信州戸隠そばを味わいながら戸隠神社の五社をめぐる古道歩き

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戸隠は「天の岩戸開き」の勇壮な伝説が残る神話のふる里として有名です。戸隠五社(中社・宝光社・日之御子社・九頭龍社・奥社)の総称である戸隠神社は霊峰・戸隠山の麓に位置する神社で創建から2000年余という長い歴史を持つ。平安時代より修験場の霊場として知られ、その霊験所「戸隠山顕光寺」は戸隠十三谷三千坊と呼ばれ、比叡山、高野山とともに三千坊三山に数えれていました。山岳修行の山伏たちがそばを携帯食として持ち歩いたことから伝わる戸隠そば。江戸時代には戸隠講に訪れる旅人たちをもてなすハレの料理として“寺方そば”が宿坊で振る舞われていましたが、明治の神仏分離令によって神社となった現在にいたっても神仏にお供えする料理として伝わります。今も残る古道や整備された遊歩道を歩いて戸隠神社五社をめぐりながら名物のそばを味わう、リフレッシュの旅にでかけます。

標高の高い山々に囲まれ冷涼な気候の信州。なかでも、朝晩の激しい寒暖差から霧が多く発生する地域のそばは「霧下そば」と呼ばれ、その品質が高く評価されています。全国に数あるそばの中でも、その呼び名に市町村名を冠したそばの代表格といえば「戸隠そば」です。戸隠山や飯綱山といった戸隠連峰から湧き出すミネラル分の豊富な水と標高1000mで栽培される霧下そば、独特の辛味のある戸隠地大根、それにマイナス20度の冷え込み。旨いそばのためにこれ以上の条件はありません。

戸隠そばの大きな特徴に「ぼっち盛り」というのがあります。神仏にお供えする際に一口ほどの量にきちんと束ね、5~6束を地元産の根曲がり竹で編まれた平らな籠の上に盛りったのが起源という説もあり、戸隠大根のおろしを薬味に添えて供されます。ぴりりと辛味を効かせたつゆで豪快に蕎麦をすすって、戸隠そばの醍醐味を味わます。

長野駅から車・バスを利用すれば約1時間で到着する戸隠は標高1200mほどの高原に位置し、豊かな自然環境の中にあります。この自然豊かな4㎞四方の範囲に創建2000年の歴史をもつ戸隠神社五社のすべてがあり、五社を結ぶ遊歩道や参詣古道が整備されている上、戸隠そばが味わえる宿坊やそば屋が充実しています。短時間で名所をめぐるには車が便利だが、路線バスを使っても十分楽しめます。

長野市街地から「七曲がり」と呼ばれる曲がりくねった山道を通り県道32号戸隠バードラインを走ると、一の鳥居苑池を越えて最初に見えてくるのが、目に付く大きなかかしの看板が目じるしのそば店「たんぼ」です。戸隠近辺の農家から直接玄蕎麦を仕入れ、昔ながらの挽きぐるみに自家製分するこだわりのお店です。

挽ぐるみによる黒っぽい太めのそばは、少しざらついた食感で味わい深く、野趣を感じる蕎麦です。つゆもやや薄めで出汁の風味をしっかり感じることができる少し甘く感じます。そば粉でつくるおやきもサービスでいただくことができます。天ぷらは大葉、とうもろこし、舞茸、しめじ、かぼちゃ、なす、ピーマン、ヤングコーン、海老の9種盛合わせでボリューム満点です。

巨人デーダラ法師が湿地から足を引きぬいた所がそのまま池になったという伝説の大座法師池を過ぎて、真っ直ぐに伸びるメインルート「戸隠バードライン」を進むと、道の両脇に宿坊が建つ旧戸隠村に辿り着きます。戸隠バードライン(県道506号)と鬼無里・白馬方面への県道36号への交差点にあるのが「そば処よつかど」です。朝の9:00から営業しているので朝ラーならぬ朝ソバが食べれるお店で、宝光社の近くで40年以上も戸隠そばを食べさせてくれています。地元民からの人気も高いお店です。

