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日本酒の聖地が神戸から西宮市の沿岸部にかけて広がり、老舗の酒造会社が集積し、「灘五郷」と呼ばれる日本有数の酒どころとして知られる。酒蔵は神戸市側に魚崎郷・御影郷・西郷、西宮市側に今津郷・西宮郷と東西12kmにおよぶ阪神間の海岸線に沿って点在しており、現在も多くの酒蔵が伝統の技を競い合い、味わい豊かな酒を造り続けている。今回は神戸にある「西郷」「御影郷」「魚崎郷」に続いて、西宮にはあとの二つ「西宮郷」と「今津郷」があり、今も多くの酒蔵が伝統を大切にした酒づくりを続けています。灘の「男酒」造りに欠かせない宮水と呼ばれる仕込み水は「西宮の水」に由来します。良質な六甲山系の地下水が、「津門の入海」といわれるかつて海だった西宮郷付近の地層を通ることで、鉄分が少なく、リンやカルシウム、カリウムを豊富に含んだミネラル豊富な上質の硬水となり、酒造りには欠かせない酵母の発酵を促す水となるのです。

先ずは「宮水発祥之地の碑」を見に行く。「宮水」は西宮神社南東の限られた範囲内でしか湧出しない酒造りに最適の水で「日本の名水百選」にも選ばれている。天保11年(1840)に酒造・櫻正宗の6代目、山邑太左衛門が「宮水」を発見したと伝えられる「梅の木井戸」の横に「宮水発祥之地」の石碑がある。10月の宮水まつりのスタート地点となっています。

その東側に「宮水庭園」がある。阪神高速以南の宮水地帯には、各酒造メーカーの宮水井戸が設けられている。そのうち白鷹・白鹿・大関の3社の井戸を合わせて整備した場所が写真です。

まずは「日本盛 酒蔵通り 煉瓦館」へ。日本盛株式会社は、明治22年(1889)西宮企業会社を設立し創業。「日本盛はよいお酒~♪」のCMソングが有名で作詞は作家の五木寛之です。明治30年(1897)商標を譲受登録した「日本盛」は、江戸末期に創案され、デザイン的には「盛」の両肩に小さく「日本」の二字を加え、ニホンサカリと読んだ。黒船渡来で国論沸騰のときであり、国威宣揚の理想を含めて意匠されたものであるとのことです。宮水から少し南の通りが西宮郷と今津郷を通る東西の道「酒蔵通り」で、その周辺には、蔵元の運営する博物館や直営ショップ等があり、歴史ある日本酒文化に触れながら、利き酒や買い物を楽しむことができます。

煉瓦館は、明治時代のれんが造りの日本酒をテーマにしたアミューズメントスポットで、2フロアに分かれた館内には、ショップや利き酒コーナーのほか、エステコーナー、酒器を作れるガラス体験工房などがあり、楽しみながら日本酒への興味を深められるようになっています。しかし利き酒コーナーでは、大吟醸、吟醸、純米、しぼりたての4種類の原酒が用意されているのですが、購入が前提のようで店員が積極的に利き酒を勧めることがありません。そしてお客さんの購入目当ては、何故ここで販売しているのか分からない山口・旭酒造の「獺祭」ばかりであった。当然売り切れではありましたが。

そのまま通りを東へ進み津門川を渡ると 「今津郷」です。この地域の代表銘柄、「大関株式会社」は正徳元年(1711)に、初代大坂屋長兵衛(長部文治郎の始祖)が今津村で創業。当主の長部家は辰馬家(白鹿・白鷹)、嘉納家(菊正宗・白鶴)、山邑家(櫻正宗)などと並ぶ灘五郷の旧家で、屋号は「大坂屋」。当主は七代目以降「文治郎」を襲名しています。ワンカップ大関が有名なほか、冷でも燗でも供される本醸造「辛丹波」、創始者の名にちなんだ大吟醸酒「大坂屋長兵衛」なども醸造し、今津郷の代表的な酒造家です。文化7年(1810)5代目大坂屋長兵衛が私費で今津港口に常夜燈を建設したのが「今津灯台」です。

