馬籠峠越え!石畳残る古道“サムライロード”馬籠~妻籠を歩く

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木曽路歩きの楽しみ方の一つに数百年前の旅人に自分がなってみるというのがあります。江戸時代、参勤交代をはじめ多くの武士・商人がこの道を往来しました。木曽路は道中の宿場の町並みの保存状態がよく江戸後期や明治期の建物も残っており、地域も旧街道ウォークに力を入れており、道標を立て遊歩道を整備しています。木曽谷の山並みを背景に当時の街道歩きを追体験できる舞台装置が整っています。美濃から江戸へ向かう参勤交代を描いた浅田次郎の小説『一路』の一説には「二十二里十一宿もの長きにわたって、荒波のごとく峠道が打ち続く道中など、ほかに類を見るまい。男は日に十里を、女子供は八里を歩み、二泊三日で木曽路を跋渉する」とあります。

特に江戸時代の風情を残す中山道木曽路の宿場町として人気の高い馬籠宿と妻籠宿は、車で行けば20分ほどの距離ですが、間にある標高801mの馬籠峠を越えて歩く散策路は、およそ2里(約8km弱)、木曽路の中でも旧街道の姿がよく残され、道中には男滝・女滝や大妻籠などの見どころもたくさんある人気のハイキングコースになっています。2016年イギリスの放送局BBCの番組で、俳優ジョアンナ・ラムレイが中山道が歩き、“サムライトレイル”と呼んだことがきっかけで、いまや「サムライロード」と呼ばれ、海外からの旅行者で賑わっています。東海道やそのほかの街道では江戸時代の雰囲気を感じられる宿場町がほとんどなくなっていますが、中山道の木曽路には外国人が「これぞサムライの歩いた道」と実感できる風景が、歌川広重の描いた浮世絵そのままの姿で残っています。日に十里(約40km)を歩く自信はありませんが、歴史を感じる石畳の道を昔の旅人の思いを想像しながら峠越えの醍醐味を味わってみることにしました。

江戸時代の初期に東海道と並び、西国と東国を結ぶ重要な街道として整備された中山道は、135里34町歩(約526km)に67の宿場が設けられられました。東海道より40km距離が長く、山の道も長いながら、川留めの大井川や浜名・桑名の渡しがある東海道と違い、旅程を立てやすいことなどから、皇女和宮の輿入れをはじめ、女性の行き来が多く「姫街道」とも呼ばれました。京都三条大橋を発ち、26番目落合宿を過ぎ、塩尻宿までの南北約80kmにわたる道が木曽路。木曽路巡りのバイブルともいえる島崎藤村の『夜明け前』は「木曽路はすべて山の中である」という書き出し始まる。

馬籠~妻籠間は約8km弱、徒歩で約3時間弱のコースです。標高801mの馬籠峠の妻籠宿側は約6km、標高差約370mのゆるやかな長い坂ですが、馬籠宿側は約2km、標高差約200mの急な短い坂道です。どちらから歩き始めるかは体力と食事時間との兼ね合いになりますが、おすすめは馬籠宿からのスタートです。特に見どころの多い妻籠宿側を下りながら気軽に見て歩けるので、元気のあるうちに馬籠峠まで上ってしまいましょう。ということで馬籠宿スタートで案内します。

長野から妻籠宿までは中央自動車道で塩尻ICで降り国道19号をひたすら南下するコースと、飯田山本ICで降り国道256号で清内路トンネルを抜けていくコースとがありますが、今回は到着時間が予想できる後者のコースを選びます。妻籠宿の第2駐車場に料金500円払って車を停めます。馬籠行きのバスは第1駐車場からも出ますがこちらはバス・マイクロ専用になります。南木曽町新交通システム(地域)通称ツツジ号馬籠線バスの運行は、4月28日~5月6日、7月7日~8月31日の間のみ8:42発馬籠行きがありますが、通常は10:12(馬籠10:40着)もしくは妻籠宿の観光や食事をしてからなら12:47(馬籠13:15着)があります。

