美く厳かな杉並木に迎えられ、霊験あらたかな羽黒山を歩く!

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日本各地を守護するように点在する山岳霊場の中で、山形県の中央部に位置する月山(1984m)を主峰とする羽黒山(414m)湯殿山(1504m)の出羽三山は、今も山の霊場の雰囲気を残しています。1400年以上前、崇峻天皇の第三皇子で聖徳太子の従兄弟である蜂子皇子によって開山したとされ、熊野と並ぶ修験道の霊場を巡ることで死と再生を体験できるという出羽三山。日本遺産「自然と信仰が息づく『生まれかわりの旅』~樹齢300年を超える杉並木につつまれた2446段の石段から始まる出羽三山~」に選出されています。

その出羽三山に参拝することを「三関三渡」といい、現在、過去、未来の三つの関を乗り越えて、生きたまま悟りを得られるという巡礼の旅です。羽黒山は人々の現世利益を叶える「現在の幸せを祈る山」、月山はその高く秀麗な姿から祖霊が鎮まる「死後の安楽と往生祈る山」で過去を表し、月山に登って死後の世界を体験します。そして湯殿山はお湯の湧き出る赤岩の巨石が新しい生命の誕生表す「生まれ変わりを祈る山」で未来を象徴します。訪れる信者が身に着ける白い装束は、死装束と産着を意味していて、羽黒修験がつくりあげた東北の異空間に、心と体をゆだねる旅に出かけてみます。

修験道というのは、日本の宗教の中では、戒律や修行が最も厳格な宗教のようで、もともと山岳信仰から生まれた仏教の一派です。役小角という超能力者が開祖とされ、山野を駆けめぐるきびしい修行を通じて、自然の生命力を身心を駆使することによって体得し、この修行の成果である眼力をもって呪術的な祈祷をはじめ、身体感覚の伴う救済活動を行おうとするものです。今から1400年ほど前の推古元年(593)日本海沿岸から上陸し、羽黒山に籠山修行を実践したと伝えられる崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子(能除太子)を開祖とする修験道の一派、羽黒派古修験道は羽黒山を出羽三山の中心に位置づけ本山とし、江戸期には32坊、108の堂舎、ふもとの手向村には360坊が建ち並ぶほど繁栄していました。

聖観世音菩薩を奉安する羽黒山を現在、阿弥陀如来の浄土である月山を祖霊の鎮める過去ととらえ、三山の総奥の院として三山修行の究極の地に位置づけられた薬師瑠璃光如来の浄土、湯殿山を未来としてとらえたのです。この三山を山に身をゆだね、山谷を駆け巡ることによって密厳浄土にまみえ、即身成仏できるとした「三関三渡」の思想が、出羽三山信仰をささえてきました。明治初めの神仏分離によって三山は出羽三山神社となり、月山の祭神は月読命で夜の国を治める神様で月山は霊魂が最後に行くと言われる信仰の山、つまり黄泉の国であり、羽黒山は月山すなわち黄泉の国へ行く入口みたいな所で、湯殿山は生まれ変わり、再生の出口なのです。

鶴岡市街から車で40分ほど、田園を貫くように500m程の直線道路の先に道を跨いで建つ赤く巨大な鳥居を見ることができます。羽黒山の入口にそびえる高さ20m、幅15mの東北最大の出羽三山神社の大鳥居です。北側から見ると背後に月山の優美な姿が拝め、水田の広がる庄内平野に凛と聳える赤い鳥居は美しい。鳥居から先が、羽黒山の神域であり、その鳥居をくぐると坂道にかかり、メインの道路を左折すると宿坊街・手向の集落。手向は「トウゲ」と読み、本来山道を歩いていて、道祖神に手向けをすることから転じているものと考えられています。以前は東田川郡羽黒町の字名であったところで、家の半分近くが宿坊みたいな町です。宿坊は寺社参詣の際、信者が宿泊して精進潔斎するための施設で、出羽三山にはその集落が数カ所ありますが、なかでも手向は羽黒山の入口に位置し、規模も大きいのです。松尾芭蕉が出羽三山を巡拝した際、世話したのがこの地に住み山伏の法衣を染める染物師である図司佐吉(俳号・呂丸)です。