「大関」はその音からして「大出来」に通じ、また「覇者」を意味します。明治時代、大相撲の最高位としての「大関」というイメージも考え、酒造業界のいわゆる「大関」としての地位を築いてゆくべく願いも込めながら、明治17年(1884)商標条例が発令され、それまでの酒銘「万両」を「大関」と改めて商標を出願したとのこと。「酒は~大関 心意気♪」は小林亜星の作詞・作曲なのだ。

大正5年(1916)創業の灘酒造株式会社は2007年に大関の子会社となり、その後2012年12月に解散し、銘酒「金鹿」は現在、大関から販売されていますし、大正9年(1920)創業の多聞酒造株式会社は、2005年に民事再生法申請し、銘酒「多聞」も現在、大関から販売されているのです。

酒蔵通り沿いに、老舗大関が手がける和菓子店で、「甘辛」の名前が示す通り、「甘いもの=日本酒を使った和菓子」と「辛いもの=日本酒」の両方を楽しめる大関「甘辛の関寿庵」がある。酒蔵をイメージした外観で、大関の代表銘柄のほか、特に原酒量り売りコーナーには、酒蔵から届いたばかりの本醸造と大吟醸のしぼりたて生酒があり、試飲もできるのですが、購入が前提でないと頼み辛い感じです。関寿庵の代表的な商品とも言える「酒寿」は、酒まんじゅうには珍しい薄皮タイプが特徴で、こしあんがたっぷり。ほんのりとお酒の香りが漂うのは、酒粕ではなく、贅沢にも大関の吟醸酒が使われているそうで、人気商品です。

お店の斜め向かいにあるのが「今津六角堂」で、明治15年(1882)に今津小学校の独立学舎として建てられた木造2階建の建物です。日本で2番目に古い(一番は長野の旧開智小学校だと思うが)洋風の近代的な建築で、正面玄関上の六角形の塔屋が当時の人々の目を驚かせたらしい。太平洋戦争の戦禍を免れ、小学校の敷地内で校舎建替などに伴い何度か移転された後、現在の「酒蔵通り」に面した位置に移設されされたとのこと。

少しコースからは外れるのですが、もう一箇所今津の旧蹟「今津灯台」に向かうことにした。先にも書いたが、文化7年(1810)に今津港を出入りする船の安全のために、大関酒造の長部家五代目長兵衛が私費を投じて建てた灯篭型の木造灯台で、今も現役で活躍し今津港のシンボルとなっている。また村上春樹の長編小説2作目の「1973年のピンボール」ではヨットハーバー、酒造会社の古い倉庫の情景とともに今津灯台と思われる灯台が登場しています。

途中には今津酒造株式会社という1751年創業で銘酒「扇正宗」の醸造会社があるとのことだったが、残念ながらみあたらなかった。明治43年、それまで正宗印の小印であった「扇」を頭につけて登録。これすなわち、末広がりの商売繁昌、互いの幸福を、広く世の愛飲者と共に願い、喜び合えればとの思いを込めて命名されている銘柄です。

改めて「西宮郷」を訪れるため、酒蔵通りより南の臨港線で津門川を渡って戻り、浜方面に向かう途中に二つの酒蔵が並んでいる。一つは創業250年の歴史と伝統を誇る「大澤本家酒造株式会社」で、明和7年(1770)に堺・宿院にて華屋清助が大澤酒造を創業。太平洋戦争の空襲で蔵が焼け、昭和28年(1953)に灘区に移転、その翌年に西宮に蔵ができる。銘酒「寶娘」を醸造し、蔵出し原酒の販売所も併設する本社には阪神大震災で大きな被害を受けた灘五郷のなかで、築50年以上の貴重な木造蔵が残っている蔵元のひとつで、築80年を越える木造蔵が残っています。

