夏の盛りを前に少し涼しさを感じながら新緑の中、廃線跡歩きに最適なシーズンとなりました。ここ数年、鉄道ファンの間で「廃線跡歩き」がひそかなブームになっているといいます。旧信越本線横川~軽井沢間は、急勾配を上り下りするためのアプト式列車が走っていました。今は廃線になった“碓氷線”の愛称をもつこの区間の鉄路はアプトの道として遊歩道になっていて、レンガ造りの巨大な橋梁や長い隧道などの遺構が多数連なり、そこかしこで当時の面影に出会えます。鉄道人たちの情熱を感じながら宝探しのような冒険の旅に出かけます。
太平洋側と日本海側を分かつ旧中山道の難所、碓氷峠を越えて群馬県横川と長野県軽井沢を旧信越本線、通称“碓氷線”が結ばれたのが明治26年(1893)のこと。昭和38年(1963)に新線に切り替えられ、それから長野新幹線(現北陸新幹線)の開通に伴い平成9年(1997)に廃止されましたが、時を経て旧熊の平駅までの約6kmを整備し、平成14年(2012)にその名を冠した遊歩道が開通しました。廃線のレールを走るトロッコ列車に乗れて、廃線跡を鉄道遺産に触れながら歩ける一粒で二度美味しいのがこの「遊歩道アプトの道」です。
JR東日本「大人の休日倶楽部」碓氷峠アプト道編で“峠越えの難所に残る鉄道遺産たち かつて列車の走った道を自分の足で歩く そんな旅も楽しいものです”と吉永小百合さんも歩いています。
廃止区間の“碓氷線”は、全長11・2kmで高低差553m、最大勾配66.7パーミル(1km進むと66.7m高度が上がる)の急勾配を抱える峠越えが障壁でした。そこで明治政府は線路中央に歯形のレール(ラックレール)を敷き、機関車の歯車をかみ合わせることで強い推進力を生んで急勾配を上るドイツの登山鉄道で用いられていたアプト式鉄道を導入しました。ED42など、歯車をもつ機関車が列車を力強く押し上げたものでした。今回歩く廃線跡の遊歩道・アプトの道の名は、このアプト式に由来します。
車の場合、信越線横川駅から徒歩2分にある横川機関区跡にできた碓氷峠鉄道文化のむらの駐車場に停めます。旧信越線のレールを利用し、ここから2.6km先の峠の湯を結ぶトロッコ列車(土・日曜、祝日運行)に乗車することもできます。2両編成のうち先頭が展望スペースのあるオープン型客車です。
入口付近にアプトの道の起点があります。
30mほど進むと以前は峠の横丁 麻芋茶屋だった「安中市の観光案内所」があり、観光情報やMAPを手に入れ、トイレもあるのでしっかり準備して出発です。
JRの元検修庫に保存されているED42やEF63をはじめ、鉄道車両40両が展示されている碓氷峠鉄道文化むらを過ぎると碓氷線の下り線を再利用したトロッコ列車の線路沿いへ。
上り線が歩道として整備され、下り線はトロッコ列車用にそのまま線路が残っていて映画「スタンド・バイ・ミー」の気分を少し味わいながらしばらくは傾斜も少なく、真っすぐ延びる気持ちのいい道を進みます。
上信越道の近代的な橋梁が、廃線の道を跨ぐのが見えてくる。道の両脇には緑が繁り、霧積川のせせらぎの音や鳥のさえずりも聞こえます。起点から歩くこと1.6km約25分やがて前方に見えてくる赤レンガ、瓦葺き平屋の美しい建物が、「旧丸山変電所」です。明治45年(1912)の碓氷線に日本で初めて電気機関車が導入されるのに合わせ、列車に電力を供給するために造られたもので、レンガ建築の最盛期である明治44年(1911)の建造。質の良いレンガによる芸術的な建築です。一時廃墟同然であったが平成12年から修復が施され、当時の優雅な姿を今でも留めている。幹線電化発祥の地の証であり、蓄電池室と機械室の2棟が並び、この路線の歴史を物語る貴重な遺産として国の重要文化財に指定されています。