麺は地粉を丁寧に打って出す喉越しの良さが魅力。冷たいそばに天ぷらや山菜、きのこがのった「西岳そば」は人気の名物です。

県道沿いの院坊旅館の家並みを見ながら、坂を登ると宝光社の石段が見えてきます。

終戦から五日後の昭和20年(1945)8月20日、夏の日盛り、麓の集落から火の手が上がり、たちまち燃え広がった火は民家や宿坊はもちろん宝光社の社殿もろとも火につつまれるだろうと誰もが覚悟した。ところが火は神社の境内の一歩手前、あいだにわずか1軒の宿坊を残して止まったのです。(『戸隠伝説殺人事件』内田康夫著)

中社のご祭神である天八意思兼命の子で信濃・阿智氏の祖先神とされる天表春命を祀る「宝光社」は、開拓学問技芸裁縫の神であり、安産の神また女性や子供の守り神として御神徳があるといわれます。「戸隠山顕光寺流記」によれば、本院(奥院)から48丁(約5.45km)離れた伏拝の地で、大樹の梢に光を放つ御正体が出現。この木のそばに庵を結び、本院より天表春命を分祀しました。81段の石段を上れば鳥居が見えてきます。

鳥居をくぐって杉の巨木に囲まれた193段の苔むした石段を登ると、神仏習合時代の面影を残す荘厳な入母屋造の社殿が現れます。しかももう登れないと思うほど歩幅も狭く急な角度の石段であり、手すりをしっかり握りながら、休み休み上っていきます。階段の左右に並ぶ杉の木は美しく、一本、一本がご神木のようです。狛犬は、どことなく愛嬌のある顔つきをしています。
少し遠回りになりますが、足に自信の無い方は「女坂」を利用して社殿までいくことができます。
入母屋造の社殿が大きく向拝に施された彫刻が見事な宝光社は天暦3年(949)に奥社の相殿として祀られ、その後康平元年(1058)に現在の地に遷座されました。現社殿は文久元年(1861)に改築されたもので、間口7は5間、奥行き7間、屋根は入母屋造、妻入、銅板葺です。
拝殿の入母屋造を支えるあらゆる柱(頭貫)や虹梁などの端に付けられた「木鼻」に施されている獅子や象等の名人北村喜代松の彫刻は、緻密でいくら眺めていても飽きることがありません。越後出身の宮彫師の北村喜代松は宮大工建部家に生まれ善光寺再建工事にも携わりました。一つひとつ眺めるごとに1000年の時を経ても褪せることのない力強さを感じられます。特に社殿中央の龍が嚙みついている様は圧巻。龍は今にも飛び出してくるような生き生きとした様相です。貫頭下には波間に揺らされるように麒麟の彫刻が見られ山間に波の音が聞こえるよう。麒麟ビールの担当デザイナーが実際に訪れて着想を得たともいわれています。木鼻の堂々とした獅子と象の牙の曲線が長い年月でも衰えることなく鋭さが際立っています。

社殿内の舞台は漆塗、神楽舞も趣き深い。因みに奉納される演目は「浦安の舞」がふつうで太鼓と笛に合わせ鈴を振り鳴らしながら舞います。

社殿に向かって右手に神輿舎があり、新旧二基の神輿が保管されています。右の神輿は文化元年(1804)に江戸神田の法橋善慶の指揮の下、奥社、九頭龍社、中社、宝光社に配すべく制作された四基の内、現存する一基が置かれています。江戸時代にはこの御神輿を担いではるばる江戸まで上り、出開帳を催し多くの信者が集まりました。明治以降は七年ごとに春に行われる式年大祭でのみ使用されてきましたが平成3年の式年大祭に合わせて写真の御神輿が新調されました。式年大祭では宝光社のご祭神である「天表春命」が御神輿で中社へお渡りになり、御父神である「天八意思兼命」とご対面され、ご滞在の後、お還りなります。

宝光社から杜のなかの道をぬって中社の鳥居脇にいたる涼やかな山の小道は、一般の道とは区別され「神道」と呼ばれてきました。宝光社から火之御子社を通り、中社へ通じる神道は神様が行き来されると言い伝えられる神さびた道です。途中にある「火之御子社」は中社と宝光社集落のほぼ中間に位置する神社で、創建は承徳2年(1098)の創建と伝えられ、草創期から現在まで、神仏習合の時代にあっても純然たる神社として祀らえてきました。

