影姫ゆかりの北・山の辺の道を日本酒発祥の地「正暦寺」へ

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山辺の道は、記紀万葉の時代からの日本最古の官道で、三輪山のある桜井にはじまり、奈良公園の南東、高円山の麓までの青垣の山裾を結ぶ約30kmの道のりです。沿道には今も数多くの社寺が点在し、古代歴史ロマンを感じさせてくれます。そのうち天理の石上神宮から影媛ゆかりの布留の高橋をわたり、青垣の山裾をたどって北へすなわち奈良公園の南東、高円山の麓へ向かうのが、北・山の辺の道コースで、観光客も少なく、静かな古寺巡りが楽しめます。錦秋の11月、 影媛伝説のあとを追いながら、古都奈良の隠れた紅葉の名所の弘仁寺・正暦寺・円照寺など、山あいに隠れるように点在する清らかな寺々を訪ねていくことにします。

影媛伝説」とは5世紀末、武烈天皇が皇太子のころ、豪族物部氏の娘影媛を見初めたのですが、媛にはすでに平群真鳥臣の子鮪という恋人がいました。海石榴市の歌垣で叶わぬ恋と知った皇太子は、真鳥を攻め、鮪を平城山に追いつめます。恋人の身を案じて山の辺の道を北へ追った影媛がそこで見たのは、恋人の無残な死でした。海柘榴市から布留、大宅、春日から平城山へ。この影媛がたどった道こそ、古代の山の辺の道だったと言われていて、これから歩く山裾の道こそ、影媛ゆかりの悲恋の道なのです。石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日 を過ぎ・・・影媛あはれ(日本書紀)

石上神宮から400m程のところに流れているのが、竜王山を源に天理市街地を流れ初瀬川へ下る「布留川」であり、架かっている何の趣きもない鉄製の橋が影媛ゆかりの「布留の高橋」です。ここが全国の高橋姓の発祥の地とも言われています。万葉集にも詠われている。                                                  石上 布留の高橋 高高(たかたか)に 妹が待つらむ 夜ぞふけにける」                           吾妹子や 吾を忘らすな 石上 袖布留川の 絶えむと思へや 

住宅地を抜け、真っ直ぐいくと、「豊田山城跡」である。室町時代の中頃、大和では越智党と筒井党の二大勢力がぶつかりあっていた。豊田氏は越智党に属し、興福寺の衆徒として布留郷の一部に勢力を持つ豪族で、頼英の時代に近郷へ勢力を伸ばしていました。その居城跡で、標高180mの山地にあり、空濠や土塁の跡などが残されているまた、麓では二重の濠を持つ方形の居館跡が見つかっています。

天理教の施設を見ながら車道に出、途中から竹林の間の山道を進む東海自然歩道に入ります。

名阪国道脇の大将軍鏡池を左手に見ながら名阪国道の下をくぐって、「白川ダム」に出ます。北コースの魅力は何と言っても開発されきっていない素朴な雰囲気なのですが、その分、休憩スペースが非常に少なくこの白川ダムは休憩ポイントとして立ち寄りたい所です。

白川ダムは、楢川の上流に作られたダムで、昭和8年(1933)に造られた白川溜池をアースダムとして平成10年に改修したものである。楢川・高瀬川の水をダムに流して、2河川の洪水調節をし、また、農業用水としても利用されている。周りには運動場や公園、散策路も設けられ、市民の憩いの場となっています。このエリアには和爾小倉谷古墳群など数多くの古墳があり、ダムの北側は古墳公園になっている。岸では釣りを楽しむ人が見受けられ、海のない県ならではの住民の憩いの場になっているみたいです。「白川ダムカード」をいただきます。

高瀬川と楢川から流れる水を満々とたたえ、貯水池を挟んで雄大に連なる青垣の山々を見渡していると、「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和しうるはし」の時空を超えた感動がふつふつと沸いてきます。

