笠間と益子で「かさましこ」。兄弟産地で陶芸市と酒を愛でる

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弘法大師空海が命名した信仰の山「八溝山」地鶏山塊を挟んで向かい合う茨城県笠間市と栃木県益子町は、古代より土器や須恵器造りに必要な粘土や、木材に恵まれた土地柄でした。同じ文化圏にありましたが江戸時代に別々の道を歩みました。幕末、益子焼の陶祖・大塚啓三郎が笠間焼の久野陶園で学んだことで、再びその関係が強まります。こうした背景から、陶器の産地として共に歩んできた笠間市と益子町の二大窯業地「かさましこ」は、2020年に「かさましこ~兄弟産地が紡ぐ“焼き物語”~」として日本遺産に認定されました。かさましことは「かさま」と「ましこ」を合わせた造語。“兄弟窯”とも呼ばれる二大窯業地を訪ねます。

春や秋の連休を含む行楽シーズンを中心に、全国各地の窯場で開かれ、大勢の人で賑わう陶器市。市価より安く購入できるとあって、普段は手を出しにくい器を入手するチャンス。膨大な器の中からお気に入りの逸品を探し出します。陶器市は、①広場やイベント会場に出店が集うタイプと、②町全体が陶器市の会場になるタイプの2つに分かれます。笠間では①の「陶炎祭」へ、益子では②の「春の陶器市」が開催中。

笠間は、栃木県との県境に横たわる八溝山系の山々に囲まれた陶郷です。日本三大稲荷の一つとして名高い「笠間稲荷神社」があり、その庶民的な門前町にやきもの産地が誕生しました。先ずは笠間稲荷神社にご利益を求めてお参りします。五穀豊穣、商売繁盛、開運厄除けなどの神様として知られ、殖産興業の神様として古くから崇拝されてきた宇迦之御魂神を祀ります。笠間焼で知られる笠間市の中心部に鎮座し、諸説ありますが京都の伏見稲荷、佐賀の祐徳稲荷と並んで日本三大稲荷のひとつとも言われます。

白雉2年(651)の創建。寛保3年(1743)に笠間城主井上正賢が社殿を拡充し、以来歴代城主の祈願所として栄えました。この場所にはかつてクルミの大木があり、その下に祠を建立したのが神社の始まりとかで、別名を「胡桃下稲荷」ともいい、門前にもクルミを使った名物グルメが点在しています。

石畳の参道から楼門をくぐって境内に入ると真正面に朱塗りの柱と金飾りが美しい立派な拝殿、その奥には、幕末に再建された総ケヤキ造りの本殿が厳かに佇んでいます。生命の根源を司る祭神・宇迦之御魂神に参拝し心の中で願い事をいいつつ柏手を打ちます。

拝殿前には樹齢400年にも及ぶ宝木である藤の木が2株あります。5月の花期には大藤はたわわに咲き誇り、八重の藤は150cmもの花穂を垂らしてぶどうの房のように集合して咲き、種子をつけない珍しい種類です。

実はここの本殿裏手に施されている弥勒寺音八と諸貫万五郎が手掛けた「蘭亭曲水の図」や名工と言われた後藤縫之助の「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」など精巧を極めた見事な彫刻が建物周囲に施されいるので必見です。

笠間市は関東で最も古い歴史を持つ焼き物の町でもあり、春のこの時期、笠間芸術の森公園での「笠間の陶炎祭(ひまつり)」が行われています。また会場となっている笠間芸術の森公園には、陶芸を専門とする茨城県陶芸美術館があり、「近代陶芸の祖」板谷波山や笠間市出身で練上手という技法を集大成して笠間焼作家で初めて人間国宝になった松井康成など、日本陶芸界最高峰の作品を一堂に集めています。

笠間焼は江戸時代中頃の安永年間(1772~819に、信楽から招かれた陶工の長右衛門と地元の久野半右衛門が協力して開窯。寛政年間(1789~1801)には藩主の奨励を受け、主に日用雑器を焼く窯が領内にいくつも開かれました。当時はそれぞれの窯のある村の名を取って「箱田焼」とか「宍戸焼」とかいわれ、笠間焼という名前で統一されたのは、鉄道開通によって都心部に販路が開かれた明治以降といわれ、笠間焼中興の祖となる田中友三郎という商人が名付けました。昭和初期までは主に大鉢や徳利、土鍋、漬物甕などで、笠間で焼かれる日用雑器は厚みがある作りで丈夫で長持ちすると評判になり一大ブランドとして地位を確立しました。戦後、日本人の生活様式の激変によってそれまでの生活雑器からいわゆる工芸品へ方向転換を余儀なくされました。