寳娘」の名前は大澤本家酒造初代・華屋清助が見た、めでたい夢から命名されました。その夢には、宝船に乗った美しい女性が現れ、その女性が美味しそうにお酒を飲んで、ほほえみかけたそうです。宝船に乗っている美しい女性と言えば、七福神のなかの紅一点・弁財天。弁財天の本名は「サラスヴァティ」で、インドの言葉で「サラス」は水を意味し、「バティー」 は富むという意味で、水を神格化したものだとされています。まさに、水が大切な酒づくりにぴったりの神様と言えます。

その隣が「万代大澤醸造株式会社」で、2005年に、大澤酒造が分割して大澤本家酒造と万代大澤醸造になったとのこと。銘酒「徳若」を醸造。「徳若」は三河万歳などの詞章になどに使われる「常若」(とこわか)の訛りで「施者に御万歳」とも言われ、いつも若々しく長寿を保つようにの意の祝い詞が由来らしい。本社というか事務所というか間口の狭いところが、生原酒などの直販所になっていた。しかし本家よりもたくさんのお客さんが来ていて奥さんの「朝早く来たから純米しぼりたて蔵出し原酒(生酒)があるよ」との一言で思わず購入してしまいました。

もとの臨港線に戻り西へ。黒い瓦屋根に白壁の外観が目を引くショップ兼レストラン「白鹿クラシックス」を訪れます。

銘酒「黒松白鹿」を醸造する辰馬本家酒造株式会社は創業350年を超える伝統の老舗です。寛文二年(1662)徳川四代将軍家綱の頃、初代辰屋(辰馬家の当時の屋号)吉左衛門が、西宮の邸内に井戸を掘ったところ、その水が清冽甘美であったため、これを用いて酒造りの事業を始めたと伝えられている。また「酒造りには樽が要る。ならば樽も作ればいい」と、初代吉左衛門は、酒造りとともに酒樽の製造も家業とした。初代吉左衛門のこの発想は、辰馬本家酒造の事業展開の底流となり、その後さまざまな事業へと発展していきます。江戸中期以降、自社で醸造した酒を江戸に送る「樽廻船」から発展、全国で1、2を争う船会社となり、海運業で財を成し、財閥を形成していった一族です。

酒造りの工程が学べる道具や資料を展示する西側の酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)は500円の入館料です。記念館と酒蔵館の2棟からなり、日本酒と西宮市ゆかりの花、桜の博物館として昭和57年(1982)に開館し、江戸時代から続く酒どころ・灘の伝統的な酒造りを紹介しています。明治2年(1869)に建てられた木造の酒蔵を酒蔵館にし、数多くの道具や映像を通して当時の酒造りを追体験できます。井戸や酒米を蒸していた釜場の遺構も残っていてミュージアムそのものから歴史を感じられる唯一無二の博物館で、酒の歴史や文化を研究する専門の学芸員がおり、学びのある企画も多数あり複数回行っても楽しめます。

白鹿」の由来は、唐の玄宗皇帝の頃、宮庭に一頭の白鹿が迷い込み、その角の生え際には「宜春苑中之白鹿」と彫った銅牌が現われた。宜春苑とは唐より千年さかのぼった漢時代のもので、千年の寿をもつ霊獣として白鹿は愛育されたこの中国故事による。「白鹿」の名には、350余年の昔から、自然の大いなる生命の気と、日々の楽しみと、長寿の願いが込められています。記念館の駐車場裏には南辰馬家の初代当主の私邸(邸内非公開)が残っている。

最後は北に上がってもとの酒蔵通りにある「白鷹禄水苑」へ。白鷹株式会社は、文久2年(1862) 初代辰馬悦蔵が辰馬本家(白鹿醸造元)より分家し、当時西宮にあった雀部家の「鱗蔵」を買い取り酒造りを始め、「鱗」印と銘うって江戸への積み出しを開始したのが始まりです。(北辰馬家)

