伊勢松坂城と歴史建築が並ぶ城下町で豪商と宣長の足跡を辿る

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言わずと知れた日本三大和牛のひとつ「松阪牛」で有名な街「松阪」。そのブランド力・美味しさは折り紙付きで、確かに松阪牛はすごいのですが、もっといろいろすごいのです。松阪の町は天正16年(1588)蒲生氏郷がこの地に松坂城を築城したのに始まり、寺社や商人を呼び寄せて城下町が整備されました。城に通じる町並みがのこぎり状に凸凹していたり、御城番屋敷が当時のまま残っていたりして散策すると城下町の面影があちこちで感じられます。

江戸時代に紀州藩領だった松阪は、武士が少なく商業活動が自由に行われたため、多くの豪商も生まれました。現在の「三越」として発展を遂げた三井グループの創始者・三井高利は松阪の代表的豪商で、他にも江戸日本橋に店を構える松阪商人が続出。彼らは今も残る豪華な邸宅だけでなく、来迎寺や養泉寺、樹敬寺など寺社にも多額の寄進を」して、松阪の町を形作りました。また、医者であり国文学者であった『古事記伝』を執筆した本居宣長も忘れてはなりません。偉人の息吹がそこかしこに感じられる歴史ロマン溢れる街でもあります。往時のままの雰囲気が残る街並みをふらりと歩いて、歴史に思いを馳せてみます。

おもな見どころや食事処は、駅から松坂城跡のある松阪公園の間に集まっていて、城跡周辺の散策コースなら2~3時間ほどで見て歩けます。JR松坂駅南口から駅前通りを直進、3つ目の信号・日野町交差点を右折すると「新上屋跡」があります。宝暦13年(1763)5月25日、真淵の『冠辞考』に強い衝撃を受けた本居宣長(34才)が、伊勢参りに来ていた江戸の国学者賀茂真淵と会った「松坂の一夜」の舞台となった旅宿が新上屋です。この出会いが宣長の古事記研究の「きっかけとなりました。

参宮街道に沿い、和歌山街道分岐点に近いこの界隈には、本陣や馬問屋などが並び、往還の人の絶えることはなかったといいます。現在松阪牛のすき焼きの名店、明治11年創業の老舗和田金」はこの通り沿いにあります。東京の料亭「和田平」で修行を積んだ初代店主和田金兵衛が、当時 味噌味だった「牛鍋」を、醤油を使った現在の「すき焼き」の形に作り上げた「寿き焼」発祥の店とも言われています。由緒正しい但馬地方の仔牛を、雲出川と宮川の間の地域で育て上げた処女牛、これが松阪牛の定義で日本一との誉れも高い。 

その隣の「柳屋奉善」は天正3年(1575)の創業。蒲生氏郷とともに近江日野から移転してきた当初から作り続ける銘菓「老伴」は、鴻と“延年”の文字を配したもなかの種に羊羹を流し込み、糖蜜をを塗って仕上げたもの。「古瓦」の名で販売していたものを、茶会などにたびたび利用していた三井家の祖・三井高利が白楽天の句にちなんで、永遠の付き合いを意味する「老伴」に名付け変えたといいます。

本町の交差点にある三越のシンボルであろライオン像がある豪商ポケットパークを過ぎ、伊勢神宮に至る旧参宮可街道(伊勢街道)沿いの古い町並みが残る通りを進むと、白い壁と瓦屋根の立派な門が現れます。「現金掛け値なし」の商法で後の三井財閥の基礎を築いた三井高利(1622~1694)ゆかりの屋敷跡です。非公開ですが今も高利が産湯に使ったとされる井戸や高利の父・高俊や一族の供養塔などが残り、「三井家発祥の地」として松坂市の史跡に指定されています。

