良寛さんの故郷!妻入りの街並みの北前船の寄港地“出雲崎”

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新潟県のちょうど真ん中にある出雲崎町は北国街道に沿って発展した佐渡島と相対する地にある町。約10kmの海岸線と小高い山に囲まれた静かな町で、全国でも珍しい海岸線に間口が狭く奥行きが長い「妻入り」の街並みが3.6kmにも連なる美しい町。江戸時代から明治時代にかけて日本海を往来した北前船の寄港地のひとつであり、佐渡金山の金銀荷揚げ港としても栄えた天領の湊町でした。詩人・歌人・書家として知られる良寛(1758~1831)生誕の地でもあり、由緒ある神社仏閣なども多く点在し、まち歩きにもおすすめです。江戸時代に越後一の人口密度を誇った繁栄の名残を求めて出かけます。写真の出雲崎町のデザインマンホールは冬の日本海の荒波と伝統行事の「獅子舞」が描かれています。

長岡駅からJR上越線で柏崎、越後線に乗り換え出雲崎で下車します。駅前の出雲崎観光案内所で情報を仕入れたら出雲崎目指して出発です。距離は約5.5km、およそ1時間半の道程です。

良寛は出雲崎の名主橘屋山本家の長男として生まれ幼名は栄蔵、父は俳人・以南。18歳で尼瀬光照寺ににて剃髪し、招かれていた備中玉島の円通寺の国仙和尚のもと22歳で得度し、大愚坊良寛の名をいただく。その後円通寺に赴き修行後、諸国行脚に出立。35歳で越後に帰郷し、48歳の時に国上山国上寺の五合庵に定住。その後乙子神社草庵に住み、最後は和島村木村家に移り、74歳で示寂します。写真は日本海夕日公園の良寛像

先ずは国道352号を約1.7km、23分ほどで小竹バス停近くの良寛の里案内パーク出雲崎に到着します。出雲崎町の良寛の史跡を案内する立ち寄りスポット。ここが中部北陸自然歩道コースの一部になる良寛さんの心に出会うみちのスタート地点です。国道352号を左に折れ、中山の西照坊、良寛記念館、良寛と夕日の公園、円明院、良寛堂、芭蕉園、道の駅「越後出雲崎天領の里」へと続いていきます。

西照坊は安永初年(1772年頃)に、中山の百姓総代南波家が出身の妙喜尼のために建てた尼堂で、良寛さんが諸国行脚から帰郷した35歳時、生家が争いの渦中にあった時に一時仮住まいした庵です。良寛の歌碑「出雲崎にて 春の野に 若菜摘みつつ 雉の声聞けば 昔の思ほゆらくに」がある。

ここ西照坊から良寛記念館を結ぶ約2km徒歩約30分の山道は良寛さんが歩いたゆかりの道です。登山道のように細く急な坂が続く道ですが、尾根からは日本海が一望できます。途中には室町時代の永禄年間(1558~70)に円明院に滞在中の尊澄法師が薬師如来を安置したお堂跡(あずま屋)があります。この薬師堂は円明院(菩提寺)と中山の西照坊のほぼ中間にあり、中山の西照坊に仮住まいした良寛が橘屋の菩提寺円明院を詣でる途中、立ち寄った薬師堂のあった所です。

良寛の古道を抜け、良寛記念館を目指す途中、真言宗豊山派に属する出雲山多聞寺があります。神亀2年(725)行基の開基と伝わり、永禄11年(1568)上杉謙信の村上本庄氏攻めや天正13年(1585)以降の上杉景勝による佐渡平定のための宿陣となりました。本尊は上杉家の護佛である毘沙門天であり、順徳天皇が佐渡の配所で拝んでいたとされる菅公の木像が安置されています。

良寛の古道のゴール地点の良寛記念館は、出雲崎町の郷土史家で良寛研究家の佐藤耐雪から寄贈された良寛さんの遺墨や遺品、関係資料などが展示されています。また敷地内には五合庵を模した庵などがある庭園も併設されています。記念館裏には歌碑「沖つ風 いたくな吹きそ 雲の浦は 我がたらちねの 奥つ城処」が立つ。

