
大阪府高槻市の北側にそびえる摂津峡を見下ろす三好山に阿波から畿内にかけて勢力を有した戦国大名・三好長慶が居城としていた芥川城があります。戦国時代前期、主君を下克上で追いやった三好長慶は、織田信長に先駆けて畿内を掌握し、近畿から四国にまたがる最大13ヶ国を支配下において政権を握った人物で、将軍を擁立することなく畿内を支配したいわば最初の天下人です。三好政権の拠点であった芥川城は山頂から尾根にかけて数多くの曲輪が連なる中世山城であり、続日本100名城に選ばれています。現地を歩きながら当時の山城を体感したいと思います。戦国時代最初の天下人、三好長慶の居城・高槻“芥川城”を歩く
芥川城は、北・西・南の三方の山裾をとりまく芥川が形成する摂津峡を利用した天然の要害・三好山(標高182.69)通称城山に築かれた戦国時代の山城です。芥川城は、室町幕府管領で摂津・丹波国の守護であった細川吉兆家の当主・細川高国が永正13年(1516)までに築城されました。工事には昼夜を問わず、300~500人が働いたといいます。その後は高国を自害に追い込んだ細川晴元、その晴元を追放した三好長慶が天文22年(1553)に入城します。長慶は7年間芥川城を居城とし、天下人の居城として長慶の家族や高槻出身とみられる重臣・松永久秀等家臣らが屋敷を構えました。「三好政権」「芥川政権」と呼ばれ、天皇家や公家、文化人など、裁定や対面を求める多くの人々が登城したといい、まさしく芥川城は戦国時代の畿内統括の要の城郭でした。
城域は東西約500m、南北約400mにも及び、摂津国最大規模を誇ります。主郭のある最高所の山頂から伸びる主尾根上に地形を生かし幾重もの曲輪と土塁・堀切などがが配置される、戦国時代の典型的な連郭式山城です。地形から西曲輪群、中央曲輪群、東曲輪群に分けられ、城内各所には堀切や土塁などの防御施設が良好に残ります。
最寄りの交通アクセスはJR高槻駅北側バスロータリー北2から市バスで約15分、摂津峡大通りにある塚脇バス停で下車します。バス停近くには、芥川城の復元図やアクセスルートが書かれた素晴らしい看板があります。車の場合は摂津峡公園近くの下の口駐車場に停めてバス停まで10分戻ります。
現在バス停から城跡までの登山道は南東麓から続いていますが、住宅街が広がっていて少々わかりづらく、バス停近くにあったアクセスルートが書かれた看板をメモしておきましょう。途中には標識も出ていますので難しくはありません。まずはバス停反対側の「妙力寺」と書かれた標識が目印です。途中千念院で写真の標柱に従って緩やかな坂を進みます。
塚脇バス停から住宅街の中を通って15分で田ノ丸ルートと塚脇ルートのY字分岐に到着します。写真が右手側道の東側から回り込む塚脇ルートですが、今回は左本道の大手道・田ノ丸ルートで上ります。案内板には三好山と書かれていますが芥川城と書かれていても同じです。
大手道は南北に走る谷筋の道で、ところどころ石垣を見ることができます。石垣は、曲輪の基礎としての土留や防御のために設けられています。城内には約20カ所に点在し、その大半が戦国時代の石垣です。三好山でとれる花崗岩などが多く使われています。
途中猪除けの柵のところで、大手道と田ノ丸ルートに分かれますが、ここから大手道は急登で険しく、田ノ丸ルートは竹林の中を遊歩道がよく整備されています。また途中堀切も見れることから田ノ丸ルートを選択します。
南西尾根のつけ根にある土塁と大堀切によって南山麓から尾根を伝っての山頂の主郭への侵攻を防いでいます。
15分ほどで展望スポットに到着します。丸太で作った手作りの椅子が並べられていて、休憩に丁度よい場所です。正面に生駒山を望み、手前に飯森山城跡があります。中央に淀川、その手前を京都から西日本をつなぐ西国街道が横切っています。手前から生駒山に向かって淀川と合流する芥川が見えます。ここは頂上ではなく、この先を上ったところが頂上です。
展望スポットから約5分、頂上付近は少し広場になっていて「城山城址」という標柱が建っています。当時の文献には芥川城とあり、高槻市の平野部にも同名の城が存在することから便宜上ことらうぃ「芥川山城」と呼称しています。最高所となる西曲輪群が城の中心です。
主郭部には三好長慶の看板が立ち、かつて三好長慶や当時配下だった松永久秀などがこの場所に立ち、畿内一円に号令を発していたことを思い浮かべながら大坂平野を一望します。芥川城は京都と貿易港・堺を結ぶ中間点に位置し、政治と経済を一度の掌握できる、まさしく天下人にふさわしい拠点でした。
主郭には三好長慶と松永久秀を祀る社があります。
頂上から先に進み、分岐を右手(南)にとって寄り道します。このあたりは西曲輪群の東側につながる中央曲輪群ですが、堀切はなく南北に走る谷を天然の巨大堀切のように見立て、中央曲輪群全体が出丸のような存在でした。南北に走る谷筋が大手道だったようで、往路では登山道が険しく行かなかったこの大手道を少し40mほど下ると、芥川城で当時のものとしては唯一の石垣遺構「大手門石垣」があります。隅部は算木積にならず、矢穴痕や転用石もなく、勾配がなく直線的に水平に積み上げられています。
戦国初期の山城で石垣が造られるのはまだ珍しく、先駆的な大手門石垣は、現在は中央が崩れていますが、本来は谷を塞ぐように一直線に石垣が積まれ、長さは約12m、高さも3m以上あったと思われ、その荒々しく迫力のある姿に圧倒されます。まだ石垣が城郭に用いられるようになるのは織田信長が小牧城や安土城を築いた以降だとされ、三好長慶は天下人にふさわしい威厳を城の顔ともいうべき大手門で見せつけたのではなでしょうか。