祭神は天岩戸に隠れた天照大神を誘い出すため、神々の酒宴の輪の中で艶やかな舞を披露した女神様・天鈿女命(あめのうずめのみこと)をお祀りしています。舞楽芸能の上達、縁結び、火防を祈ります。現在の社殿は明治17年(1884)に再建されたものですが、平成6年(1994)に屋根や土台の大修繕が行われ、現在に至っています。

境内には平安時代末期の僧侶で歌人として有名な西行法師が桜の木に登った戸隠の子供たちと歌を交換し、やり込められたという伝承を持つ「西行桜」があります。旅のなかで優れた和歌を詠み、独自の詠風を築いた歌人・西行が善光寺に詣で、霊山戸隠に向かう途中のこと、戸隠の子どもがワラビを採っているのを見て「わらびにて手な焼きそ」と戯れると「檜笠にて頭焼きそ」と機知に富んだ応えが返ってきた。次に火之御子社付近で子どもらが桜の大木に登っていくのを見て「猿稚児と見るより早く木に登る」と詠うと「犬のようなる法師来れば」と巧みな返歌を投げ返されました。神域での戯れを恥じた西行は、そこで遥拝し引き返したと伝わる。この桜の木は戦国時代に武田と上杉の川中島合戦の際に火之御子社とともに焼失し、その後植えた木も朽ちたが、何代目かの若木がその伝説を今に伝えています。

社殿の左手奥に樹齢500年を超える「夫婦の杉(二本杉)」があります。

神道に戻り中社を目指すこともできるのですが、今回はそのまま県道36号で中社に向かいます。ゆるやかな登り坂の中社参道両側には院坊旅館やそば処仁王門屋、戸隠そば山口屋の並びます。

さらに進むと、中社、奥社へと続きます。名前の通り道脇でさまざまな小鳥が鳴き交わし、山道を登りきったところで見える鋸歯のような戸隠連峰の威容が、神域に入った感を強めてくれます。中社参道の突き当り正面に大鳥居があります。

中社の下方広庭には大鳥居を中心に一辺約72mのほぼ正三角形を成して立つ御神木が「三本杉」です。一番古いものは樹齢800年と伝えられ、幹は各周囲が約7.9・9.9・9.7mあります。三本杉には、その昔、若狭の国小浜の漁師が捕えた人魚の肉を家に持ち帰った。父も留守にこれを食べた漁師の子三人は鱗がは死んでしまいました。詠嘆に暮れる漁師に「霊験あらたかな戸隠に詣で、子どもたちの成仏のために三本の杉を植えよ」と夢のお告げがあった。漁師は剃髪し僧となり「八百比丘」と名乗り、戸隠に詣でて三本杉を植え,罪業消滅を願い、三院に八百日の祈りを捧げ、家族の菩提を弔ったという秘話が伝わります。

中社」は天岩屋にこもった天照大神を、太々神楽を創案し再び外にお誘いした知恵の神様・天八意思兼命を祀る。太々神楽は岩戸神楽と呼ばれ、戸隠の地に今でも受け継がれています。ご神徳は学業成就、商売繁盛、開運、家内安全とされている。境内は、三本杉や古木に囲まれ厳かな雰囲気です。大鳥居をくぐった先に本殿に向かう石段があります。

樹齢900年を超える杉の木を抜けると、入母屋造の迫力ある中社があります。寛治元年(1087)、奥院と宝光院の中間地点に建立。昭和17年(1956)戸隠の大火にため社殿が焼け落ち、31年(1956)に現社殿が再建されました。面白いのは葵の家紋を掲げていること。戸隠神社は江戸期に徳川家康の寺院統制を受けて戸隠山顕光寺となり、中院(中社)と宝光院(宝光社)の前に12の院坊が立ち並ぶ門前町が形成され、現在の町の原型がつくられたのだといいます。明治期の神仏分離により戸隠神社となったが歴代将軍により大切に扱われたことから今でも葵の家紋を掲げているといいます。

