五輪塔にお地蔵さんも!大和郡山城の石垣には驚きの「転用石」

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奈良県大和郡山市にある郡山城は、古の都、大和国に栄えた、大和大納言豊臣秀長の100万石城下町「大和郡山」の居城で、続日本100名城に選定された貴重な城跡。かつての都、奈良に隣接し、戦国時代、軍事・政治的に重要な土地であった大和郡山のシンボルとして親しまれる「郡山城跡」は、天正8年(1580)に織田信長の命を受けた大和の守護・筒井順慶により築城。その後筒井家が伊賀上野に転封となると天正13年(1585)天下人 豊臣秀吉の 実弟にして名参謀といわれた豊臣秀長が大和・紀伊・和泉100万石の城主として入城します。大和大納言と呼ばれ、100万石の居城に相応しい城へと豊臣政権の威信をかけ藤堂高虎とともに紀州根来寺の大門を城門として移築したりと大改築を行いました。

郡山城は大阪や京から近く、畿内統治の要としての機能と大阪を防御する役割も負わされた城でもあり、土木工事にもかなりの技術力が見て取れます。矢田丘陵の南端に位置する平城山で、本丸東・北側の石垣下は、自然地形ののように見えますが、盛り土をした造成地です。本丸東側の堀掘り込まれれ、秀吉の築いた伏見城を彷彿させます。

鉄門跡から中堀にあたる五軒屋敷堀沿いに進めば、郡山城の追手向櫓に添えるように、石垣に沿って濠を囲むようにソメイヨシノを中心に約1000本の桜並ぶ。「御殿桜」とも呼ばれ、多武峰から移したのが始まりで、日本のさくら100選に選出されています。

城内の施設は1980年代から復元が進み、昭和58年(1983)に追手門(別名 梅林門)、昭和62年(1987)に追手向櫓(多聞櫓)、追手東隅櫓が秀長築城当時に近い形で再建されました。特に100万石を誇った豊臣秀長の居城に相応しい威厳を保つ追手門は郡山城を象徴する風景です。

2月には城跡内で梅が咲き誇り、良い香りが風に乗って運ばれてきます。ここは日本のさくら百選に選ばれているさくらの名所なのですが梅の風情に驚きです。

遊歩道を通り、柳沢文庫(旧柳沢伯爵家郡山別邸)のあるところが毘沙門曲輪。ここから本丸を守る内堀に架けられていたのが極楽橋で、明治初期の廃城令により失われていましたが令和3年(2021)に木造で再建されました。江戸時代、天守曲輪から毘沙門曲輪を繋ぐ橋として機能し、本丸へ登城する正式なルートの橋として重視されてきたと考えられています。

天正19年(1591)に豊臣秀長が亡くなり、養子の秀保も文禄4年(1595)に死去すると100万石の領国は解体され、関ヶ原の合戦後、城主が不在になり、建造物の多くは二条城などに移築されたといわれますが、元和元年(1615)に水野勝成が城主になって以降、松平、本多といった徳川譜代の大名たちが城主を務めました。

享保9年(1724)柳澤吉里が甲府より入城以後、柳沢藩十五万石の城下町として栄え、明治時代まで6代145年間を治めました。明治13年(1880)に旧藩士によって本丸跡地に柳澤神社が創建され、藩祖吉里の父、柳澤吉保(徳川綱吉側用人)をお祀りしています。

郡山城の見どころが高さ約8.5m、底部は南北約25mの長さを誇る天守台です。平成26年(2014)の発掘調査で礎石や金箔瓦が出土したことから、豊臣秀長の時代には1階面積が7間×8間の四層から五層建ての豪壮な天守が建築されていたと考えられています。天守台南側には付櫓台があり、そこから地階の石垣が発見されたことから付櫓地下が天守への入口だったことも判明しています。

天守台をはじめとする本丸に築かれた石垣も郡山城の大きな魅力です。自然石をそのまま積み上げた“野面積み”と呼ばれる工法で作られ、石と石の間には間詰石という強度を高める小さな石が埋め込まれています。築城初期の状態を伝えています。