設計は東宮御所や帝国劇場、藤村記念館(小諸)などを手がけた東京工業大学名誉教授の谷口吉郎博士で、建物は展示棟・回廊・管理棟からなる。管理棟(昭和39年建築)は切妻造りの平屋。南西隅以外の濡縁、緩やかな屋根と深い軒の出、開口部の縦格子が意匠上の特徴で、谷口博士の得意な現代の和風表現を実現しています。昭和39年(1964)建築の管理棟と展示棟を結ぶ回廊は、南側に壁を建て、片持状に床と屋根を張り出す。両棟と相まって庭を画するのみならず記念館全体の空間構成を有機的にまとめる建物です。昭和36年(1961)建築の展示棟は切妻造妻入平屋建で東西北の各面に濡縁を巡らす。全体に建ちが低く、周辺環境とよく馴染み、谷口博士の特徴を良く表す鉄筋コンクリート造和風表現の秀作です。平成28年(2016)国登録有形文化財に指定されました。

隣の良寛と夕日の公園新潟景勝百選一位の地で、向かいに佐渡島、右手に弥彦山、眼下に良寛堂、出雲崎漁港、そして海岸線に続く妻入りの街並みを見ることができます。

良寛と子供の語らいの像、と種田山頭火が訪れた時に詠んだ歌碑「淡雪の 中にたちたる みちおふち またそのなかに 淡雪ぞ降る」があります。

出雲崎は、神話時代に大国主命によって開拓されたと伝えられる歴史の古い町です。海上交易の港として北陸街道の宿駅とし、軍勢の集結地として重要なところでしたが、寺泊とともに佐渡への罪人配流の船出地でもありました。江戸時代、佐渡から江戸へと金銀が運ばれた北国街道は東海道や中山道に次ぐ重要な街道として宿場町が多数点在していました。なかでも天領であった出雲崎はその要所として大変なにぎわいをみせました。現在352・402号線及び町道海岸線となっていて、この道の両側に妻入りの家々が軒を寄せ合って並んでいて往時の面影を留めています。歴史街道は国道交通省が選定した全国24カ所の旧街道や古道のことで、北国街道出雲崎宿が選定されています。

また昔から冬場の手仕事として“紙風船”作りが盛んに行われた地。国内唯一の紙風船製造元の磯野紙風船製造所があります。

円明院は正和4年(1315)に建てられた橘屋山本家の菩提寺である真言宗の寺院。本堂に「良寛さんの生家橘屋の菩提寺」とあります。良寛の弟宥澄は、僧となり大和国長谷寺で仏学を修め、円明院十世を継ぐも良寛さんより若くして寛政12年(1800)31歳で早折しました。

良寛堂は良寛の生家である橘屋山本家の屋敷跡に建ち、良寛の母の国佐渡島を背景に日本海に浮かんでみえるように設計されている浮御堂です。歌碑「いにしえに かはらぬものは ありそみと むかひにみゆる さどのしまなり」や境内裏には佐渡島を見つめるように座っている良寛像、父以南の句碑「我がやどは 羽音まで聞く 千鳥哉」などがあります。

松尾芭蕉と曾良が『奥の細道』の旅の折、元禄2年(1689)に出雲崎の旅籠大崎屋に杖をとどめ、夜海辺の窓を押し開けて有名な句を詠み遺しました。その旅籠の前にあった出雲崎の町年寄で橘屋と権力争いをした廻船問屋敦賀屋鳥井家の屋敷跡に昭和29年(1954)句碑が建てられ庭園として整備されたのが芭蕉園です。その句が「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」です。写真奥に句碑があります。

廻船問屋だった熊木屋の広い敷地がその名残をとどめている稲荷町に、北国街道妻入り会館があります。最盛期には2万人以上の人々が暮らすことができたのは、切り立った崖と日本海に挟まれたわずから平場だけでしたので、多くの人が居住できるように、また建物の幅に応じて課税されていたことから、間口は2間(約3.6m)ほどで奥行きの長い(70m)いわゆる「ウナギの寝所」のような町家が軒を連ねました。その結果、道に面して屋根が八の字の様に見える妻入りの屋根が約4kmにわたって続く、独特の街並みが生まれたのです。

妻入り会館の隣に築100年以上の町家を改装した出雲崎寄港地の町家があります。出雲崎は元和2年(1616)佐渡で産出される金銀の荷揚げ港として幕府直轄の天領となり湊も街道も整備され栄えました。さらに江戸時代後半には北前船の寄港地としての顔も加わり、「天秤棒一本持って出雲崎に行け」といわれるほど、働き口に不自由のない土地となり繁栄は続きました。江戸時代の人気作家・十返舎一九の旅行記『越後道中記・金の草鞋』にも“繁盛の湊”として登場しています。佐渡との距離は最短ではないものの出雲崎沖は潮の流れが緩やかで港は岩礁のある入江となっていて船を停泊させるのに適していました。当時の出雲崎には敦賀屋、熊木屋、泊屋をはじめとする有力な廻船問屋が多く存在していました。