後に「白鷹」印と銘うつお酒は伊勢神宮の御料酒として献上される唯一の日本酒です。鷹は百鳥の王といわれ、その中でも白い鷹は千年に一度現われる霊鳥といわれていて、王者の風格と気品をもつ鷹に、清酒の清らかさをあらわす「白」とを合わせて生まれたのが白鷹の酒名です。

この地にあった白鷹の蔵元・北辰馬家の住居と酒蔵が地続きになった造り酒屋の暮らしぶりをイメージして再現した2001年にオープンの建物は漆喰壁に虫籠窓、戸をガラガラと開けると、昭和初期にタイムトリップしたかのような落ち着きのある土間の空間が広がり情緒豊かです。

1Fは蔵出し限定酒や全国からこだわりの肴を集めたショップ「美禄市」、女性一人でも気兼ねなく入れる「蔵BAR」 、1Fの奥から2Fにかけて実際に白鷹の辰馬家で使われていた暮らしの道具を展示している「暮らしの展示室」、食事処「東京竹葉亭西宮店」がある。また中庭を挟んで別棟は「白鷹集古館」になっています。白鷹集古館の展示室に並ぶ代々受け継がれてきた生活用品などからは当時の様子がうかがえるが、特に白鷹が登場する書籍の展示に興味を引かれ、小学館の漫画「美味しんぼ」第4巻に描かれていたり、藤本義一著「掌の酒」や吉行淳之介著「やややのはなし」等に描かれていました。

毎年1月10日、くじ引きで選ばれた人が境内を駆け抜ける「福男選び」で有名な「西宮神社」は、商売繁盛、えびす神社の総本社です。そこの奉納石柱には、西宮神社の氏子総代である「辰馬家」が名を連ねています。また神戸の名門校「甲陽学院中学・高校」の運営母体は辰馬家で、酒造以外でも地元に影響力を発揮しています。また西宮神社には白鷹酒造の辰馬悦叟氏志願奉納の青銅製の馬が夫婦一対参拝者を迎えています。この馬の製作は皇居前広場の大楠公像の 馬の作者である後藤貞行で、明治三十二年四月から神社境内に作業所特設の鋳造場も設けて十一月に完成させています。 あの村上春樹氏が小説「海辺のカフカ」の中で、「ディレッタント的な性格を持つ素封家の手によって・・・」と記されている。

手漉きの和紙を透かした柔らかなライティングが欅の一枚にしっとりと映えるカウンターのゆったりとくつろいだ雰囲気の中、禄水苑限定酒や白鷹の代表酒を気軽にお楽しみいただける土・日・祝限定のバーが蔵BARです。12時になったのでカウンターの席に着く。モダンな土間風のカウンターの奥には日本酒が並び、「クッキングパパ」のうえやまとちと、「味いちもんめ」の倉田よしみのサイン色紙が立てかけられていました。

おすすめは「季節の飲み比べセット」(1000円)で季節の酒3種に酒肴が1品がついている。今回は禄水苑限定の純米大吟醸「醇味緑酒」、純米吟醸「超辛口」、常温の純米酒の3種に小鯛の昆布締めがついていたが、肴が足りないので赤鳥の炭焼き(400円)を追加した。

2週に渡って灘五郷を満喫した酒蔵巡り。灘の酒はクセがなく、飲み飽きがしない。知らなかった小規模の酒蔵にも美味しいお酒があることに気づかされました。

電車で行ける灘五郷神戸。銘酒を買って、飲んで、蔵元めぐり」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4143

令和2年に『「伊丹諸白」と「灘の生一本」下り酒が生んだ銘醸地、伊丹と灘五郷』江戸時代に「下り酒」と呼ばれ、江戸っ子たちえを魅了した上方の酒。そのであった醸造地伊丹や灘五郷には今も多くの酒蔵があり、日本有数の酒造地帯として、多様で豊かな日本酒文化を育んでいる。として日本遺産に認定されました。

 

 

 

 

 

 

 

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