支配拠点らしい眺望も魅力です。郡山城は西側約3分の2が丘陵南端部に載るように築かれているため、天守台から東への眺望が開けています。手前の洋館は、追手門をくぐった先の常盤曲輪にある城址開館。明治41年(1908)奈良公園内に建てられた奈良県初の県立図書館で、昭和43年(1968)現在地に移築されました。大和東山の連山と奈良盆地を一望でき、平城京や南都の諸寺、龍王山や三輪山、南には大和三山も見えます。大和一円を手中にした気分に浸れます。

また郡山城は、膨大な「転用石」が見られるお城です。転用石を用いる理由は、権力の誇示や呪術的な意図などさまざまに推察されますが、郡山城の場合は、築城当時、極度に石材が不足していたため、石材の補填が目的だったと見られます。石が採れない地層にあるため、離れた場所からわざわざ運ばれたようです。

天守台の石垣には伝平城京羅城門の礎石や、社寺の宝篋印塔や五輪塔、石仏・墓石・庭石までもがかき集められ豪壮な石垣が築かれました。転用石は石垣の表面だけで約1000基を超えると推定され、築城の際にいかに苦労していたかが想像できます。その象徴となっている石が、さかさ地蔵」で、今も天守台の北面(後ろ)で全長110cmほどの石造地蔵菩薩立像が頭を逆さまに石垣に積み込まれています。さかさ地蔵伝説があり、天守台が完成しほどなくして毎夜すすり泣く声がするとの噂が広まり、大和大地震により天守閣は倒壊したといわれています。

大納言塚」は、天正19年(1591)、郡山城内で没した豊臣秀長の墓所で、土壇の上に立派な五輪塔が立ち、塔には秀長の法名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」が刻まれています。兄秀吉がこの近くに建立した菩提寺の大光院が墓所を管理していましたが、豊臣家滅亡後秀長の家臣だった藤堂高虎は大光院の荒廃を懸念して寺を京都に移し、秀長の位牌と墓所の管理は城下の春岳院に託されました。

以前は前庭に敷き詰められた粗い砂は「お願い砂」と言われ、借りて帰り、願いが叶えば返しに行くというものであったらしいが、現在は銅版で蓋をされた粗い砂を入れた石の入れ物が置かれていて、お参りしたお礼を申し上げた後、「自分の名前」と「願い事」を言いながら、3回門前の石の箱へお砂を通すときっと願いを聞いてくださるとのこと。

大和郡山の町中に佇む秀長の菩提寺春岳院は、旧寺号は東光寺と称し、春岳院の名は秀長の戒名による。拝観は事前連絡とのこと。

安土桃山時代の天正13年(1585)創業の老舗和菓子店「本家菊屋」。当時より現在に伝わるのが「御城之口餅」で、約400年前、秀長が兄・秀吉をもてなすために作らせ、秀吉が絶賛したといいます。丹波大納言の小豆を使った粒餡を餅で包み、きな粉をまぶしたお餅で、この餅は秀吉が気に入り「鶯餅」と命名した「元祖 鶯餅」とも伝えられ、鶯餅のはじまりとも言われています。徳川の時代になり「お城の入口で売っている餅」ということで「御城之口餅」と呼ばれ、現在の名となったとのこと。建物は江戸末期のもので立ち寄る旅人たちに茶を振る舞っていたという十六菊の御紋がついた移動式の茶釜が、店頭にさりげなく置かれ、当時の賑わいを感じさせるので休憩を兼ねて店先でいただくことにします。

大和大納言のつぶあんが求肥で包まれ、青豆のきなこが風味をグッと引き立ており、とろけるようにやわらかく繊細な味に、一度食べたら虜になる抜群の美味しさです。一個80円の餅が3個とお茶がついて240円、席料なし。歴史を偲ばせる古い佇まいのお店で床几に座って一幅。天下人も口にしたという上品な味に癒されます。

街中のマンホールや案内板に金魚があしらわれているのを見かけます。大和郡山市における金魚養殖の由来は、享保9年(1724年)に柳澤吉里(五大将軍徳川綱吉の御側用人・柳沢吉保の子)が甲斐の国(山梨県)から大和郡山へ入部のときに金魚の飼育を奨励したことに始まると伝えられ、幕末の頃になると下級藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として盛んに行われるようになったとのとと。今でも日本有数の金魚養殖産地で、「金魚のまち」と呼ばれます。