最初に訪れたお寺が「弘仁寺」です。小高い虚空蔵山(標高180m)の山腹にある本堂を中心に寺堂が建ち並ぶ穏やかな佇まい。弘仁5年(814)年、嵯峨天皇の勅願により弘法大師を開基として小野篁が建立したとも伝えられます。近在の人々から「高樋の虚空蔵さん」と呼ばれ、空海自刻の虚空蔵菩薩を本尊として安置しています。「知恵の虚空蔵さん」と呼び親しまれ、13歳になった子供が知恵を授かりに参詣する十三参りの風習でよく知られています。お寺の山門は山の辺の道沿いの山の中腹にあり、「隠れ寺」とも言えそうな静かな風情が漂う空間です。

本堂は寛永6年(1629)に僧。宗全によって再興されたもので、重層のどっしりとした本堂は外陣に掲げられた虎富士・牛・仁王などの絵馬が面白い。本堂外陣に掲げられた二つの算額は、数学の問題・解答・説明を記した珍しいもので、答は49桁に及ぶ膨大な数で、正解とはおどろきです。境内は植え込みなどよく手入れされ美しい山寺の佇まい。静かな時が流れていきます。

弘仁寺から約1km弱のところにある時計台最寄のバス停・柳茶屋から山の辺の道からは逸れるのですが、この時期紅葉の名所「正暦寺」に向かいます。バスの時間とタイミングが合えばいいのですが、生憎バス便も少なく片道2kmを歩くことにしました。重い足取りの横を自家用車がとおり過ぎていくのですが、駐車場への渋滞をみると溜飲がさがります。渋滞の車の横を尻目に紅葉の中を歩いていきます。

正暦寺」は奈良市東南の郊外の山間、のどかな田園風景が広がる崇道天皇八島陵の東にあるお寺です。奈良市の中心から車で30分ばかりのところなのに、驚くほど山深く、ずいぶん遠くまで来てしまったように錯覚します。所に古人が“錦の里”と名づけたように、今もなお奈良では屈指の紅葉の名所です。

正式名は菩提山真言宗大本山正暦寺といいます。春日山を中心に右回りに取り巻く所が釈迦が修行した聖地に因んで名付けられた霊山を鹿野園、大慈仙、忍辱山、誓多林、菩提山の五大山といい、そのうちの一つに位置する菩提山を聖なる山と見立て仏教の一大拠点を築こうとしたのが、平安時代中期の一条天皇でした。正暦3年(992)、一条天皇の発願により兼俊僧正(関白藤原兼家の子)によって寺院が建立されました。創建当時の元号をとって正暦寺と名付けられたこのお寺は、当初、堂塔伽藍を中心に86坊の塔頭が菩提仙川の渓流をはさんで立ち並び、勅願寺としての威容壮麗さを誇り、一条天皇が強い決意を持って創建に取り組んだことが伺えます。しかしながらたびたびの兵火、そして明治の廃仏毀釈によって荒廃し、現在は福寿院客殿や本堂、鐘楼などに面影をわずかに留めているだけです。

菩提寺仙川の清流に沿う参道は、約500mにわたり、紅、黄と鮮やかに染まっています。楓は頭上よりはるかに高く、樹齢を経たものが多いせいか、大きな枝が重なり合っています。赤の“いろはもみじ”と、強い黄色が混じる“たにもみじ”が引きたて合い、燃え立つ色に包みこまれているようです。

境内に流れる菩提仙川の清水は、かつて室町時代の後期、現代の酒造りに通じる酒造法が考案された奈良酒をつくるのに使われたといわれており、日本で初めて清酒を醸造したお寺として知られています。清流から得られる水とその水で育った米、澄み渡る山の空気は清酒の醸造に適していて、このお酒は織田信長や豊臣秀吉を酔わせたといいます。酒母の原型である「菩提酛」の仕込みが毎年1月に行われ、その酒母を用いて醸造した清酒は舌にまったりとした甘味を感じ、ピリッと広がる酸味が持ち味です。

