石楠花に彩られ龍神と空海の伝説残る聖域、室生寺と岡寺へ

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奈良県宇陀市室生にある真言宗室生寺派大本山室生寺は、“女人高野”の名で知られ、高野山が女人規制なのに対し、古くから女性に開放された名刹です。奥深い山と渓谷に囲まれた室生の地は、古くから神々の坐ます聖地と仰がれていたパワースポットでもあります。鬱蒼とした山峡に不規則の堂塔が立ち並ぶ大自然に抱かれた室生寺は、日本有数の優雅さと気品に満ちています。また仁王門から金堂、山上の御影堂に至るまでの石段に、左右から優しく包む見事なシャクナゲが3000本も植えられていて、4月下旬から5月上旬、貴婦人のように鮮烈に花をつけ、葉は下向きにくるりと巻いて花を引きたてます。まるでシャンデリアの参道のように華やぐ石段を歩いて今も女性に大人気の女人高野の絶景に癒されてみませんか。

室生龍穴神社とつながりが深く、龍神と空海の伝説が残る室生寺へ。室生川沿いの参道には、茶屋や土産物屋、料理屋が並び、宇陀川に注ぐ室生川に架かる朱の太鼓橋を渡ると境内です。写真家の土門拳が生涯を通して愛し、心血を注いで撮影し続けたのが、大和屈指の名刹「室生寺」であり、常宿としたのが橋の袂の橋本屋です。

表門の白壁の向こうに清々しい杉木立が聳えるのが見え、橋を渡った先が浄土かとのを印象を受けます。真言宗室生寺派大本山室生寺は、白鳳9年(680)に天武天皇の勅命をもって修験道の祖・役小角が初めて建てたと伝わります。山号を「宀一山(べんいちさん)」といい、「室生山は天下無双の霊地、日本第一の秘所」と室生寺の『宀一縁起』に書かれています。また延暦年間(782-806)に皇太子・山部親王(のちの桓武天皇)が病に伏せたとき、病気平癒祈願のために奈良・興福寺の僧が訪れこの龍穴の前で祈祷を行ったとあります。その後、病が治ったことから勅命で興福寺の高僧賢環が弟子の修園とともに「室生寺」を建てたといいます。さらに承和2年(835)に弘法大師空海が遺言された『御遺告』には唐の師・恵果から授かったインド伝来の如意宝珠を室生山で修行した堅慧に託して、善女龍王の棲む精進峰に大切に納めたと伝わります。

女人高野の名で知られる古くから女性に開放された名刹で、橋の袂の石柱には「別格本山女人高野室生寺」の文字が彫られています。空海の開いた女人禁制の高野山に対し室生寺は、江戸時代5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の力添えで女性の参詣が許されるようになりました。

拝観料600円を払い境内に入ると、左手の表門辺りには、写真の護摩堂をはじめ知水庵、書院、本坊そして慶雲殿などが立ち並んでいます。そしてその前の石畳の参道沿いには、シャクナゲが百花繚乱しながらも清楚な佇まいを感じさせながら花のトンネルを作っています。室生寺のシャクナゲは、町中の花屋さんの店頭に並ぶセイヨウシャクナゲと違いすべて日本産のホンシャクナゲで室生に自生しているもののほか、吉野地方から移植されています。色彩は地味ですが葉は下向きにくるりと巻いて派手さはなくとも心が和みます。

受付方向に戻り、今度は右手の仁王門を過ぎると、別世界が開けます。奈良の巨大寺院の整然とした七堂伽藍と違い、室生寺のそれは山と山の谷間に小ぶりのお堂が、やっと平らな地を見つけて点在しています。

小高い丘の上に金堂が建ち、なだらかな石段が、上の方までつづいて行く。これがいわゆる「鎧坂」で、鎧のさねが重なったように見えるところから名付けられたといいます。大和三名段の一つ(あとの二つは談山神社と佛隆寺)とされる自然石が配された急な「鎧坂」は、五重塔にかけて両側にシャクナゲの花が咲き誇ります。

シャクナゲの花の色は濃く鮮やかな紅色から薄桃色になり、白に近い色になってやがて散っていきます。「鎧坂」を登りだすと石段の頂に「金堂」の屋根が見え、蓮台の上に、ゆったりと座した仏像のように美しく、室生寺の序章とも言える美しい景観を是非堪能してみてください。

その金堂の手前、右側に小さな拝殿があります。奥に小さな天神社が見えますが、この拝殿はその天神社をお参りするものではなく、古くから龍神様をお参りする遥拝所で、妙吉祥龍穴の方向を向いています。

また向かいに建つ弥勒堂は、三間四方の杮葺きの堂で、修園が興福寺に創設した伝法院を受け継いだものと伝えています。他のお堂がすべて南向きに建てられているのですが、拝殿の方、つまり東を向いています。鎌倉時代に南向きに建てられたのを、室町時代に東向きになったようで、その時から龍神様への祈祷が行われていたのではと考えられています。昭和28年(1953)の修理の際、須弥壇の下と天井裏から宝篋印塔型の「籾塔」という高さ10cmほどの木製小塔が3万7000基4余りが発見され、このお堂の中で、おそらく雨乞いや五穀豊穣への御祈祷が行われていたのでしょう。見つかった籾塔の膨大な数からも室生寺が龍神信仰の重要な場所であったことが伺えます。