馬籠バス停の前にあるのが食事・観光物産の馬籠館です。この近くには馬籠宿駐車場があります。馬籠宿だけを観光する場合は、こちらを利用してください。この向かいからいよいよ馬籠宿がスタートします。

江戸日本橋を起点に中山道43番目となる「馬籠宿」は、木曽11宿のひとつで最南端、美濃と信濃の境にあります。街道が山の尾根に沿った急斜面を通っていて、その両側に石垣を築いて屋敷を造っていることから“坂のある宿場”が特徴となっています。入口近くにある『車屋坂の枡形』と呼ばれるクランクを曲がると急峻な傾斜になります。枡形の脇にある水車小屋に宿場の風情を感じつつ坂を上りまっす。水車小屋は現在、常夜灯を灯すための水力発電所として活躍中です。

坂の土砂が流失しないように木曽石と御影石を敷き詰めた石畳の沿道には、宿場時代を彷彿させる軒の低い格子造りの木造の店が約600mにわたって連なり、観光客で賑わっています。宿場の中央には本陣、脇本陣、問屋などがおかれて大名達の宿泊に備えられたほか、旅籠や飯屋が軒を並べていました。しかしながら明治と大正に大火があり、現在の町並みは、往時の姿を再現しようと整備してできたものというから驚きです。

枡形を上がったすぐに「清水屋資料館」があります。島崎藤村の小説『嵐』に登場する「森さん」のモデルとなった原一平の家です。清水屋原家は、代々馬籠宿の組頭や役人を務めた家柄で八代目一平を信頼していた藤村は、長男を馬籠に帰農させた際、その身を託しました。

島崎藤村生誕の地であり小説『夜明け前』の舞台でもある馬籠宿からは、小説『夜明け前』で「馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。」と綴ったように振り返れば重なりあった宿場の瓦屋根の向こうに美濃(岐阜)の里が見渡せます。宿場には名物・五平餅をたべさせる茶屋が軒を並べます。代々伝わる自慢のタレをご飯を潰して作った餅に付け、狐色に焼いて供してくれます。『夜明け前』にも五平餅はしばしば登場します。馬籠で生まれ育った主人公・青山半蔵(モデルは藤村の父正樹)が、隣の妻籠から妻を迎える場面で青山家は炉端で五平餅を焼き、集まった人々に振る舞って新夫婦の前途を祝しています。そんな光景を浮かべながら茶屋で頬張るのもまた楽しいものです。

黒塗りの冠木門が目印の「藤村記念館」は、藤村が生まれ育った生家であり、馬籠宿本陣だったところです。藤村自身の願いで開かれ、明治28年(1895)の大火で焼失しましたが、昭和22年(1947)その跡地に建てられた記念館には、馬籠を舞台にした小説『夜明け前』はもとより、処女詩集『若菜集』から絶筆の『東方の門』まですべての作品が揃い、長男楠雄氏から寄贈を受けた直筆原稿や遺稿、書簡、愛用品を中心に6000点の貴重な資料が展示されています。

藤村記念館の左隣が長男の楠雄が住んでいた家で現在は「四方木屋」にその面影を残しており、右隣が名物「栗おこわ」のお店「大黒屋茶房」です。江戸時代には造り酒屋を営んでいたという重厚かつ落ち着きのある伝統建築の風格ある店構えで、小説『夜明け前』にも名物の栗おこわが登場しています。島崎藤村の詩『初恋』のモデルになった「おふゆさん」の生家でもあります。

暖簾をくぐると店内は江戸時代の図面を元に昭和に建てられた民芸風のたたずまいで、奥のテーブル席は落ち着いた雰囲気です。

地元のもち米で蒸した郷土料理“栗おこわ”をいただきます。写真は栗こわめし定食Aで、山菜や岩魚の昆布巻、吸い物にデザートととして姫りんごのワイン漬けが付いています。(1500円)

