碓氷峠越え!中山道を“安政遠足”に思いを馳せ、力餅に憩う

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信州経由で江戸と京都を結んだ結んだ中山道や群馬の高崎から新潟を結ぶ信越本線で最大の難所が碓氷峠でした。時は流れ平成9年(1997)に当時の長野新幹線が開業し、同時に信越本線横川-軽井沢駅間が廃線になり、平成11年(1999)には上信越道が全線開通し、以来碓氷峠は縁の薄い存在になっていました。かつて旅人たちを難渋させてきた中山道屈指の難所、碓氷峠越え、そして安政2年(1855)、上州安中藩主板倉勝明が鍛錬のため、藩士96人を安中城内から碓氷峠の熊野権現神社まで走らせた徒歩競争「安政遠足」を体験しようと軽井沢駅をスタートして中山道を信州軽井沢宿から上州坂本宿を通り、JR横川駅までの約16km、6時間ほどのコースを歩くことに。このコースは、横川駅をスタート地点とすることもできますが、登りの距離が短い軽井沢駅スタートを選択することにします。

横川駅にある碓氷峠鉄道文化むらの駐車場に車を停め、JRバスで軽井沢駅へ。旧軽ロータリーから約800mの間に約200軒の商店が並ぶ旧軽井沢銀座通りを歩きます。元は中山道の宿場町で碓氷峠の麓にあった軽井沢宿は、徳川家を守るための軍事上の要所でもあり、道路沿いには茶屋や旅籠が並んでいました。往時には本陣1軒、脇本陣が4軒あり栄えたといい、脇本陣跡には瀟洒な洋館風の軽井沢観光会館が立ち、宿場の面影はありません。

軽井沢宿の休泊茶屋だったというつるや旅館を過ぎると「日本聖公会ショー記念礼拝堂」が右手に現れます。明治時代に新しい幹線道路や鉄道ができたことで廃れて寂しい町になった軽井沢に避暑地としての命を吹き込んだのがカナダ人宣教師A・C・ショーです。さらに5分ほど歩いて二手橋を渡ります。

矢作川にかかる小さな橋「二手橋」は、軽井沢宿に泊まった旅人とそれを見送る旅籠の人が、名残を惜しみつつここでふた手に別れたのでこの名がついたといいます。橋の周辺には旧中山道の宿場の風景が今も残っています。

舗装された上り坂が碓氷峠へと続きます。旧軽井沢銀座から碓氷峠近くの見晴台までレトロで目を引く軽井沢赤バス(片道500円)が運行されています。碓氷峠まで赤バスに乗って下りを歩いたり、上って赤バスで下ったり、体力と時間に見合ったハイキングが楽しめます。

旧中山道は途中で分岐して、今は人が通る道ではなくなっているので、橋から約200mのところに旧碓氷峠の見晴台へと続く遊覧歩道の分岐があるのでそちらを進みます。明治から大正にかけて、名古屋の近藤友右衛門が、旧軽井沢から碓氷峠に至る原野など22万坪を買い上げ、旧碓氷峠見晴台に設けた茶室に行くための遊歩道を整備したのが始まりです。見晴台まで1時間30分ほどの小道は緩やかな登り道で、川のせせらぎ、野鳥のさえずりを聞きながら手軽にハイキングが楽しめるコースです。

別荘地の中を歩き、吊り橋を渡ると細い道が続きます。

小さな沢を越え、山腹を縫うように上っていく。周囲はうっそうとした雑木林だが、カエデ、クヌギ、ナラ、カラマツなどが色づき、紅葉を愛でながら歩きます。

尾根沿いのなだらかな道を上りきると遊覧歩道の終点。

右に進むと見晴台の広場に出ます。長野・群馬県境に位置し、晴れていれば妙義山、赤城山、榛名山の上毛三山や日光連山、遠くに関東平野が、背後には碓氷、浅間山に抱かれた軽井沢高原と、自然の大パノラマが楽しめます。遊歩道を歩いてきた人にとってご褒美のうような雄大な景色で、外国人避暑客が「サンセットポイント」と呼んだ呼んだことから、夕焼けのきれいな公園として有名になりました。が、この日は霧に霞んで視界不良。

終点を左に行くと旧中山道、道の両側には力餅を売る茶屋が並んでいるので、腹ごしらえと休憩を兼ねて創業300年のしげの屋を訪れます。「安政遠足」の際、標高1188m碓氷峠のゴールの茶屋で力餅を振る舞ったのがしげの屋だといいます。

行列になっているので順番まちの間、向かいの熊野皇大神社に参ります。

日本書記に日本武尊の勧請によるとある古い歴史を持つ神社は、真ん中に県境が通っているので社が両県にまたがり、群馬県側熊野神社と呼び習わしています。県境に本宮、右(群馬側)に新宮、左(長野側)に那智宮が並んで立ち、賽銭箱もそれぞれに置いてあります。

長野県側にあるシナノノキはパワースポットらしくお願いをして一周回れば願い事が叶うとか。境内には追分節に出てくる石の風車や室町中期の作と伝わる県内一古い狛犬など、歴史を感じさせるものがあります。