同じ通りにある江戸期に紙や木綿を商った豪商・小津清左衛門の屋敷は「松坂商人の館」として公開されています。江戸時代の松阪には、小津清左衛門家、小津与右衛門家、小津茂右衛門家のように『小津五十党』と称されるほど小津性を名乗る商人がたくさんいました。中でも小津清左衛門長弘は承応2年(1653)に木綿商小津三郎右衛門道休(本居宣長曾祖父)の資金援助で紙問屋を開業し、小津家は江戸に出店を構え40店以上を束ねるほどの成功をおさめ、宝暦5年(1755)には紀州藩の御為替御用も務めました。

質素な外観とは対照的に、全盛期の5分の3の敷地には主屋、蔵などが立ち並び、邸内は広く2階建ての母屋は太い梁と高い天井が特徴で、立派な二つの蔵や茶室や座敷など部屋数は20余りあります。松阪には伊勢参りの旅人に食事などを無料でもてなす施行という風習があり、炊き出しをした大きなかまどが幾つも残り、盗難対策で鉄格子を屋根裏と壁に施した内蔵と前蔵から見つかった千両箱ならぬ万両箱も展示され当時の豪商ぶりがうかがえます。

松阪は羽柴秀吉の命で天正12年(1584)に南伊勢12万石の領主となった蒲生氏郷が城を築き、蒲生家に吉祥をもたらす「松」の字と秀吉の本拠地大坂の「坂」の字を併せ「松坂」と名付けたことに始まる城下町です。郷里の近江日野や伊勢の大湊から商人を招き、楽市楽座を採用し、参宮街道を町中へ引き込むなど、商都とぢての礎を築きました。後に紀州藩の飛び地領となりますが、代官預かりとなって城主がいなかったため、自由な商いができ、才気あふれる松阪商人が生まれ、三井家など江戸時代に多くの豪商を生みました。こうした商人によって広められたのが松阪木綿です。

松阪木綿の歴史は古く、昔から松阪近郊には優れた織り手が多く、この地で織られた布が、昔も今も伊勢神宮に神御衣として奉納されているという伊勢神宮との深い繋がりを持ちます。やがて蒲生氏郷が松阪に招いた伊勢の廻船問屋、角屋七郎兵衛が安南国(現ベトナム)との貿易を始め、この時もたらされた「柳条布」という紺地に縦じまの模様に代表される当時としては斬新なデザインを取り入れて松阪木綿が生まれたといいます。松阪木綿の特徴である「縞」は貿易を意味する「島渡り」が語源ともいわれます。

江戸に店を持つ松阪商人は松阪木綿を大々的に販売し、夏は涼しく冬は温かい機能性と独特のおしゃれな縞柄は、粋を重んじる江戸っ子の心を捉え大ブームを巻き起こしました。歌舞伎役者が縞の着物を着ることを「マツサカを着る」というように、縞といえば松阪木綿、粋といえば松阪木綿で、年間50数万反も売れたといい、松坂商人に富をもたらしました。

参宮通りから一本南の魚町通りを歩きます。板塀や格子造りの建物が並ぶ魚町通りは電線が地中化され、過去へと迷い込んだ気分にさせててくれます。まずは「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商旧長谷川治郎兵衛家があります。長谷川家は数多い江戸店持ち松阪商人の中でもいち早く江戸に進出して成功を収めました。延宝3年(1675)、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬街一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。広重作「東都大伝馬街繁栄之図」には、長谷川家の江戸店が描かれており、その繁栄ぶりがうかがえます。長谷川家は質素倹約を家訓とし、堅実な営業を続けることで、寛永4年(1792)には純資産が15万両に達したといいます。

特に「大伝馬町一丁目には伊勢店ばかり」といわれるほどで近江商人と並んで江戸で活躍しましたが、生活は大変質素で、徹底した倹約で知られ、「宵越しの銭は持たぬ」などと言われた江戸っ子の気性とは正反対の倹約生活ぶりを見て、商売上手な近江商人と伊勢商人を揶揄して「近江泥棒、伊勢乞食」などということばが生まれるほどでした。

黒い土蔵が印象的な長谷川邸は、正面外観は建ちの低い、つし二階建てで、袖壁の上に立派な本うだつがあがっています。左手に表蔵を見ながら玄関をくぐると、奥に向かって通り土間が続き、奥に土蔵がさらに4棟、最も古い大蔵、左に米蔵、大蔵の右手に新蔵と西蔵が並んでいます。