県道を渡り宿場町の北の端にある景観にあう総檜造りの建物の手打ちそば処「恵盛庵」の前からいよいよ道中がはじまります。

宿場町を出て、正徳元年(1711)に幕府から出された掟書などが再現された馬籠宿高札場の近くに展望広場があります。高札場にはキリシタン禁止のお触れもあり、キリスト教の国から来た人は興味を示すとのこと。

見晴台からは、木曽山脈最南部にある日本百名山・恵那山(標高2192m)が望めます。島崎藤村の揮毫で「心を起さうと思はば 先づ身を起せ」と刻まれた石碑があります。

県道7号線と交差しながら石畳の道や石畳の梨の木坂を上り馬籠峠を目指します。

道中には『渋皮のむけし女は見えねども 栗のこわめしここ乃名物』と詠んだ十返舎一九の歌碑が佇んでいます。一九は馬籠峠を越える前に茶店で名物の栗こわめしを食しました。ここには休憩舎やトイレもあり一息つけます。

さらに急坂を上ると、かつては馬方や牛方衆の宿として賑わった集落「峠の集落」があります。宝暦12年(1762)の大火以来、災害を免れ現在に至る名前の通り峠の上にある集落には、江戸時代末期の貴重な建築遺構が多く残されています。特に集落の中ほどにある今井家は国の登録文化財に指定されています。

集落の外れ手前の石垣の上には「峠の御頭頌徳碑」が佇んでいます。安政3年(峠集落)の牛方が中津川の問屋との間で運賃の配分の争いがあり牛方が勝ったことの牛行事(頭)の今井を讃えた碑で『夜明け前』にも登場する話です。

馬を集めた所を「馬籠」と呼び、峠の呼び名は木曽の中心地である木曽福島からみて越えた向こう側集落をさしたことから「馬籠峠」と呼ばれるようになりました。「峠の頂上」は標高801m、北は高い木曽の山々、南の方は平な野原の多いと藤村が書いた美濃の平野です。

峠の茶屋では、五平餅やそばといったおなじみの郷土料理が並び、間食から昼食にまで利用できます。ここで飲料類を補給するものいいですよ。

そのすぐ脇にはひっそりと『白雲や青葉若葉の三十里』と読んだ正岡子規の句碑があります。

馬籠峠を越え未舗装の下りがしばらく続いた後、開けた場所に出ます。「一石栃立場茶屋」に立ち寄ります。立場とは宿と宿との間にあった休憩所のことで、往時は7軒ほどの家があって栄えていましたが、今では牧野家一軒になり、茶屋を利用した無料休憩所です。江戸時代後期に建てられた牧野家住宅は当初は間口が十間半もある大きな建物でしたが、現在は南側が切り取られて8間に縮小されています。囲炉裏もあり、ここでお茶を一服いただいて旅人の気分に浸ります。

茶屋の隣にあるのが「一石栃白木改番所跡」です。木曽檜は、古来伊勢神宮のご神木でした。式年遷宮の際には、伊勢の方角に木が倒れないよう、伐採の角度まで配慮されていたといいます。寛延2年(1749)から明治2年(1869)までは、尾張藩が伐採禁止木を使った木材などの移動を監視していました。「檜一本首ひとつ、枝一本腕ひとつ」といわれたほど、周辺の山はほとんどが尾張藩のもので木曽檜・サワラ・翌檜・高野槙・ねずこの木曽五木にケヤキを加えた樹種の伐採を無条件で禁止していたのです。本来は木曽檜だけを御禁制にしたかったようですが、判別が難しい故に五木共々になったそうです。番所は最初下り谷に設置されていましたが、蛇抜けによってここ一石栃に移転したことが『木曽谷諸事覚書』には寛延2年(1749)のことと記されています。

