山形県の日本海に面した庄内地方は、荒海日本海、月山、鳥海山ほかの風光明媚な自然、四季を通じ五穀豊穣を提供する肥沃な庄内平野。文武を奨励し、安泰を約束した庄内藩酒井家12代の治世。独自の文化を醸成し、朴訥だがしっかりと大地に足を着け、懸命に生きる庶民たちの庄内。この庄内をモデルに創作したのが、作家藤沢周平小説の「海坂藩」です。“海坂”というなんとも美しい響きの中心舞台は、かつての城下町鶴岡。鶴岡は江戸時代から徳川四天王の筆頭、酒井忠次を藩祖とした酒井家14万石の庄内藩の城下町として栄え、郊外には庄内米やだだちゃ豆の豊かな恵みをもたらす平野が広がる。現在は山形県内人口第2位、約14万人の都市です。この豊かで個性的な「海坂」の面影を訪ねます。
鶴岡は徳川譜代藩であったことから江戸の文化、北前船がもたらした上方文化、そして東北の3つの文化が混在する地域です。庄内藩の城下町であった鶴岡に中心部には、鶴ケ丘城址、鶴岡公園のほか藩校致道館をはじめとした歴史的建造物が集中しています。そんな鶴岡での藤沢文学逍遥の旅は、かつて庄内藩酒井家の居城があった「鶴岡公園(鶴ケ丘城跡)」からスタートです。鶴岡公園の桜は東北でも有数の見事さと評判で「日本のさくら名所100選」に選ばれています。映画「花のあと」の舞台です。
鶴ヶ岡城は鎌倉時代初期に武藤家が築城し、元々「大宝寺城」という名前でした。その後天正16年(1588)上杉景勝によって併呑されるも関ヶ原の戦いの後、山形城を本拠とする最上義光が隠居城として整備し、名前を鶴ケ岡城に変更。最上氏改易後、元和8年(1622)酒井家三代忠勝が信濃国松代から入城。以後12代250年にわたる酒井家統治の象徴です。続日本100名城に選定されています。
庄内神社は、鶴ケ丘城解体後、戦国時代以降、庄内をに日本有数の豊かな郷へと育てた旧藩主を慕う当時の人々の総意により庄内総鎮守として明治10年(1877)に鶴ケ丘城本丸址に創建されました。ご祭神は徳川四天王の筆頭初代酒井忠次公、二代家次公、初代藩主三代忠勝公と藩校致道館を創建された九代忠徳公を祀ります。
庄内神社の花手水鉢。感染対策として手水の使用を禁止したのをきっかけに誕生しました。
城址公園内、中の御門址には大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に建てられた「大宝館」があります。大宝館の名は、中国の易経にある「天地の大徳を生という。聖人の大宝を位という。」に由来します。オランダバロック風の窓とルネッサンス風のドームを併せ持つ完成度の高い疑洋風の大正建築。シンプルな左右対称も姿が美しく、白亜の壁と赤いドーム風の屋根が屋根が印象的です。明治の文豪高山樗牛をはじめ、日本のダ・ヴィンチといわれた松森胤保、昭和初期の日本の代表作家・横山利一など鶴岡市の郷土人物を紹介する資料館になっています。
江戸の末期の天保11年、庄内藩に突然、国替えの幕命が下ります。石高が半分にも満たない長岡藩への転封に酒井家の善政を慕っていた農民はこれに反発。この幕命にどう対処したかを描いたのが『義民が駆ける』です。結局この幕命は覆されるのですが、この時影響力を発揮したのが庄内の知恵者であり、その背景には藩校致道館の存在があります。東北に唯一現存する藩校致道館は、九代忠徳公が退廃した士風を刷新して藩政の振興を図るために文化2年(1805)に創設した学校です。名称は論語の一節「君子学ンデ以テソノ道ヲ致ス」に由来します。
当時の江戸幕府が推奨した「朱子学」ではなく、江戸時代の中期の儒学者・荻生徂徠が唱えた「徂徠学」を採用したことも画期的でした。徂徠学は古文辞学ともいわれ、古い辞句や文章を直接読むことによって、後世の注釈にとらわれずに孔子の教えを直接研究しようとする学問です。ここにも酒井家と庄内の「独立自尊」の気風が見てとれます。
当初は現在の鶴岡駅前通りにありましたが、政教一致の趣旨から文化13年(1816)10代忠器によって鶴ヶ岡城三の丸に位置する現在地に移されました。約1万5千㎡の広大な敷地には、現存する建物の他、神庫や養老堂、句読所をはじめ寄宿舎や武術稽古所、さらに矢場や馬場までありました。今では創建当時の面積の半分以下の7千㎡の敷地になりましたが、聖廟や講堂が残されています。聖廟には孔子像(聖像)が飾られています。
講堂は始業式などの時に生徒が集まる場所であり、藩主が参勤で留守の年には、2日おきに役所として用いられていました。また講堂の東側には、養老堂をはじめ現存しない校舎の主要な部分について、昭和58年の発掘調査に基づき当時の建物の間取りを平面的に表示しています。
鶴岡公園から三雪橋へ向かう途中、庄内藩家老末松十蔵屋敷跡の古い武家門の奥に建ち、異彩を放ちつつ町並みには溶け込んでいるのが鶴岡カトリック教会天主堂です。日本における教会堂の建築設計を数多く手掛けたフランス人宣教師パピノ神父最後の設計によるもので、大工相馬富太郎が棟梁となって明治36年(1903)に完成した明治洋風建築の傑作とも謳われる国指定・重要文化財です。高さ23.7mの赤い尖塔を持ち、正面幅10.08m、奥行き23.7m、木造瓦葺きの真っ白な横板張りの瀟洒な外観をもつ天主堂は、フランスのデリヴランド教会をイメージして建てられました。まるでヨーロッパの教会そのもので、聖パウロ大寺院と同じ古代ローマの集会堂を継承した長方形のバジリカ型三廊式ロマネスク様式の教会建築物で、東北地方ではこの様式最古のものです。