店内を県境が通るしげの屋で“力餅”をいただきます。甘味のあんこと辛味の大根おろしを注文し、辛味甘味を交互にいただきます。小ぶりのつきたての餅は柔らかく、スルスルと喉を通っていき、腹持ちがいいので、これからの歩行にもぴったりです。

旧中山道に並ぶ茶屋を過ぎ、群馬県側に少し下った林道のとば口に碓氷川水源地の標識が立っています。階段を下りると、石で囲まれた水源があり、こんこんと清水が湧き出す様が美しい。少し前までこの水を利用してワサビが栽培されていたり、明治天皇ご巡幸の際、御前水として使われたといいます。

林道はこの先、霧積温泉へと続きますが、標高1655mの鼻曲山麓に仁王門跡などの石碑や石塔が立つところで旧中山道は分岐を右にそれます。左手の道は旧中山道の狭い急坂を避けるために広く緩い道を旧中山道の北側に作った和宮道といわれます。写真左の大きな石碑は「思婦石」といい安政4年(1857)の建立で、日本武尊の故事を群馬県室田の国学者、関橋守が詠んだ歌碑です。「ありし代に かへりみしてふ 碓氷山」とあります。山道を進むと、いよいよ本格的な下りの峠道がはじまります。

だらだらと続くつづら折りの長坂は、細い溝のような道や橋のない沢を飛び石伝いに渡るところもあります。途中々々には、笹沢のほとりに、文久11年江戸呉服の与兵衛が、安中藩から間口17間奥行き20間を借りて人馬が休む家をつくった「人馬施行所跡」や、峠町へ登る旅人が、この水で姿、髪を直した水場だった「化粧水跡」といいた表示板があります。

草深い細い急坂を下ると安政遠足の表示のある道と合流します。安政2年(1855)、上州安中藩主板倉勝明が鍛錬のため、藩士96人を安中城内から碓氷峠の熊野権現神社まで走らせた徒歩競争の道は標高差1000m、とてもつらかっただろうと考えられます。しかも忖度して上司よりも速く走ってはならなかったという記録が残っています。

合流地点には子持山と陣場が原の標識が立ち、標高1296mの「子持山」の表示板には万葉集3494第14巻東歌『児毛知山 若鶏冠木(子持山若カエデ)の黄葉つ(もみじ)まで 寝もと吾は思ふ 汝はあどか思ふ』とあり、「陣場が原」の表示板には、笹沢から子持山の間は萱野原で、太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代には武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある古戦場とあります。

ここからしばらく歩きやすい下り道を山中茶屋まで歩きます。今回は下りですが山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂を山中坂といいます。この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登ったといい、山中茶屋の繫盛はこの坂にあったとのことです。

山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で慶安年中(1648~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開きました。寛文2年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二カ所ありました。明治の頃小学校もできましたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っています。

杉木立の中の歩きやすい道を通るとその先で「栗が原」という明治天皇御巡幸道路と中山道の分かれる場所に出会います。明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」があった場所でこれが交番の始まりだそうです。

次に現れるのが、急な坂となる「座頭ころがし(釜場)」と名付けられた坂道です。岩や小石がごろごろしていて赤土で湿っているのですべりやすい急坂です。

座頭ころがしの坂を下ったところに慶長以前の旧道(東山道)があります。ここから昔は登っていったといい、その途中に小山を切り開いて「一里塚」がつくられています。その一里塚から下った絶壁となっている岩の上に馬頭観世音が立っていますが、馬頭観世音のあるところは危険な場所であり、文化15年(1818)に建立された「北向馬頭観世音」と呼ばれています。

さらに切通しを南に出た途端に南側が絶壁となり、昔、この付近は山賊が出たところと言われ、険しい場所であることから寛政3年(1791)建立の「南向馬頭観世音」が立っています。

ここから刎石山の緩い坂を上っていきます。切通しを進むと今度は掘り切りが現れます。天正11年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が堀り切られています。

刎石山の頂上(標高909m)にあるのが刎石茶屋跡です。昌泰2年(899)刎石山の群盗を取り締まるため碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所「碓氷坂の関所跡」でもあり東屋(峠の小屋)があります。頂上付近には茶屋本陣の他、茶屋が3軒あり、四軒茶屋と呼ばれていました。また少し先には弘法の井戸があり、刎石茶屋に水が無いのを憐れみ、弘法大師が掘り当てたという伝説のある井戸です。

さらに歩くと江戸時代より「(のぞき)」と呼ばれるところがあります。名前の通り坂本宿が見下ろせる場所で、中央の一本道が旧中仙道です。一茶がここで「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んでいます。一茶は生まれ故郷の信州と江戸を往来し碓氷峠を幾度となく越えています。

またその先には「上り地蔵下り地蔵」と呼ばれる地蔵がありました。ここからは刎石坂という碓氷峠一の難所になり、十返舎一九が「たびの人の身をこにはたくなんじょみち 石のうすいのとうげなりとて」と記したその険阻な坂道です。