道路を挟んだ左右に「○○坊」「××坊」と大書した看板と、冠木門を構え、軒先に注連縄を張った家々が並んでいて、建物は一種独特な構えで、神社のようでもあり、寺のようにも見え、旅館のようでも、あるいは普通の民家のようでもあります。坂をかなり上のほうまで登った先を左に曲がると出羽神社参道である。宿坊と呼ばれる宿泊施設はもともと修験道の講を取り仕切る神官や修験者の家だったものが、現在は旅館業に近い営業形態になっているとのこと。羽黒山の講は箱根から東、関東以北の33ヶ国を布教の場と定め、宿坊それぞれの受け持ち場が決められていて、その地域を「霞場」といいます。そこで集まった信者は講をつくり、出羽三山を参詣するときには、特定の宿坊に泊まるのです。箱根から西は熊野とか大峯山に行くといい、西の伊勢参りに対して「東の奥参り」と言われました。因みに写真の「大進坊」は約350年の歴史を持ち、千葉県東部に霞場を持つ宿坊とのこと。路地、松、黒塀、鳥居、宿坊、そして清々しい空気と、手向には独特の空気が流れています。

手向集落には、明治の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた時、難を逃れた羽黒の仏像や仏具のうち多くが集められた「羽黒山正善院黄金堂」があります。羽黒山五重塔の中に祀られていた観音菩薩、妙見菩薩も安置されています。神亀5年(728)聖武天皇勅願建立とも、建久4年(1193)源頼朝建立とも伝えられる、代々続く山伏の寺で、黄金堂の由来は、羽黒山上の大金堂にたいする小金堂が、本尊として祀られた三十三体の観音像が金色に輝いて見えたからだと言われています。

いよいよ出羽三山参詣の入口である「羽黒山」を目指すことになります。車では急なカーブの多い坂道を登って参詣道のゲートから先、「ドライブウェイ羽黒山」という出羽三山神社までの有料道路を通ることで頂上に行けるのですが、一般的な参拝は、まず羽黒山の隋神門から山頂まで杉並木を眺めながら、2446段の石段から始めます。そのため参詣道の入口近く「いでは文化記念館」の近くに車を停めます。ここでは出羽三山1400年の歴史、羽黒修験道の特徴や文化を展示紹介しています。江戸時代から続く伝統的な山伏の装束は、不動明王の台座を表し、獅子の紋様が染め抜かれている。強力な神仏、霊獣の加護に守られて山伏は生命の極限に挑みます。

いよいよ出羽三山の入口である羽黒山に向かいます。西の伊勢参りに対して東の奥参りと称された出羽三山参りの隆盛の礎を築いたのが、江戸時代の傑僧第50代別当の天宥法印です。熊野古道を参考にして参道を改修して、現在も残る2446段もの石段を整備し、杉を植え並木を造り、祓川に落ちる須賀の滝を造ったのです。まずは山麓の随神門から五重塔を目指します。ここから先は神域となり、樹齢350年~500年、400本以上の杉からなる山頂に至る約2Kmの表参道は『ミシュラン・グリーンガイド・ジャパン』三ツ星に認定されています。神域は羽黒山、月山を越え湯殿山まで広がることから、隋神門はその表玄関といえ、明治の神仏分離までここに仁王像が安置されていました。山に入った瞬間凛とした空気が身を包み、心身が引き締まります。

随身門を潜ると石燈籠が左右に立ち並ぶ参道にでます。国際的な名所となったこの石段を歩くとき、もうひとつの楽しみがあります。この石段を作った昔の人の遊び心なのか、ひょうたんや盃、蓮の花など、石段のところどころに彫られた33個の小さな絵をすべて見つけることができると、願いが叶うのだといいます。足元の石段に彫り絵を探しながら歩いていきます。

この参道がしばらくは、継子坂という急な石段の下りが続くことに驚かされます。下りきったところに祓川が流れ、六つの末社が立ち並ぶ場所からすぐのところにある祓川に架かる鮮やかな朱色の太鼓橋・神橋を渡る。緑の杉の木と朱色の神橋のコントラストが美しい。三山で行をする人、山伏たちは祓川で禊を済ませていきます。祓川は三途の川とも言われ、生と死の境界線を表し、この川で罪や穢れを洗い流したとされます。