しばらく杉林の中を歩くと説明板があります。サワラの大樹(神居木)と呼ばれるもので別名天狗の腰かけといいます。下枝が立ち上がって特異な枝振りとなっている針葉樹を神居木といい、昔から神様が休む場所と信じられてきました。また傷つけたり切ったりするとたたりがあると伝えられてきました。

石畳の風情ある峠の入口の道標

男垂川の瀬音を聞きながら心地よい林の中を歩いていきます。

木の橋を渡り県道に出たところからしばらく男垂川沿いに県道を歩きますが。途中「男垂国有林」の説明板を右に上っていく道が本来の中山道なのですが、ここはそのまま道なりに歩き「男滝女滝」の大きな案内板から急坂を下っていきます。木曽に街道が開かれて以来、名所として旅人に親しまれてきた憩いのスポットでした。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じていますが、なお往時の姿をとどめています。吉川英治の小説『宮本武蔵』の中で主人公・武蔵とお通のロマンスの舞台となった名勝です。また滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっています。

滝に向かって左が男滝、右が女滝です。小川に架かる橋から「女滝」を眺めると、滝と森林が織り成す清涼感はまた格別です。女滝と比べると水量が多く、迫力のある「男滝」も森に囲まれて涼しげです。滝壺の近くまで下りて間近で見上げると、マイナスイオンを含んだひんやりとした風が顔にあたり心地よいです。

下り谷の集落の手前に「倉科様祖霊社」があります。天正14年(1586)、松本城主・小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌は、このあたりで地元の土豪たちに襲われ、従者30余人とともに全滅させられ、その霊を祀っています。

下り谷の集落を過ぎ林の中、つづら折りの石畳の道を下ります。沿道には石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため黒牛が使用されましたが、その黒牛の供養塔が牛頭観音として祀られています。

大妻籠」という出梁造り、卯達のある旅籠が昔ながらに残る間宿で、風情のある民宿が並ぶ集落を通ります。中にはご婚約前の秋篠宮妃紀子様が大学のサークル活動で合宿された民宿もあります。

大妻籠看板を見て神明集落を過ぎ、さらに心地よい山道を下れば、男垂川と木曽川の支流、蘭川の合流する大妻橋を渡ります。

道の少し奥、民家の庭先に「石柱道標」が立っています。明治25年に賤母新道が開通するまで馬籠~妻籠~三留野を通る中山道は古くから幹線道路として重要な役割を果たしていました。ことに妻籠の橋場は「追分」とも呼ばれ、中山道と飯田街道との分岐点として栄えたところです。この道標は明治14年(1881)に国道開通を祝い、飯田、近州、地元の商人によって建てられたもので、高さ3mあまりの大石柱です。

蘭川の谷に今回のゴール、妻籠宿があります。中山道69次のうち江戸から数えて42番目となる「妻籠宿」は、江戸時代末期の家屋が立ち並び、その趣は風雪に耐え時代を乗り越えてきた風情を色濃く残しています。昭和51年(1976)には国の重要伝統的建造物群保存地区の第1号に指定されています。

第1駐車場と第2駐車場の間の階段を上がると下町です。町は木曽川の支流の蘭川に沿って、北側から恋野、下町、中町、上町、そして光徳寺門前の寺下地区などを中心に形成されていて、約800mの間に約140棟の町家が軒を連ねています。

左手に坂を上ると「水車小屋」があり、その先の北側の入口付近に復元された「高札場」があります。今日でいう「官報掲示板」で幕府が庶民に対し、禁制や法度等を示したものです。

南に妻籠宿を歩いていくと、中町の右側に「脇本陣奥谷」があります。脇本陣とは、大名などが泊まる本陣の予備施設です。手広く商いを営んでいた妻籠の名家のひとつ林家(屋号奥谷)が代々脇本陣・問屋を務め所有していました。現在の建物は明治10年(1877)に総ヒノキで建て替えられたもので、明治天皇も旅行中、休憩をとられた。島崎藤村の初恋の相手「おゆふ」さんの嫁ぎ先でもあります。幕府の終焉とともに宿駅制度も消滅し、商売を持たず持たず没落する本陣旧家が多いなか、この脇本陣は酒屋を兼業していて残ったのです。