北隣には江戸時代末期に建てられたと考えられる町屋、見庵(旧小泉家住宅主屋)が残ります。国学者・本居宣長と親交があり、紀州藩御目見医師であった小泉見庵を輩出した小泉家の旧宅です。江戸時代末期に建てられたと考えられ、主屋は切妻平入、つし2階建てで、正面に出格子をたてて庇を付け、建物前面の幕板や緩勾配の屋根、平面構成に松阪城下の中規模町屋の特徴をよく残しています。

はす向かいには、建物は明治42年に松阪城跡内に移築されましたが「本居宣長旧宅跡地」が残ります。現在旧宅跡に礎石とともに残る家は、宣長の長男・春庭の旧宅と本居家の土蔵です。またこの旧宅に残る松は、本居宣長が大切にしていた木です。旧宅を松阪城跡内に移す際には、移植は困難と、枝振りのよく似た松を探して植え、もとの木は魚町に止られました。

通りの最奥、阪内川に架かる魚町橋の袂には明治35年(1902)創業の、すき焼き「牛銀本店」の年代ものの木造二階建ての店構えが古い町並みに溶け込むように佇んでいます。肉を食べる習慣がなかった時代に、創業者小林銀蔵が牛肉の知識を得るために東京の肉料理店「米久」で修行、その後「牛鍋」という言葉もまだ新鮮な興味をそそったころ、「牛鍋と牛めし一銭五厘の牛ぎん」の口上でのの垂れ幕を吊るし、「庶民の方に気軽に肉を食べてほしい」との思いで「松阪牛」を広めました。

いよいよ大手通りから松坂城跡に向かいます。松坂城は天正16年(1588)、織田信長亡き後羽柴秀吉に仕え、後に会津90万石の大大名となる蒲生氏郷によって築かれた、周囲に堀と土居を巡らした壮大な平山城です。松阪に移ってくるや標高約38mの独立した丘陵(四五百よいほの森)に目を付け、北側を流れる阪内川を防御ラインとし、丘陵を南北に分断し、中核部である北丘、城の鎮守神を祀る南丘、両丘の周囲の三ノ丸で綱張りが構成されています。連結式3層5階の天守には金箔瓦が使用され、絢爛豪華な城だったと伝えられます。正保元年(1644)7月29日の大風で天守は倒壊、明治の廃藩置県後に城は破却され、現在は穴太衆の手による荘厳な野面積みの石垣が残り日本100名城、日本歴史公園100選の松阪公園として市民に親しまれています。※松阪は明治22年(1889)の町制施行に際して、地名を「松坂」から「松阪」に改めましたが、城の名称については史跡名称に合わせて「松坂」を使用しています。

石垣は、信長が建てた安土城と同じ形式で、しかも同じ穴太衆に作らせたものといわれ、織田信長を尊敬していた氏郷が信長イズムを継承して造ったとも言われています。

正面、本瓦葺2階建の本格的な櫓門があったとされる表門跡から登城します。奥の正面石垣下には昭和53年(1978)建立、裏千家宗匠千宗室の揮毫の松坂城跡碑が立ちます。千利休が豊臣秀吉の命で切腹させられた折、蒲生氏郷が利休の次男・少庵を会津に預かり、秀吉の怒りが納まるのを待ったという深い絆が伺えます。

右手に折れ少し上ると堂々たる木造建築が目をひく「松阪市立歴史民俗資料館」があります。明治45年(1912)、東宮電殿下(大正天皇)行啓記念に建設された旧飯南郡図書館です。松阪で青春時代を過ごした映画監督・小津安二郎は、この図書館で昼寝をしたとかで、2階は小津安二郎松阪記念館になっています。