神橋を渡ってすぐの右手には、天宥が月山から水を引いて造った「須賀の滝」があり、明治以前は仏教らしく不動の滝と呼んでいたとのこと。清らかな滝の音が心地よく心に響く。

祓川から登り坂になり、この先、天宥が植えた樹齢350年~600年を越える杉が、400本以上も並び、樹高も優に30mを越え、森閑とした林を成している神々しい杉木立に挟まれた石参道は、勾配が緩やかな箇所ときつい箇所とが交互に現れます。

隋神門から約15分ほど、杉並木の参詣路の半ば辺りには、ひときわ大きく目を引く高さ42m、樹齢千年以上と言われる天然記念物「爺杉」が天に届けとばかりに真っ直ぐに伸びています。

その爺杉の向こうには杉の巨木に囲まれ、まるで杉と高さを競うように建つ国宝・「羽黒山五重塔」の姿があります。風雨にさらされた古色蒼然とした色合いが、杉の木肌に似て木立に溶け込むような佇んでいます。承平年間(931~938)に平将門が創建したと伝えられ、約650年前の応安5年(1372)に再建された東北最古の塔です。高さ29.4mの三間五層柿葺で色彩を施さない素木造という伝統的な手法による均整のとれた優美な姿です。 

JR東日本「大人の休日倶楽部」山形・修験の山編では、 『たとへば、庄内で修験の山に入る。いまも山岳信仰が息づく修験の聖地、庄内・羽黒山。出羽三山では、羽黒山が「現在」、月山が「過去」、湯殿山が「未来」を司り、自らを死者と見なした白装束姿の山伏が三山を巡ることで、新しく生まれ変われるといわれます。山に伏し、山に力をもらう。自然から遠ざかった暮らしの中で、いつのまにか忘れていた大切なことを、山は静かに教えてくれます。心も体も自然に帰る旅へ、あなたも。』

“今もなお山岳信仰が息ずく出羽三山のひとつ荘内羽黒山。なぜ人はここに来るのかその理由はきっと山が教えてくれます。”と吉永小百合さんが眺めています。

祓川から上りに転じた石段は、五重塔の前から一の坂、二の坂、三の坂と急勾配の石段が続きます。石段の左右に林立する樹齢三百年から五百年もの杉並木を仰ぎながら上る雰囲気は霊山を巡るスタートにもっともふさわしく、さすがミシュラン・グリーンガイド・ジャポン三ツ星です。二の坂で急に勾配を増します。別名「弁慶の油こぼし坂」といわれ、昔は油のような液体は、てんびん桶を担いで登ったわけですが、弁慶ですら勾配のきつさに体を傾け、油をこぼしてしまったと伝えれますます。比叡山西塔の「弁慶のにない堂」といい弁慶にはてんびん桶が似合うのでしょうか。

二の坂を上り切ったところにあるのが「二の坂茶屋」で、江戸期に石段ができた当時から、この場所で信者たちを迎えています。名物は餅にあんをまぶした力餅なのですが、あいにく今は朝の5時40分、この時間まだ開業していないのは当然か、残念です。しかしきつい石段を上り、汗を吹き、息を切らせた身には、何ともありがたい休憩の場所なのです。

一息ついて最後の三の坂にとりかかる。三の坂の手前を右に折れて300mほど進んだ先に、南谷別院(玄陽院)跡があります。元禄2年(1689)6月松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅の途中に門人曽良と月山泊まり以外の6泊を南谷の別院で過ごしました。羽黒山の別当代会覚阿闍梨(和合院)から格別のもてなしを受けた芭蕉はここでのことを、「有難や 雪をかほらす 南谷」と詠んでいて、文政元年(1818)に立てられた芭蕉句碑が残っています。また心の字に見える「心字池」もあります。

また滞在中に出羽三山と総称される3つの山を残雪を踏みしめ巡拝し、坊に帰った芭蕉は会覚阿闍梨に請われて、霊山から受けた感銘を短冊に記しました。「涼しさや ほの三日月の 羽黒山」「雪の峰 幾つ崩て 月の山」「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」二の坂茶屋のすぐ先に芭蕉三日月碑があります。