聖堂の中へと進めば、ロマネスク様式によるドーム型の高い天井もまた、ヨーロッパのカトリックの教会堂を彷彿させます。バジリカ型と呼ばれる鶴岡カトリック教会聖堂内部の様式は、古くローマ時代の王宮の謁見の広間の建築様式であり、礼拝集会の際建物全体に最もよい音響効果が得られる。長方形の中央部身廊(ネーブ)の高い天井と、左右側廊の低い天井には、交差する曲面で構成されたリブ・ヴォールト天井(こうもり傘天井)をもちい、四本のリブ(肋骨)で分割されている。天主堂外部にめぐるロンバルトバルトなどのアーチ装飾と見事な調和を見せる。五つの平面を持つ後陣(アプス)に、一段高く中央祭壇が据えられ、イエス・キリスト、聖フランシスコ・ザベリオ、聖テレジアの像が安置されてるが、特に二聖人の遺物を安置する教会は珍しい。唯一床が畳敷きなのが、この教会が日本にある建造物であることを感じさせてくれます。
ロマネスク寺院特有の半円形の枠におさめられた「窓絵」から、聖堂内に陽光が入り、気高い空間をつくり出しています。ステンドグラスでも色ガラスを組み合わせた絵でもないこの教会の窓の絵は、通称「貼り絵」(プリンティッド・フィルム・ステンドグラス)と言われている独特の技法でつくられた宗教画。薄い透明な紙に描かれた聖画を外側から貼り、さらにその外側にガラスを設け二枚のガラスで挟んだもので高価なステンドグラスに代えて使用したと考えられるが、現在、この種の窓絵は日本ではこの教会だけです。
聖堂左側の副祭壇に立つ日本で唯一現存する「黒い聖母マリア」は、教会の創建時にフランスのノルマンディー州デリヴランド修道院から寄贈された世界でも希少なものです。様々な奇跡やエピソードを持ったマリア像の黒い顔を説明する一つの雅歌が旧約聖書にあります。『イスラエルの娘たちよ、私はケダルの天幕のように、サルマハの幕屋のように、黒いけれども美しい。私の焦げた色に目をとっめるな。私は陽にやけた。』と。デリヴランドの町を聖母祝日に歩いたこの像は、今、異国鶴岡に祀られています。
さらに内川沿いを北へ進みます。内川は『蝉しぐれ』では「五間川」の名で登場します。鶴岡は西に青龍寺川、町中に内川が流れ、お城の外堀の役目を果たしていました。写真は開運橋から下流の千歳橋に向かって撮ったものですが、ここから月山、鳥海山、金峯山の三山を眺めることができます。
千歳橋近くには国指定重要文化財の旧風間家住宅「丙申堂」があります。庄内藩の御用商人で鶴岡一の豪商・風間家の七代目当主が明治29年(1896)に武家屋敷跡に建てた住宅兼店舗で薬医門のある商家として当時の繁栄ぶりをよく残しています。主屋には19の居室があり、合計180畳。明治27年(1894)の酒田大地震を教訓に広い板の間の梁はトラス(三角)構造に。屋敷内を「とおり」と呼ばれる長い石畳が貫き、杉皮葺きの屋根は地吹雪に備え約4万個の小石を載せた石置屋根。風間家は創業安永8年(1779)、呉服・太物を扱い急成長、明治時代には貸金業、現在は育英事業に尽力。
丙申堂より約50m北に位置するのが風間家旧別邸「無量光苑釈迦堂」です。良質の杉材を使った数寄屋風建築で明治43年(1910)、丙申堂の別邸として建てられました。建築時から上座敷に「無量光」と書かれた額が掲げられ、現当主が床の間に御石仏釈迦像を安置したことから名付けられました。無量光とは、阿弥陀仏の発する十二光のひとつで、無限の恵みをもたらす光明の意といいます。800坪以上ある庭園は必見。
最後は鶴岡公園の西側に隣接する致道博物館を訪れます。鶴岡城三の丸、酒井家の御用屋敷跡に整備された博物館。鶴岡の洋館は廃藩置県後、初代県令となった三島常庸が推し進めた近代化政策のひとつで庄内の近代化と復興を勧めるために建築しました。国指定重要文化財の旧鶴岡警察署庁舎は明治17年(1884)に完成。設計・施工は大工棟梁の高橋兼吉が務め、棟高19mの木造2階建ての擬洋風建築、和風建築の木造入母屋造りで破風妻飾りなどを施し、ベランダや車寄せ、下見板張りに上げ下げ窓などの洋風建築を取り入れており、明治新政府の警察署としての威厳が感じられる。
旧西田川郡役所は明治14年(1881)建造。明治天皇が東北巡幸のおり、鶴岡の行在所となった由緒ある建物。設計・施工は同じく高橋兼吉です。鹿鳴館時代を今に残すルネサンス風擬洋風建築で、中央玄関2階にバルコニー、建物中央には塔屋・時計塔がある木造2階建て、両翼1階建て、高さ20mを有する。外観は上げ下げ硝子窓・玄関ポーチの柱脚台と頚巻線形・軒先廻りの化粧陸垂木などのルネサンス様式がみられます。
他にも湯殿山の麓、田麦俣の多層民家、旧渋谷家住宅、酒井氏庭園など見どころが満載です。
鶴岡でのお宿「山形・鶴岡で晴耕雨読の時を過ごす!田んぼに浮かぶ水田テラス」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/17121