しかしそれが現代の自由闊達な笠間焼につながり、今ではその自由な空気に魅せられて多くの陶芸家が笠間に窯を築き、個性を生かした美術工芸品やモダンクラフトなどの作品を発表し、笠間焼の幅を広げています。現在250以上の窯元があるが、その9割が陶芸作家として歴史や伝統にとらわれない自由な作陶活動を展開していて、「特徴のないのが笠間焼の特徴」と笠間で焼物に携わる人たちは口をそろえます。

笠間の陶炎祭は、笠間焼の窯元、陶芸家による手づくりのおまつりで200以上の作家が集まって自慢の作品を展示するだけでなく販売もするため、陶芸家と直接触れ合うことができる笠間焼満喫の祭典です。クラフト作家の見本市のような感じで、ゆっくりと陶器でも見ながら日がな公園で一日を過ごすというアットホームなお祭りです。

マイ猪口倶楽部店では笠間で笠間に乾杯と銘打って試飲会が催されていたのだが、なんとそこには昨晩TV番組「おじゃMap」で茨城バスツアーで奥久慈シャモの焼き鳥にあわせて飲んでいた「山桜桃(ゆすら)」を醸す笠間の酒蔵「須藤本家」が出店していました。

平安時代末期の永治元年(1141)に酒造りをしていた日本最古の酒蔵と称される「須藤本家」。「酒・米・土・水・木」という「よい酒はよい米、よい土、よい水、よい木」からを家訓に、全て精米歩合50%以下の全量純米大吟醸にこだわる酒蔵です。収穫5ヶ月以内の新米、地元産亀の尾系コシヒカリ(一等米以上)のみを使用し、敷地内の井戸から汲み上げた伏流水を使い、寒仕込みを貫く。酒本来の味わいを生かすため搾った酒は、濾過をかけず自然の沈殿を待ち澱だけを除き、火入れによる滅菌をせずに生酒のまま貯蔵するというこだわりです。

「山桜桃」「郷乃誉」「霞山」の純米大吟醸を試飲。「純米大吟醸山桜桃」は世界最高級のワイン「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」(DRC)の醸造所オーナー、オーヴィレド・ヴィレーヌ氏を驚かせた日本酒です。試飲すると華やかで軽やか、かつ多彩なニュアンスを持つ。青リンゴやサクランボのような果実香に加え、バニラやナッツのニュアンスも立ち上り、口に含めばするりと舌上を転がる滑らかさがある。辛口の中にも酸味と木目の細やかな味わいが揺らめき、繊細で複雑な和音を奏でる。そして後に続く上品な長い余韻が続きます。「純米大吟醸郷乃誉生酒」からは青リンゴのような爽やかな香りが立ち上り、口に含めばキリッとした味わいの後、柔らかアタック、わずかな酸味が静かに広がる。バランスの良さと優しい味わいは純米大吟醸の生酒ならではと感じる。「純米大吟醸霞山」はより力強く、重厚な味わいです。

続いて陶器市で賑わう益子へお気に入りの器を探しに出かけます。笠間市と益子町は約20km、県道1号線を経由して車で30分。笠間の技術が益子へ伝えられたといい、“かさましこ”という造語ができるぐらい繋がりの深い益子町です。関東平野の北、栃木県の南東部に位置する益子町は、浅いすり鉢状になだらかに広がる丘陵地帯にある。遠くに標高2000m級の男体山や赤城山が悠然と鎮座し、すぐ近くには標高271mの芳賀富士。そして八溝山系最南部の雨巻山がぐるりと辺りを囲んでいる全国でも屈指の焼き物の里。四季折々の自然と、ゆるやかな起伏の山に育まれたこの土地では、やきものの原料となる良質の陶土を産出します。手のひらで包むと土のぬくもりがじんわりと伝わってくるやきものは“益子焼”として日本のみならず、海外にも知られるようになっています。ざらりとした粒を感じる土の質感、適度な重さ、安定感のある形。ぼってりとかかる釉薬がガラス質の艶を帯び、その色は深い黒や柿、青磁、温かみのある糠白などが代表的。おかにも焼き物らしいどっしりとした姿が益子焼の良さで、ちなみに横川の「峠の窯めし」の土釜は益子焼で「窯元つかもと」で作られています。