隋神門をくぐってから約1時間、日も高くなり、気が付けば全身が汗ばんできています。しかしこの三の坂を上れば頂上です。

この杉並木の石段は、曲がりくねってのびているため、もうすぐ頂上と思いながらがんばって登ると、また石段が続いていく。。歩きながら現世の幸せを考えるためにこうした構造で造られ言われていて、朝陽が差し込む静寂な羽黒山の森で「現世の幸せ」を感じるには朝一番がベストです。

清涼な森の空気の中、息を整えて三の坂を上り切ったところには羽黒山参籠所「齋館」があります。もとは華厳院といい、元禄10年(1697)の再建で、高僧の住居でした。江戸時代には30余あった宿坊のうち、明治の神仏分離の際に取り壊されず残った現在、山内に今も残る唯一の院坊であり宿坊となっていて、往時の姿を偲ぶことができます。ふと足を止めると、聞こえるのは、2446段を上ってきた小生の呼吸音と鳥のさえずりだけです。JR東日本大人の休日倶楽部CM「山形・庄内 精進料理編」で『山伏の修行から育まれたという庄内出羽三山の精進料理。山と生きる知恵が世界も認める食文化になっていました。』と吉永小百合さんもこの斎館で、芭蕉をもてなしたともいわれる羽黒山の伝統を守り続ける精進料理をいただいています。

目の前に羽黒山と書かれた扁額を掲げた赤い鳥居の姿が見え、息を整えて潜れば羽黒山の頂上です。2446段の参道を登りきった達成感からか、それとも霊山の清明な空気が全身に染み渡ったのか心地よさが残ります。

三神合祭殿の西側、左手に開祖である蜂子皇子を祀った「蜂子神社」があり、元和5年(1619)に建立、五重塔からご尊像が遷されました。江戸時代初期に編纂された『羽黒山縁起』(1644)によれば、蜂子皇子は崇峻天皇の第三皇子で、口が耳まで裂け、皮膚は浅黒く容貌は狼に似て「山の神」を彷彿させます。本名は参拂理大臣といい、身を震わせ憑依するシャーマンでした。皇子は修行の志を立て、飛鳥から諸国行脚の旅に出て、片羽八尺もある三本足の大烏の導きで羽黒山に辿り着いたといいます。

そして山上の中心、あくまでも高い木立の中の少し開けた荘厳な雰囲気を感じる場所に、羽黒山、月山、湯殿山の三神を合祭した三神合祭殿が堂々とした佇まいをみせています。月山、湯殿山は、半年以上も雪に閉ざされる山頂や渓谷にあり、通年の参拝や祭祀が困難なため羽黒山山頂に三山の神を合祀して造られたのが、三山の社号額が掛かる「三神合祭殿」です。旧羽黒山寂光寺の本堂で、文政元年(1818)の再建と伝わる。高さ28m、茅葺きの木造建築としては日本最大級で、杉材を主に使用しており、内部は総朱塗り、厚さ約2.1mの萱葺きの屋根が圧巻、重厚な雰囲気を醸し出しています。

三神合祭殿の正面では、屋根を支えるように配された力士の彫刻を阿吽の形で対になってみることができます。

社殿の前には、神意を映す霊池として古くから信仰を集める御手洗池があります。羽黒神の影向する池として鏡池とも言われ池の中から平安時代から鎌倉時代にかけての銅鏡が数多く発見されています。秋の峰入り修行で石段を辿った修験者一行はこの池に向かってまず礼拝します。この池にも龍神伝説が残り、水位がほとんど変わらない神秘の池として古来信仰を集めてきました。

池の東側に建つ切妻造り萱葺の鐘楼は、最上家信の寄進によって元和4年(1618)に再建されたものであす。鐘は建治元年(1275)の銘があり、古さと大きさでは日本有数の古鐘です。本殿前の鏡池の龍神伝説によると蒙古襲来(文永の役)の折に、鏡池に棲む龍神に鎌倉幕府が撃退を祈願したところ、龍神の力で神風が吹いて敵艦船を海中に覆滅し、蒙古軍が壊滅したとして、祈願の成就に対して、鎌倉幕府が奉納した大鐘です。

ここにも芭蕉の像とともに三山句碑があります。

「出羽三山」月山に登山も!月山神社本宮に参拝し前世を祈る」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/8626

「出羽三山」湯殿山参拝!湯殿山神社で「来世」に生まれ変わる」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/8621

 

 

 

 

 

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