金堂は平安時代初期の建築で、正面側面ともに五間の単層寄棟造り、杮葺き。前方を囲む礼堂部分は内陣に安置された仏像を拝むために徳川時代に桂昌院によって増築されました。礼堂部分が斜面に張り出し、床下を長い束で支える「懸造」と呼ばれる手法で建てられています。正面から入る階段はなく、左手の石段を上り、左横の入口から回ると、金堂五仏が迎えてくれます。

内陣には、堂々とした榧の一木造りの御本尊・釈迦如来立像を中心に、木の特徴を生かした、平安初期の金銅五仏像が林立し、参拝者を圧倒します。中尊の釈迦如来立像は均整のとれた堂々とした姿で、朱色の衣は大小の波が打って流れるような独特の衣紋で漣波式と呼ばれる。光背は華やかな繧繝彩色が用いられ、印相が同じ七仏坐像と宝相華や唐草文が描かれています。右に桧の一本造りの薬師如来立像、左に桂の一本造りの文殊菩薩立像が並びます。左側に立つ華麗な十一面観音像は、ほぼ等身大の一木造りの像。女性に特に人気が高く、下ぶくれしたふくよかなほおに小さな受け口、童顔のようでいて艶と深みのある神秘的な像です。

ニッポンの 奥へ、奥へと、室生寺へと                                           ほの暗い闇に、凛とした気配が満ちている。居並ぶ仏像群は静止したまま、語り、問いかけ、躍動し、尽きることのない慈愛を人の世に伝える。さまざまな進歩を叶えたいまだからこそ、忘れてはいけない記憶がある。室生寺には。美しく尊い日本固有の時が佇んでいる。JR東海「うまし うるわし 奈良」より

本尊の背後にある大きな板壁には、珍しい帝釈天曼荼羅図が描かれています。室生寺が、藤原文化の宝庫といわれる所以がわかります。

その前の諸仏の膝あたり、まるで歌舞伎役者か中国京劇の俳優が見得を切っているかのようなユーモラスな12人の異形の武将“十二神将像”の一列に並ぶ姿は壮観です。薬師如来の従者として、昼夜十二時に十二の方位を守る十二神将は頭上に十二支の動物を付け、誇張された自由な姿態の表現は鎌倉時代中期の特色。なんといっても博物館のように厳重なケースの中にあるのではなく、手をのばせば触れらそうな近さが仏像好きにはたまらないお堂なのです。

金堂の裏手を少し登った台地に、室生寺の本尊日本三如意輪観音(観心寺(大阪府)、神咒寺(兵庫県))の一つ、平安初期作の如意輪観音菩薩座像を祭る灌頂堂(本堂)が建っています。建立は鎌倉時代・延慶元年(1308)、五間四方の入母屋造り、和様と大仏様の折衷建築様式で、内陣と外陣は板扉で仕切ることができます。真言密教の最も大切な法儀である灌頂(カンジョウ)を行う堂で、真言寺院の中心であるところから本堂とも呼ばれ悉知院の扁額が掛けられています。

山寺の寺院らしく金堂、弥勒堂を見て石段を上ったところに本堂(灌頂堂)、さらに石段を上ると五重塔があります。点在する小ぶりなお堂を神々しいばかりに美しく飾っているのが、石段と左右から優しく包むシャクナゲです。通常の石段より幾分狭く、細かい感じで、その軽快な階段の果てに優美な塔をあおぐ景色は、室生寺の中で圧巻の景色です。平安時代初期(800年頃)に建立されたとみられ、法隆寺五重塔に次ぐ古塔であり、室生寺中最古の建造物でもあります。

弘法大師が一夜にして建立したと伝承され、観光ポスターにもよく登場する国宝の五重塔は、総高16.1mと屋外のものでは国内最小「手のひらにのるような」と言われていて、通例の五重塔の三分の一で設計されています。それがけっして小さく見えない秘密は、石段のせりあがりにあるとのこと。桧皮葺の屋根や丹塗りの組物と石段の調和のとれた造形は、たおやかで控えめな佇まいですが、奥深い樹林に包まれ、その前面をシャクナゲが彩りを添え、王朝の佳人にめぐり合ったような格別の風情があります。

塔頂上の相輪は、九輪の上に普通は水煙を置くが、受花つきの宝瓶を置きその上に花笠のような八角形の宝蓋が乗り、そのまわりに小さな風鐸が吊りめぐらされている他に類がない塔なのです。宝瓶には室生の龍神を封じ込めているとされています。