戸隠神社の社紋は鎌卍で、鎌は農耕を表し、卍はかつて寺であったことを忘れないという思いが滲んでいるという説があります。社殿天井画に描かれた巨大な龍は、幕末から明治初期に活躍した川鍋暁斎の作で平成15年(2003)に復元されています。

拝殿右横に流れ落ちる霊性豊かなさざれ滝水音が静かに響きわたります。

この中社の大鳥居脇を右手を少し入ったところ、大鳥居脇にそびえる樹齢900年の三本杉に守られるように建つのが戸隠で人気の「蕎麦処うずら家」です。JR東日本「大人の休日倶楽部」戸隠編のCMで、吉永小百合さんが蕎麦をいただいていたお店としてますます有名になったお店で、大きな窓からは中社門前の景色が眺めます。

「うずら家」の開店は通常10時半だが連休等の時は10時に開店する。名前記入の紙は早朝から店の前に置いてあるのでまずは名前を記入しておくことをおすすめします。名簿一番の人は朝5時だといいます。お昼の12時には当日分のそばが予約でなくなります。

おすすめは「ざるそば」と「季節のきのこのてんぷら」です。そばは豊かな香りとコシを持った淡緑色の麺で、戸隠や黒姫高原で取れる上質の霧下そばを甘皮を含んだまま石臼製粉し、山麓の湧き水で打ち上げて作ります。ふうわりとそばが香りが立ち、その香りにつられ、つゆもつけずに一口啜ると、もちもちとした食感で、噛むほどに甘みを感じます。ここでは真冬の厳冬期に玄そばが熟成し、成分の糖化が最高に達したものを石臼製粉し、冷凍保存したそば粉を使うので年中うまいそばが味わえます。その為に毎年11月下旬から12月中旬まで休業になるので訪れる際は、注意が必要です

ふわっと甘味も感じる適度な細麺で、薬味は戸隠辛味大根とネギ、自分で摺り下ろすワサビとあいまってつゆとの相性抜群です。「季節のきのこのてんぷら」は舞茸、しめじ、椎茸、エリンギでカラッとと揚げた薄い衣の中に、噛むときのこのエキスがジワーと出てくるのである。ご主人の徳武さんのお客様第一の気持ちが伝わってくるお店である。

西参道から再び戸隠参拝古道で越水ヶ原を通り奥社 を目指します。

知る人ぞ知る穴場の名店「そば茶屋 極楽坊」は、戸隠のそば銀座ではなく、水芭蕉やカタクリなど山野草が咲き競う越水ヶ原を通る越水ヶ原奥社参道沿いに立つ、少し奥まった場所にあります。景観への配慮からか看板はなく、紅色の生地に白抜きで梅鉢の紋に極の字の暖簾がひときわ目を引きます。戸隠神社の宿坊である名店「徳善院蕎麦・宿坊極意」から暖簾わけされたお店で、しっかりと戸隠宿坊本来の様式といわれる江戸古来の細打ち製法を受け継いでいます。

古民家の佇まいを感じさせる店内は、ジャズが流れる落ち着いた雰囲気があり、カウンター席にテーブル席、畳敷きの和室につらなって角部屋には囲炉裏も設けられています。食前にはそば茶とそばかりんとうが供されます。お蕎麦がでてくるまで、ジャズを聴きながらゆったりとした時間を過ごせますよ。

おすすめはざるそばと戸隠野菜の天ぷら。二八の細打ちで5ボッチが上品に盛りつけられたそばは、香り豊かで力強い食感、そばつゆもきりっとした辛さの中にふんわりと甘さがのぞいています。薬味はネギと大根おろしは添えられているものの定番のわさびがないのが特徴です。水切りせずに出される戸隠そばにもまけず、そばとつゆの相性がよく、実際薬味は必要がないぐらいです。

奥社道さらに進むと県道36号に出ます。中社から約2km、旧参道が県道と交差するあたりが「奥社参道口」です。県道を渡った先にあるのが「奥社の茶屋」です。有名建築家・隈健吾氏の手によって立て直されたもので、白黒のツートンのカフェバーのような雰囲気が戸隠の緑と調和し、神域の荘厳な雰囲気を保っています。