そんな金魚のまちで見つけたのが、昭和初期の雰囲気をそのまま残したレトロな商店街・金魚ストリートやなぎまち商店街にある「きんぎょCafe柳楽屋」。大和郡山のお城と並ぶシンボルである金魚を眺めながらゆっくり過ごせる空間です。

歩くこと約10分で、「源九郎稲荷神社」の門前町であり、「奈良三大遊郭」の一つでもある「洞泉寺町」へ(あとの二つは奈良市木辻町、大和郡山市東岡町)。源九郎稲荷神社の参道横や周辺に建つ古い木造3階建ての遊郭建築が当時の面影を残していて、艶っぽい風情を感じます。遊郭建築が残る参道を抜けると小さく可愛らしい雰囲気のお稲荷さんが現れる。大和郡山に鎮座する「源九郎稲荷神社」は、日本三大稲荷の1つとして数えられ、「大和の大和の源九郎さん、遊びましょ」と童謡に歌われるほど親しまれています。源義経の生涯を守護した神と伝わる「源九郎狐」ゆかりの神社で、神社を守る白狐は源九郎狐と呼ばれ、源頼朝に追われた源義経が吉野に落ちのびた時、家臣佐藤忠信に化けた白狐が側室静御前を守り通したという伝説が残されています。

実は義経が静御前に与えた「初音の鼓」がその昔、白狐の親の皮で出来たものであったので、皮になっても親を恋慕っていたため静御前に付き従い守っていたのである。その親を恋しく思う心を知った義経は、白狐の忠義に感服し、鼓と自分の名を与えて「源九郎狐」と名乗ることを許したとのこと。

豊臣秀長と親交のあった長安寺村(現大和郡山市長安寺町)の洞泉寺の僧宝誉の夢枕に白狐が老翁の姿となって現れて郡山城の守護神となることを告げ、宝誉からそれを聞いた秀長が鎮守として城内に祀ったと伝えられます。その後江戸時代の享保4年(1719)に現在の洞泉寺町に遷座しました。神社の名前である源九郎は、歌舞伎の「義経千本桜」にも出てくる源九郎狐のことであることから、三代目市川猿之助や六代目中村勘九郎が訪れていて、特に勘九郎お手植えの梅が満開であった。

城下町歩きや外堀巡りもおすすめです。郡山城は近鉄橿原線の線路を挟んで丘陵地と盆地に分かれ、城下町は東側の盆地に形成されています。秀長は城下の東南に有力な商工業者を集め、地子(土地にかかる税金)を免除し、自治権や独占営業権を与えて、強力な城下町振興を行いました。13の町が当番制で自治する「箱本十三町」という制度で、江戸時代の郡山藩主にも受け継がれ、明治維新まで続く基礎となりました。

藍染めの水洗いをしていた紺屋町の中央に水路が流れる通りを歩き、立ち寄ったのは、旧藍染商家「箱本館 紺屋」。秀長の特許状によって奈良盆地の藍染は江戸時代を通して大和郡山の紺屋町でしか営業できませんでした。江戸時代から続いた藍染め商家旧奥野家を再建してつくられた体験型施設で、全国シェアの約60%を占める郡山の金魚に関しての金魚ミュージアムも併設されています。

また並びには金魚の飾りがかわいい土産物屋「こちくや」がある。店の横で楽しめるのは金魚すくい。江戸時代後期、金魚の養殖が盛んになったことで、お祭りなどで金魚すくいを楽しめるようになり、今では大和郡山の夏を代表する行事として「全国金魚すくい選手権大会」も行われている。

最後は外堀緑地を通ってJR郡山駅へ向かいます。郡山城の外堀を利用し整備された市民憩いの公園で、緑地の「北門」が建てられた「常念寺裏濠」から「南門」の建てられた「洞泉寺裏濠」までが「外堀緑地」として整備さました。かつての外堀の土塁は、松または藪で覆われ雄大なものだったそうですが、近年それらは殆ど旧観を留めず溜池として残っています。

郡山城柳大門を再現した外堀緑地南門「高麗門」や北門「冠木門」がイメージして造られました。

 

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