妻入りの街並みにはたくさんの小路があります。伊勢町には出雲崎本町の名主橘屋山本家とライバル関係にあった尼瀬町の名主京屋野口家の屋敷があったところです。両家は代官所の設置場所などで争っていましたが橘屋はことごとく負け、のちに没落してしまいました。神明様小路は屋敷に東寄りの小路で神明神社に至っています。また四軒寺小路もあり、念相寺(音羽御前住居跡の碑)・萬因寺・光照寺(良寛剃髪の寺)・善勝寺の4軒のお寺び続く小路です。音羽御前とは、源義経の忠臣として知られる佐藤継信・忠信兄弟の母で、屋島の合戦や京都で戦死した息子たちの戦場の跡を見ようと旅立ち、出雲崎にたどりつきましたが、先の長い旅を思い断念し、尼瀬の釈迦堂(念相寺の前身)で尼僧となり二人の菩提を弔っていました。建久元年(1190)、二人の息子が立派な最後を遂げたという詳報を聞き、嬉しさのあまり、尼僧達と袈裟法衣のままで唄い踊ったのが「おけさ」の源流となったと伝えられています。

慶長3年(1598)大久保石見守が佐渡奉行として当町に駐在し、佐渡鉱山の開発に努め、鶴子銀山に続いて6年には相川金銀山と大量の金銀が産出され佐渡小木港より年何回となく荷揚げされました。港と北国街道をつなぐ金銀御用小路は、船から車馬に移し替えられた佐渡の金銀は、「御用」の札を掲げてこの小路から信濃路を経て十一日かけて江戸へ運ばれていきました。陸揚げされた金銀を一時保管した建物が「御金蔵」と呼ばれ、米屋伝吉屋敷裏にありその跡地は尼瀬(伊勢町)のこの小路付近と推定されています。

越後出雲崎「天領の里」は江戸時代7万石の天領として栄えた出雲崎の街並みをリアルに再現した時代館や石油記念館、レストラン陣屋、物産館がある道の駅です。

オーシャンビューのレストラン「夕日庵 陣や」では平成25年(2013)「国際ご当地グルメグランプリ」でグランプリ獲得の「さざえの炊込みご飯」がいただけます。日本海、そして海に突き出た夕凪の橋が目の前に目の前。おすすめは数量限定の出雲崎漁港直送御前2800円(ドリンクバー付)です。出雲崎の魚料理(水揚げ状況によって変わりこの日はマイカ2枚)甘く煮付けられたマイカの身は柔らかいながらも歯応えもある。さざえの炊込みご飯、歯応えのあるサザエは磯の香り漂う一番ダシで炊き込んだご飯との相性抜群。刺身(コチ)、さざえの壺焼き、海鮮茶碗蒸し、あおさ汁、もずく酢です。出雲崎産のさざえは、日本海の内陸の穏やかなところで育ち、角が小さいのが特徴です。出雲崎では古くからおめでたい時にさざえの炊込みご飯が食べられていました。

越後出雲崎「天領の里」の敷地内にある夕凪の橋は多くのカップルが訪れる、恋愛成就のパワースポットです。日本海夕日公園から日本海に延びる、長さ102mの木製の観光ブリッジで、『橋の欄干に鎖を結び鍵をかけると恋が成就する』といううわさが自然発生的に広まり、いつしか“恋人たちの橋”と呼ばれています。

橋の袂には、子供の頃、人を上目使いで見る癖があり、父に「上目使いで親をにらむような者はカレイになるぞ」と叱られ、海岸の岩場にしゃがみこんでカレイになったらどうしようと心配する少年栄蔵の像が佇んでいます。

帰路出雲崎駅を目指し国道352号を上がっていきます。その上り口近くにあるのが石井神社です。神代の昔、各地を平治した大国主命が、この地に来られ佐渡島を平治しようとしたが海を渡る船がなく、そこで石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして十二株の大樹が繁りました。その霊樹で船を造り海を渡って佐渡島を平治したち伝えられており、その時大小の魚が船を守り助けたので十二株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り、海上守護の大神を祀りました。和銅4年に現在地に移されて以降、良寛の生家橘屋山本家が宮守を務めた神社です。元禄3年(1690)、橘屋山本家により海上祈願として始められた出雲崎大祭が毎年6月17日に行われます。

もう一度妻入りの街並みを眺めて出雲崎とお別れです。

“清貧の托鉢僧”良寛ゆかりの越後西蒲三山「国上山」を登る」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/6135

 

 

 

 

 

 

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