助左衛門御門跡から本丸下段へ。本丸下段東角にあった2層の櫓の月見櫓は台所棟と付属舎が付いていましたが17世紀中葉に大破しました。月見櫓跡にはの「檸檬」で有名な梶井基次郎23才の夏、病気療養のため殿町の姉宅に滞在し翌年に発表された短編小説「城のある町にて」の一文を揮毫した文学碑があります。松阪の街並みを見下ろしてみるとまさしく「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格別でごわすな」なのです。

さらに本丸上段へと上ります。北丘は本丸を中心として東側に二ノ丸、南側に隠居丸、西側にきたい丸を配し、周囲に堅固な石垣を巡らせています。写真の本丸上段への石垣は蒲生時代、松坂城築城当時の石垣で「野面積み」と呼ばれる工法で自然石がほぼそのままの形で積み上げられています。石と石の間に隙間があるため水はけが良く、堅固であるのが特徴です。

築城には大量の石材が必要であったため、松阪近郊の石という石が集められたといわれ、3層の望楼型天守があった天守台の石垣には古墳時代の石棺材を積み込んでいます。

本丸上段を囲むように石垣が組まれ、その上には敵見櫓跡、多聞櫓跡、藤見櫓跡があります。ことらは江戸時代の石垣修理時に積み直された石垣で、「打込みハギ」や「算木積み」と呼ばれる工法が使われています。打込みハギは石を積みやすいように表面をノミで加工して形を整えてから積み上げる工法で、石と石の間に小さい石を詰めるのが特徴です。算木積みは石垣の隅に使われる工法で、長方形の石材を長短交互に積み上げていきます。

中御門跡から二ノ丸へ下ってきます。

途中右手、隠居丸の中に魚町にあった本居宣長旧宅が移築されています。明治42年(1909)、宣長旧宅移築時に建設された旧鈴屋遺跡保存会事務所「桜松閣」も並んでいます。

本居宣長旧宅(鈴屋)は元禄4年(1691)築造の本居家隠居所。宣長が12歳から72歳で生涯を閉じるまでの60年間を過ごした終生の居宅であり、この2階が53歳の時に物置を改造した書斎「鈴屋」です。宣長は36個の古鈴を赤い紐で結んだ柱掛鈴を書斎に掛け、その音色を楽しんだといいます。意外に質素なこの商家で医業を営む傍ら日本の古典講釈を行い、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』など78種206冊に及ぶ著述をなしたかと思うと感慨深い。

裏門跡から出ると城の周囲には三ノ丸を取り巻く形で土塁、その外側に堀がありました。裏門から天守に至るまでに桝形が四度も続き、厳重な構造になっています。

石垣沿いには、2基の常夜灯が移設されています。津の新玉講(参宮講)が文政6年(1823)に寄贈した旧伊勢道常夜灯は、初め津の藤枝町にありましたが、昭和初期に現在地に移設。江戸干鰯問屋仲間が安政9年(1780)に寄進した書家三井親和揮毫の旧櫛田川渡し常夜灯は、初め伊勢街道筋の早馬瀬河原にありましたが、昭和29年(1954)に現在地に移設されました。

三ノ丸跡の風情を残した裏門跡前と搦手門(竹御門)跡を結ぶ美しい石畳の道の両側に、美しく刈り込まれた槇垣を巡らした二列十九軒の武家長屋が並ぶ「御城番屋敷」があります。松阪は元和5年(1619)に紀州藩に属し、松阪城の警備を任務とする「松坂御城番」という紀州藩士20人とその家族の住居として文久3年に松坂城三ノ丸に建てられた組屋敷で、ほぼ往時のまま残っています。

御城番武士の祖先は、徳川家康の先遣隊として活躍した横須賀党で、家康の子頼宣の家臣として紀州藩の田辺に遣わされます。事ある時は田辺城主安藤家に助勢する使命を帯びた藩主直属の家臣として、「田辺与力」と呼ばれていました。それから230年余り後、突然安藤家家臣となるよう通達をうけましたが、直臣として紀州藩への復帰を嘆願し続け、6年後の1863年に松坂御城番として帰藩が叶い、彼らとその家族の住居として建てられたのです。屋敷には今も子孫の方が住まわれ、維持管理を行っています。現在1戸分を一般公開され、内部の見学も可能です。(2012/12/8訪問時は何かの旅番組か秋本奈緒美さんが着物を着て撮影していた。)