刎石坂を下っていきます。昔芭蕉の句碑もここにありましたが、今は坂本宿の上木戸に移されています。道の傍らには南無阿弥陀仏の碑や大日尊、馬頭観世音など多くの石造物があり、いかにも中山道らしいところです。

またここから下った曲がり角に刎石溶岩の岩盤が露出したところで柱状節理の見える場所があります。

さらに急坂を下ります。この坂(堂峰)の見晴らしの良いところ(坂本宿に向かって左側)の石垣上に堂峰番所を構えていました。関所破りの監視場所で、中山道をはさんで定附同心の住宅が二軒ありました。関門は両方の谷がせまっている場所をさらに掘り切って道幅だけとしました。現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されています。

丸太の急な階段を下りると、やっと国道18号にでます。旧碓氷峠登山口バス停の東屋/碓氷小屋で、明るいうちに峠越えができた安堵感から暫し休憩です。

碓氷小屋の向かいのガードレールが途切れた所に「アプトの道」に下りる階段があります。開通から70年間、アプト式という歯車をかみ合わせて走る方式で、急勾配とトンネルの連続する碓氷峠を越えていた信越線の廃線跡を遊歩道として整備された道です。碓氷湖のほうにさらに下りればアプトの道で横川駅にある碓氷峠鉄道文化むらまで歩いて戻れます。日帰り温泉施設の峠の湯もあり、汗を流して一息いれることもできます。

再び国道18号にでれば坂本宿の北詰めあたりで一直線に伸びる国道に沿って民家が並びます。宿名の坂本は「うすい坂のふもと」の意味からきていてこの地名は奈良時代からあったようです。慶長7年(1602)江戸を中心とした街道整備が行われた時、五街道の一つとして江戸京都を結ぶ中山道132里(約540km)が定められ、この間に69次の宿場ができました。その一つに寛永2年(1625)坂本宿が設けられ宿内の長さ約713m京都寄りと江戸寄りの両はずれのに上木戸、下木戸が作られました。写真は下木戸です。

文久元年の絵図によると、幅約14.8mの広い真っすぐな道路の中央に川幅約1.3mの用水路が流れ、その両側には本陣2、脇本陣2、旅籠40、商家160軒がそれぞれ「たかさごや」「つたや」といった屋号看板をかかげ、計画された整然とした宿場でした。坂本宿は下に碓氷関所、そして上に碓氷峠があり、ここでほとんどの旅人が宿泊したようで、その賑わいぶりは次の馬子唄にも唄われています。『雨が降りゃこそ松井田泊まり、降らにゃ越します坂本へ』

「かぎや」は坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物です。創業はおよそ370年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた武井家の先祖が役職に因んで屋号を「かぎや」とつけたとのこと。家紋の結び雁金の下に「かぎや」と記した屋根看板が目につきます。上方や江戸方に向かう旅人にわかりやすく工夫されています。屋根は社寺風の切妻、懸魚があり、出梁の下には透かし彫刻が残されています。間口六間で玄関から入ると裏まで通じるように土間があります。奥行き八畳二間に廊下、そして中庭を挟んでさらに八畳二間で四部屋あり、総二階なので計八間あったことになります。往還に面しては階下、階上とも格子戸が設けられています。

坂本宿には本陣が二つあり写真は佐藤本陣跡で上の本陣と呼ばれていました。三代将軍家光は寛永19年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務付けたため、文政年間では31大名が坂本宿を往来しました。寛政二年八月八日、坂本宿で加賀百万石の前田加賀守が江戸へ信州松代真田右京大夫は帰国のために坂本宿に立ち寄り、双方すれ違いそれぞれ宿泊しています。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえていたため坂本泊まりが必然となり本陣が二軒必要でした。4軒隣にも金井本陣(下の本陣)がありました。

上信越道の下をくぐり、薬師坂を下って川久保橋を渡ります。この橋は正しくは碓氷御関所橋と呼んで中山道を結んでいましたが、関所設立当初は軍事目的を優先し、橋桁の低い土橋だったので増水期になると度々流出していました。「碓氷関所跡」までくればゴールはもう少しです。中山道はここ碓氷と木曽福島に関所があり、“入鉄砲に出女”を厳しく取り締まった関東入国の関門として元和2年(1616)に設けられました。関所から西の碓氷峠側を幕府が、東を安中藩が守備しました。ここを過ぎればゴールの横川駅前に到着です。名物のおぎのや「峠の釜めし」を頬張って帰路につきます。

日本の道100選に選出されている旧中山道、碓氷峠は石がごつごつと出た道、木の根が張った道など変化に富んだ道をひたすら歩きます。坂本宿の標高が約480mで碓氷峠は1188mなので標高差700mを下ってきたことになります。横川からスタートしていたら碓氷峠まで辿り着けたかどうかと思ってしまいます。

信州碓氷峠アプトの道は、線路があった時代の峠越えの奮闘史」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/132

 

 

 

 

 

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