江戸時代末期の嘉永6年(1853)笠間で修行した大塚啓三郎が黒羽藩の許可を得て窯を築いたのが始まりとされます。やきものの歴史は、笠間から遅れること50年。明治時代に土地の豊富な粘土と薪を使って当初は主に鉢、水甕、土瓶といった日用品の産地として発展しました。大正13年(1924)濱田庄司が柳宗悦、河井寛次郎らとともに日本の雑器を「民衆の工芸」と呼び、「用の美」を賞賛して民芸運動を進めました。濱田は益子の土が作風に合ったことなどから、昭和5年(1930)この地に移住し、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は芸術品としての側面も持つようになりました。肉厚のざっくりとした質感、柿釉や黒釉、糠白釉などによる素朴な味わい、流し掛けの技法など、今日の益子焼の特徴は濱田庄司が引き出したといってよく、現在、窯元は約250、陶芸店は約50、多種多様な陶芸家たちの作品がそろいます。

毎年春と秋には益子陶器市が開催され、城内坂・道祖土(サヤド)地区を中心とした町中に約50の販売店と約500のテントが軒を連ね、様々な益子焼が通常より安く販売されます。共販センター第4駐車場にかろうじて車を停めます。写真は益子焼窯元共販センターのシンボルたぬき像「ぽんたくん」。

どこから見ればいいか迷ってしまう時は、写真の益子焼窯元共販センターへ。敷地内に本店、新館売店、陶芸館など複数の建物が立ち、益子にある窯元の約7割、270もの窯元や個人作家の作品を一挙に扱っているまさに益子焼のデパート。150円の湯飲みから数百万円もの値のつく作品までバラエティ豊か。お洒落ななショップとは違って、何枚も重ねられた小皿や茶碗、瓶やすり鉢が青空のもとに並ぶ。気に入った作風の窯元をチャックし、店舗があれば訪ねてみるのがおすすめです。

益子焼窯元共販センター前の共販テント村の廉価市で掘り出し物を探し、道を隔てたくみあい広場でも探します。

陶芸の街、益子のメインストリートである城内坂通りを下ります。益子駅から徒歩15分程度の城内坂交差点から東に約500m続く、歩きやすく整備されたゆるやかな坂の左右に、カフェやギャラリーのほか、個性豊かな益子焼の販売店約30軒が軒を連ねる。軒先に並べられた陶器を見まて回るだけでも楽しい。

途中にある一本露地裏に入った場所に「TOKO PARK」という益子陶器市のテント村があります。春・秋の年2回行われる益子陶器市の期間中のみ開いている。陶器の他、かごバックや和紙などのクラフト品も取り揃え、毎回自分たちで課題を決め制作した一品は、ここでしか出会えない密かな作家さんのマニアックアイテムに出合えます。

城内坂交差点そばに田中製陶および益子焼窯元直売センターがあります。田中正生さんの作品は塩釉という技法で作られた器。塩釉とは焼成中の窯の中に塩を投げ入れる技法で、日本で初めて塩釉をドイツから取り入れ、試みたのが濱田庄司で、全国でも益子で最も盛んに作られています。田中さんは一回の窯で、40kgもの塩を5~6回に分けて投げ入れ、細かい鱗のような紋様が特徴的です。

直売センターの広い店内には益子焼の器が整然と並んでいます。窯元直売なので時価の30%~50%引きで販売されていますので、お気に入りが見つかれば値打ちものです。

陶器市は公式ウェブサイトで最新情報を確認し、事前に会場周辺の駐車場や公共交通機関を調べておきます。マップも念のため事前にプリントアウトしておくと安心です。そしてできれば商品が豊富な初日を狙い、朝早い時間からのスタートを心がけるといいです。荷物は最小限に抑え、歩きやすい靴、両手は空けて動きやすい服装で行きましょう。

漠然と歩きまわると、商品の数の多さに呑まれてしまうので、大皿なら大皿、飯椀なら飯椀と、手持ちの器と照らし合わせて、前もって何が欲しいか、アイテムを書き出しておくと目移りせずにすみます。現地についたら、観光協会や観光案内所といった中心施設で配布しているマップを入手し、伝統産業館や交流館などにある、全窯元の器が揃うギャラリーで作品を鑑賞し、好みの窯元をマップに書き込んで優先順位をつけておくと効率よく巡りることができます。

最後に器探しとともに土地の恵みを満喫しましょう。

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