その斜め向かいには冠木門の構えが目をひく「妻籠宿本陣」があります。本陣は大名、幕府の役人、公家といった格式の高い者が使う宿で、島崎家が任命され、明治に至るまで250年に渡って本陣、庄屋を兼ね務めていました。島崎藤村の母の生家で、次兄広助が養子に入っています。昔の本陣は消失しましたが、偶然発見された図面を元に平成7年(1995)に復元されました。

江戸時代の初めに制定された宿場は、一種の城塞の役割を持たされて整備され、宿場の出入口には必ず“枡形”が設けられました。宿場の枡形とは、街道を二度直角に鉤形に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたものです。この妻籠宿中ほどの上町と寺下の間にある枡形は、明治32年からの大平街道の改修工事により、その上部斜面を掘り割られていますが、よく当時の姿を伝えています。

枡形の上段には、やじさんきたさんのお話の残る黒又屋(上丁字屋)があります。

また枡形の前、寺下地区の土道に面したところに「松代屋」が佇んでいます。創業は享和4年(1804)と伝えられ、御嶽山に参詣する講で栄え、その名残が軒先のまねき看板に見えます。勝新太郎の映画『座頭市』にも旅籠としてそのまま登場しています。格子造りの外観やふすまで仕切られた和室など当時の建物を大切に保ちながら今に伝えています。

特に写真の「寺下の町並み」は日本で最初に宿場保存事業が行われた妻籠宿保存の原点ともいうべき美しい町並みです。出梁造りや堅繁格子など旅籠風の家並みが約800mにわたり軒を連ねます。このエリアは一段高くなっているのが特徴で、水害にあった経験から道がかさあげされています。

屋内唯一とされる、石仏「寒山拾得」像の双体像は他に類がありません。

中山道と伊那街道が交差する交通の要綱として古くから賑わいを見せていた街道筋には曲げ物や木櫛、五平餅、栗菓子といった“木曽もの”の店が目白押しに並んでいますよ。

寺下の町並みの南の端に発電所がありますが、その手前に蘭川にかかるレトロな橋は「尾又橋」です。立札には「告 通行人は左の橋を渡るべし 妻籠宿役人」と書かれ、隣の木橋を歩けば江戸時代の雰囲気が味わえます。

尾又橋からは蘭川を利用した小規模な水力発電の施設の様子が少し垣間見えます。

旅の疲れには、築100年の町家を改装した格子戸の美しい甘味処が「茶房 ゑびや」です。

妻籠宿で一番古い茶房で、格子の窓越しに宿場を眺めながら座敷で甘味が楽しめます。小豆から炊いて作る自家製のあんと栗を使った栗ぜんざいや栗あん汁粉、県内産の寒天を使ったクリームあんみつなど、約8kmの峠越えで疲れた体と心が喜ぶメニューです。5月~9月までの夏場限定のメニュー・氷ぜんざいはシャーベット状にしたぜんざいのシャリシャリとした歯触りが絶妙です。

島崎藤村が小説『夜明け前』の冒頭で“木曽路はすべて山の中である”と記した通りの風景は今も変わっていません。そのままの木曽の自然に抱かれて歩く木曽路の拠点であり、江戸時代さながらに宿場情緒が漂っているのが妻籠宿と馬籠宿です。

アクセスは、車利用の場合は中央自動車道中津川ICから国道19号経由が便利ですが、電車利用の場合は妻籠宿へJR中央本線南木曽駅からバスで7分、馬籠宿へはJR中央本線中津川駅からバスで25分です。妻籠~馬籠間は馬籠峠経由でバスで30分です。

今回紹介したのは、体力に自信のあるお元気な方向けの約8kmハイキングコースですが、体力と時間のない方は、馬籠(妻籠)から峠までバスで行って下り坂のみ歩いてみることもできます。

 

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