春の石楠花(シャクナゲ)の時期には五重塔の後ろから灌頂堂を見下ろすと、低木のハナズオウの紅色が彩りを添えてくれています。

五重塔から室生寺奥の院に至る杉の巨木が鬱蒼と立ち並ぶ急な石段は、さながら天に昇る龍の背のようです。約370段ある石段は、女人高野にふさわしく段差は小さくしてありますが、息を弾ませながらを上っていきます。上りきった先に常燈堂(位牌堂)の舞台造りが目にはいってきます。

清水寺風の舞台造りで、回廊の上からは、上ってきた“女坂”といわれる石段を眺めることができます。高い所が苦手という人は見ないほうがいいでしょう。

奥の院のメインは、位牌堂の正面にある弘法大師四十二才の像を安置した小さなお堂「御影堂」です。鎌倉時代の作で方三間の単層宝形造、厚板段葺で、頂上に石造りの露盤が置かれています。これは弘法大師が住んでいたと言われ、高野山で最重要聖域とされる高野山御影堂の形式を伝える唯一の建物でめずらしいお堂です。各地にある御影堂の中でも最古の一つです。

写真の御影堂の向こうに見えるのが、諸仏出現岩と言われる岩場の頂上に建つ七重石塔です。

室生寺の参道には料理旅館、よもぎ餅を売る店が並びます。特に室生寺に来たら外せないのが、五木寛之著『百寺巡礼』でも紹介された室生名物「草もち」なので是非食べ歩きをしてみましょう。小ぶりの草もちののどごしはよく、粒餡は甘すぎず薄すぎず程よい甘さで、たっぷりのよもぎを練り込んで風味も最高です。焼草もちも独特の香ばしさで人気ですよ。また栄吉で蓬入り回転焼き(100円)はよもぎの香りがして美味しい。

次に龍の伝説を持つ岡寺を訪れる。明日香村の中心地であった岡の集落で、古民家が残る町並みから東に向かって坂を上って行くと岡山の中腹に位置する岡寺の仁王門に着きます。飛鳥時代末から奈良時代初めの天智天皇2年(663)に天武天皇(大海人皇子)の皇子である草壁皇子の岡の宮を法相宗の義淵僧正が拝領して天智天皇の勅願によりに創建されたのが厄除で有名「岡寺」で正式名称は東光山龍蓋寺といいます。

義淵僧正は奈良東大寺の基を開いた良弁僧正や菩薩と仰がれた行基等多くの先駆者の師として知られています。また『扶桑略記』には、義淵僧正は父母が子宝を観音様に日々祈った結果として生まれたとされ、この噂を聞いた天智天皇は岡の宮で草壁皇子と共に育てられました。飛鳥の里を望む境内には本堂、書院、大師堂などが並びます。

義淵僧正は優れた法力の持ち主であり、この寺の近くに農地を荒らす悪龍がいて、法力によって小池に封じ込め、大石で蓋をしたという伝説が原点になっており、岡寺の正式名称「龍蓋寺」の原点になっていて、本堂前に「龍蓋池」が今もあります。

西国三十三ヶ所第七番札所として信仰を集め、また龍蓋寺の伝説が「災いを取り除く」信仰に発展、日本最初の厄除け霊場として、内大臣・中山忠親の作と言われる歴史物語『水鏡』の書き出しに「厄年の時の二月の初午の日に岡寺へお墓参りするとよい」と記載があります。厄除け観音として信仰を集める岡寺参詣の最大の魅力は、なんといってもご本尊の如意輪観音菩薩坐像(重要文化財)です。弘法大師の手になるという、日本、中国、インドの土で造ったとされる高さ約4.85m、日本最大の塑像は、奈良時代末期の作といわれ、くっきりとした目鼻立ちの豊満なお顔が、中国唐代の仏像に通ずるところがあります。

この時期は、約3000株のシャクナゲがピンクの花を咲かせるとともに、献花されたお花を手水舎や池に浮かべる「華の池~水面に浮かぶ天竺牡丹~」と銘打って水中花が境内を鮮やかに彩ります。

花を愛でながら奥の院へ。弥勒菩薩が坐す石窟を拝し、義淵僧正廟所、高台に建つ三重宝塔から飛鳥の里景色を眺めるなど、ゆっくり参拝してまわります。

岡の集落に戻って予約しておいた「cafe ことだま」でランチを兼ねてひと休みです。築200年弱の元酒蔵の母家をオーナーがセルフリノベーションした店舗は、古い調度品が配された静かで趣のある落ち着いた佇まい。館内には地元のクラフト作家のギャラリーショップも併設。

テーブルがゆったりと配置され、奥の格子窓からやさしい光が差し込んできます。

毎朝仕入れる明日香の旬の野菜を中心にした「ことだまランチ」は、銀色の重箱に盛り付けられた鶏のから揚げ、キッシュやペンネなど食材の見た目も美しく、郷土料理の飛鳥鍋をヒントに合わせ味噌と牛乳で作った飛鳥汁やおかず味噌をのせたごはんも付いてボリュームもしっかり。

旬を味わえるデザートも付けることができ人気です。

龍の棲むまち、奈良県宇陀市室生へ!龍神様と出会う開運の旅」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/15679

 

 

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