境内に入って最初に見えるのが「福寿院」で、石段を上ったところにある建物です。延宝9年(1681)に建て替えられた建物で、上壇の間を持つ数寄屋風客殿建築であり、国の重要文化財に指定されています。中の雪中柳鷺図といわれる襖絵は、京狩野3代目である狩野永納筆によって描かれ、今に伝えられています。また本尊である県指定重要文化財の孔雀明王像も拝観でき、こちらは鎌倉時代の作。孔雀に乗った仏で、孔雀の羽を光背としています。

紅葉の11月には、飛鳥時代に造られた正暦寺本尊で、鳥羽天皇の病気平癒のため宮中に移して祈祷したとの記録も残る、歴史ある秘仏「薬師如来椅像」の秋季特別公開があります。台座に腰をかけるという椅像の形の金銅仏で、足は踏割蓮華にのせています。高さは約30cm、かつては常に身の傍に置く為の念持仏であったと考えられています。

古来“錦の里”と称えられる山内では、約3000本のカエデが燃えるような朱に染まり、ケヤキやオウバクの黄と共演しています。福寿院客殿の緋毛繊の上に座り、その風光明媚な山の紅葉を借景とした庭園を眺めれば、吹き抜ける風、川のせせらぎが心地よく、疲れも消えていくように心が安らいでいきます。

来た道を戻り山の辺の道に再び合流するのではなく、正暦寺臨時バス停の手前を「円照寺」に向かう「奈良奥山ハイキングコース」となる峠道に分け入っていきます。2km程を歩きながら、弁財天社(大川池塚古墳)が鎮座する竜王池の向かいの竹薮を進むと、門跡尼寺・円照寺の黒い門が眼の前に飛び込んできます。

円照寺は、奈良から少し南へ下った帯解の山中、奈良市山町にある臨済宗妙心寺派の尼寺で山号は普門山といいます。華道の山村御流の家元でもあり、俗に山村御殿と呼ばれています。このお寺に興味を持ったのは、白州正子のエッセイ「かくれ里」24編の1編に「山村の円照寺」ということでとりあげられていたからです。

『秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである。近頃のように道路が完備すると、旧街道ぞいの古い社やお寺は忘れられ、昔は賑やかだった宿場などもさびれて行く。どこもかしこも観光ブームで騒がしい今日、私に残されたのはそういう場所しかない。その意味では、たしかに「世を避けて隠れ忍ぶ村里」であり、現代の「かくれ里」といえよう。』「かくれ里」より                                                                                                                                                                            

黒い山門から端正な敷石が真直ぐ玄関までつづいていて、いかにも尼寺らしい清浄な空気に包まれています。茅葺き屋根の本堂のたたずまいといい、後背の山里と合いまった景色は、「山村御殿」の名にそむかず、美しいお寺ですが、拝観はできません。開山は後水尾天皇の皇女文智内親王で、寛文9(1669)年、現在の地に移された、佐保路の法華寺・斑鳩の中宮寺と並ぶ大和三門跡寺院のひとつです。

三島由紀夫の小説「豊饒の海」第1巻「春の雪」で主人公松枝清顕が出家した綾倉聡子に会いたい一心で2月の雪の中、尼門跡月修寺に何度も行くが会えず、閉じられた山門の前で倒れてなくなるという話に登場する月修寺のモデルといわれ、清らかな参道や付近の小道には別格の趣が漂っている。行定勲監督の映画『春の雪』(2005)では、ここ円照寺でもロケが行われ、スクリーンの中に庭や客間を見ることができる。清顕が血を吐いて倒れる山門のシーンには、この寺の山門と、滋賀県にある東光寺の石段を組み合わせて使用されたようです。

菩提山道を少し下れば、終点の円照寺バス停で、近鉄奈良駅に向かいます。                       ※正暦寺は奈良市南東部の山間にあり、バスや電車等公共機関の便の多少悪いところにあり、普段は車かタクシーでの来山になるのですが、秋の紅葉シーズンは、JR・近鉄奈良駅から正暦寺行臨時バスがでています。

古代ロマン薫る大和の歴史を刻んだ最古の官道・山辺の道/前編」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4280 

古代ロマン薫る大和の歴史を刻んだ最古の官道・山辺の道/後編」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/196

 

     

 

 

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