、心に花を咲かせた後は、おいしい海の幸に舌鼓、満足感たっぷりの茨城の旅になります。「東の横綱アンコウ鍋も。ガルパンの聖地大洗磯前神社に詣でる」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/11791

 

おすすめの記事