元の道に戻り、東に進路をとり塚脇ルートで下山します。木々が生い茂り森の中を進んでいくと、人工的に山を削って道を造った堀切があり、中央曲輪群と東曲輪群との間の虎口です。芥川城では、敵がまっすぐ曲輪に進入でないよう曲がり角を多く造った虎口を設け、敵の動きを封じる工夫をしていました。
両側がえぐられ、防御用に造った堀を渡るための細い道・中央曲輪群と東曲輪群の境にある土橋。尾根の左右を掘りきって道幅を橋のように狭くしたもので、敵の軍勢を足止めしつつ攻撃するためのものです。
緩やかな勾配を下っていきますが右側は開けていますので景色を楽しみながら進むと往路でのY字の分岐に出ます。あとは来た道を戻り塚脇バス停へ。
永禄3年(1560)、三好長慶は息子の三好義興に芥川城を譲り、自身は飯森山城へ移りました。しかし義興は病死、長慶も永禄7年(1564)飯森山城で病死し、永禄11年(1568)足利義昭・織田信長は芥川城に入城します。足利義昭は芥川城を和田惟雅に預けますが、翌年高槻城へと拠点を移したため、一時期高山飛騨守・右近父子が預かりましたがその役目を終えたのです。高槻城に向かいます。
高槻城は10世紀の末。990年に近藤忠範によって久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが始まりと言われ、三好長慶が芥川城に入城した天文22年(1533)には高槻城は支城となり入江春継が城主となっていました。織田信長によって滅ぼされた後、芥川城より永禄12年(1569)に和田惟雅が本城とし整備し、その後天正元年(1573)城主となったキリシタン大名高山右近が町家を取り込んで拡張しました。イエスズ会宣教師が「広大な堀と石垣に囲まれた見事な城」と記していることからも、秀吉政権下における高槻城の重要性と右近の築城技術の高さがうかがえます。
JR高槻駅から高槻センター街を抜け阪急高槻市駅から南にあるくこと約12分、高槻城に向かいます。北大手門跡をすぎるとカトリック高槻教会があります。キリシタン大名・高山右近ゆかりのカトリック教会で、高山右近記念聖堂として知られ、高山右近臨終の地、、マニラ郊外のアンティポロにある聖母大聖堂をモデルにして昭和37年(1962)に建てられました。
高山右近は豊臣秀吉のバテレン追放令で明石の領土を失い、徳川幕府のキリシタン禁教令によってマニラで生涯を閉じました。前庭にはカトリック本山・バチカン市国のクラレチアン総長から贈呈されたイタリア産大理石でできた記念聖堂に向いて祈りを捧げる高山右近像があります。
さらに歩くと高山右近高槻天主教会堂跡があります。天正12年(1574)、高槻城主高山右近(ジュスト)と父親飛騨守(ダリオ)が建立した天主教会堂や神学校がこの場所にありました。江戸時代の丑寅櫓跡のこの場所を拠点にキリスト教布教に力を注ぎました。教会に付属するキリシタン墓地も発見されています。
高槻城はその後元和5年(1619)に松平家宣が入り、岡部氏や松平氏を経て、徳川家光の側近も務めた永井直清が慶安2年(1649)に3万6000石で入城し、以降廃藩置県まで220年永井家13代が城主を務めました。斜め向かいに元は高槻城内にあり、古くは「牛頭天王の社」とも呼ばれ歴代城主の信仰も厚かった野見神社が建ち、この境内に永井神社があり、高槻城三の丸の一角に鎮座する野見神社の摂社です。寛政5年(1793)、9代藩主永井直進が初代藩主直清を祭神として創建されました。その後、嘉永元年(1848)に11代藩主永井直輝が直清入城200年を記念して権現様式の社殿を修復し、新たに唐門と拝所を造立しました。
高槻城二の丸は2023年、現在高槻城公園芸術文化劇場に変貌してしまっています。
高槻城本丸は、城の石垣や堀を模した池を中心とする公園として整備されています。
天守台を模した高台には高山右近の像が立ちます。滋賀県の彫刻家、西森方昭氏の手によるもので同じデザインのもが全部で5体あります。高槻城公園と高槻市民会館前、富山の高岡城、カトリック小豆島教会、最後となったフィリピン・マニラ湾公園です。
かつて大手にあった北・南・東の各門の中でも高槻城内(三の丸)への最も重要な出入り口「大手御門」があった場所です。門の内には、家老や郡奉行などの屋敷が並び、参勤交代など江戸や京都へ向かう際には、内濠に面した桜之馬場で供揃えをしてからこの門を出て京口・八丁松原を経て西国街道を東進したと云われます。
高山右近が6万石で播磨船上城に移封された後、豊臣秀吉の直轄地になり、また関ヶ原戦いの翌年には徳川家康の直轄地となるほど高槻の地を重要視しています。そして高槻城は元和3年(1617)譜代大名の土岐定義が2万石で城主となると「公儀普請」で大改修され、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で徳川方の最前線となるほど徳川幕府の重要拠点として生まれ変わりました。同時期に元和4年(1618)戸田氏鉄が築いた尼崎城、元和5年(1619)小笠原忠真が築いた明石城、最後に元和8年(16229水野勝成が築いた福山城は明らかに山陽道を意識し、豊臣恩顧の西国大名に対する牽制の城です。高槻城を含め、等間隔の置かれたこれらの城を結ぶと、徳川大阪城に通じる幕府の防衛ラインが見えてきます。