他の地域の武家屋敷とは異なり、見ごたえ十分で、よく手入れされた槇垣に囲まれ、二つの甍が石畳を挟んで建つ様はまるで江戸時代にタイムスリップしたみたいです。ここから松阪城跡の石垣を見るのも素敵です。

御城番屋敷前の石畳の道から続く松阪神社の参道。石畳と鳥居の先の鎮守の森に松阪の氏神である松阪神社があります。四五百森という松阪城の鎮守の森で古くから手付かずの自然が残っています。石段の参道で境内に向かうと、鎮守の森が包み込む境内は静かで厳かな雰囲気が漂っています。石段を登り切った先に鎮座する松阪神社の本殿は、松阪城の鎮守社として造営された神社ですが、創立は約1000年前という歴史があり、商売繁盛の宇迦之御魂神や病気平癒の少彦名命をはじめとする非常に多くの神々が祀られています。

境内にある御神木(大楠)は樹齢900年ともいわれ、根元には本居宣長69歳の四五百森を詠んだ歌碑「民の戸も ささて月見る よひのもり めぐみのかけの くもりなきよは」もあります。

松阪神社の境内から続く道を進むと松阪が生んだ偉大な国学者であり、三十四年もの歳月を費やして完成させた「古事記」の注釈書「古事記伝」を著した本居宣長を国学神、学問の神として祀る「本居宣長ノ宮」本殿にでます。

受験生には五本(五教科)の鉛筆が五角(合格)のお守り「学業成就守」を購入するといいです。

表参道を下れば、道を挟んで向かい側の高台には本居宣長記念館があります。本居宣長旧宅とは隠居丸と埋門跡でつながっています。

JR松阪駅に戻る途中、伊勢街道から少し入ったところにある樹敬寺と来迎寺に寄ります。樹敬寺は浄土宗に属し、天正16年(1588)、蒲生氏郷の松坂城下建設に伴い、松ヶ島城下より現在地に移った古刹の一つです。代々本居一族の菩提寺であり、本居宣長夫妻の墓があります。また視力を失いながらも父の後を継承し、生涯を研究に捧げた息子春庭とその妻が、宣長夫妻の墓と背中合わせに立っています。

もとは永正年間に北畠材親が建てた寺である来迎寺は、天台真盛宗に属し、の創建と伝え、天正16年(1588)、蒲生氏郷の松坂城下建設に伴い、松ヶ島城下より現在地に移った古刹の一つです。享保元年(1716)の松阪大火の際、表門(現裏門)を除いて焼失し、享保11年から5年がかりで完成した本堂の再興にあたっては三井家が深くかかわり、再興費は8700両にもなったといいます。裏門は松坂城の中門を移したものだといわれ、現表門(鐘楼門)は文政4年(1821)に完成しています。

境内には江戸時代初期の貿易家・角屋七郎兵衛とその一族の供養碑があります。七郎兵衛は寛永10年(1631)貿易のためベトナムに渡りましたが、その2年後鎖国令が出たため、二度と日本に帰ることはありませんでした。また本居宣長は来迎寺の僧・戒言を門人としていて、宣長の奈良への旅に同行したほか、宣長の源氏物語講釈に参加したりしています。

帰りにはやっぱり松阪牛の駅弁を。明治28年(1895)創業の「駅弁のあら竹」がA5ランクの松阪産黒毛和牛を使った駅弁「モー太郎弁当」は、眼の光沢がポイントの牛の顔をかたどった箱を開けるとセンサーが反応し、童謡「ふるさと」のメロディが流れるユニークさが人気の駅弁です。ごはんの上には、ショウガを効かせた甘辛い黒毛和牛のすき焼き用ロース肉が満載。霜降り肉の旨みが堪能できます。

蒲生氏郷の武将の道、本居宣長の国学の道、松阪商人の豪商の道と歴史ロマン溢れるぶらり松阪路です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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