杉木立の並び立つ長い参道を歩き切った後は、ツルリと喉越しの良いざるそばや濃厚な甘さのそばソフトがおすすめです。大根おろしに味噌を混ぜ、薬味を加え風味を楽しみつついただく「古流そば」が名物です。

鳥居前を流れるのが鳥居川、戸隠地域ではなく北側の信濃町方向に流れていくので逆川とも呼ばれます。その石橋を渡ると馬を下りて歩くようにと「下馬碑」が立っています。

ここから奥社」に向かいます。奥社参道口の戸隠山を望む大鳥居から広い参道がまっすぐに約2kmのびており、これより1kmほど歩いて随神門に至ります。奥社参道の中程には現存する戸隠神社の建造物で最も古い宝永7年(1710)建造の萱葺きの赤い随神門(ずいじんもん)があります。

その先は天然記念物にも指定されている、樹齢約400年を超える杉並木が700mの参道の両脇に続き、神々しい空気を漂わせています。JR東日本「大人の休日倶楽部」CMでは 「戸隠神社 奥社参道杉並木」で撮影され この先には あの天岩戸をあけた 怪力の神様がいるそうです。なんだか 力が湧いてきた気がするのは そんな話を聞いたせいかしら」と神秘的な道を歩き、吉永さんが晴れやかな表情で空を見上げるシーンが印象的です。

原生林から杉並木の参道を歩き、後半の坂道を500mほど上り切った先に、戸隠神社の本社で天の岩戸を開け戸隠へと投げた天手力雄命を祀つる「奥社」に到着します。奥社の左にあるのが「九頭龍社」で戸隠の地主神・九頭龍大神を祀っています。

帰路は参道を戻ることになりますが、鏡池まで足を延ばしてみます。奥社参拝後、随神門まで戻ってきたら、門をくぐってすぐ狛犬の少し手前を右手に曲がります。参道を曲がったら、案内板等があるので奥の道を道なりに進みます。途中にある2カ所の分岐点をいずれも道標に従って鏡池方向にまっすぐ進むと30分ほどで鏡池に到着します。静寂の中、澄んだ水面に戸隠連峰を鏡のように映し出すこちから名付けられた「鏡池」。新緑と青い空、戸隠の険しい岩肌が神秘的です。

澄んだ水面に峻嶮な戸隠連峰を映し出す鏡池から下って戸隠バードライン沿い、鏡池入口に佇む風情あるお店が「そばの実」です。言わずと知れた戸隠の名店で、戸隠の風景に馴染むようにと考えられた建物の情緒を大切にした店構え。白い暖簾をくぐり中に入ると、水芭蕉や山ぶどうの画をあしらった衝立て、信州在住の陶芸家の手による花器に活けられるさりげない季節のあしらい等、古い調度品がセンス良く飾られています。そして広々とした窓に映り込むハンノキ林の美しい自然を眺めれば戸隠に来たことを実感できるお店です。

粉挽きから磨き、石抜き、脱皮まですべて店で行い、野趣あふれる艶やかでコシが強く、繊細な風味のそばを楽しませてくれます。年間8度に保っているミネラル豊富の凄烈な地下水は、そばの味を凛と引き立てる大切な要素で、そばが濡れて輝いているうちに食べて下さい、水全体の旨さも感じられますよ。ここでは、市販されていない希少な日本酒・佐久乃花酒造の「閑雲野鶴」がいただけるのでお酒好きの方は是非。すっきりとした上品な味わいで、風味豊かなそばの味をより引き立てます。

秋・冬には「雉子汁そば」もメニューに並びます。雉子肉とそばは冬の名コンビ。風味豊かなそばそばと佐久の自然の中で飼育された香り高い雉子肉の相乗効果で寒い冬には身も心も温まります。

毎年11月には戸隠そば祭りとしてのイベント「半ざる食べ歩き」が開催されます。期間中半ざる(3ボッチ)そばが食べられる手形(半ざる券4枚2000円)を購入し、イベント参加そば店に持参して食べ歩きができるというものです。個性がそれぞれ光る各店の味が堪能できます。(手形のお求めはそば店、土産物店などにて)戸隠神社五社参拝とあわせてめぐってみてください。

 

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