トロッコ列車は旧丸山変電所にも5分停車します。
ここから先がアプト区間で、線路が上に延びていくように見え、勾配がきつくなっていきます。かつて変電所には、列車が急勾配を上るのに必要な電力を補うための蓄電池を312個備えていたといいます。人間の足では驚くほどの急勾配ではないが、重量のある列車のとってはこの傾斜はきつかったのでしょう。遊歩道は霧積川橋梁を渡ります。
遊歩道はトロッコ線路下をくぐって「とうげの湯駅」に到着するので、さほど勾配は気になりません。旧丸山変電所から峠の湯まで1km約20分です。
アプトの道を歩きだすと北原白秋が当時39歳だった大正12年春、信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で『信濃の春』と題して詠んだといわれる歌碑があります。“うすいねの 南おもてと なりにけり くだりつつ思ふ 春のふかきを”
すぐに1号(全長187m)トンネルがぽっかりと口を開けているのが見えてきます。石とレンガで組まれた入口が美しい。ルート上にはレンガ造りの古びたトンネルが計10ヶ所あり、どれも明治時代の遺物で、当時の掘削技術を考えると興味深い。
トンネル内に足を踏み入れると、ひんやりとした空気に包まれ、照明が照らしているもののほの暗く、レンガで組まれた壁面が浮かび上がる。鉄道の電化は横川~軽井沢間が日本で一番早かったのは、碓氷峠がトンネルの連続で、蒸気機関車では乗務員や乗客が煙に難渋したからだというが、煤けたレンガの壁を見つめ、ここを確かに蒸気機関車が走っていたことを実感します。
2号(全長113m)トンネルを抜けると眼下に「碓氷湖」が広がる。アプトの道のトイレポイントです。
3号(全長78m)、4号(全長100m)とトンネルが続き、道はさらに勾配を強め、トンエルを抜けると太陽が目に染み、明と暗を繰り返し、次第に長くなるトンネルを続けて抜けていきます。薄暗いトンネル内は幻想的な雰囲気。天井から水がしたたり落ちてくるたびにヒヤッとさせられる。
4号トンネルでは、渋沢栄一が設立に関わった日本煉瓦製造製の証である、手裏剣型の刻印入りレンガも見つけることができます。奥に5号トンネルの入り口が見えます。
歩き始めて1時間弱、5号(全長244m)トンネルを抜けると眺望が開け、この道のハイライトで、イギリス人と日本人の共同設計によって明治25年(1892)に完成した碓氷線のシンボル碓氷第3橋梁、通称めがね橋の上にでます。ここはJR東日本「大人の休日倶楽部」碓氷峠アプト道編のポスターで吉永小百合さんが立っていた場所です。
碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られましたが、なかでもこの碓氷川に架かるレンガ造りのアーチ橋は、長さ91m、川底からの高さ高さ31mに及び、建設に使われたレンガの数は200万8000個、日本最大の4連アーチ式鉄道橋です。橋の西側には旧国道18号へ下る階段があるので、橋の美しい姿を下から仰ぎ見ることができます。渓流の音が清々しく、渓谷の北側(右手)には、山側の木立の中にかつて特急あさま号が走っていた碓氷新線の橋梁と線路が見えます。
めがね橋を渡るとすぐ、ゆったりとした造りの入口をもつ546mと最長の6号トンネル。天上にSLの排煙用の穴や横坑がそのまま残っています。
6号トンネルを抜けて第4橋梁、第5橋梁と歩いて7号(全長75m)、8号(全長92m)トンネルへ。
さらに9号(全長120m)、10号(全長103m)と4つのトンネルを潜ると、めがね橋から30分ほどで折り返し地点の熊の平に到着します。写真は8号トンネルと9号トンネルの間に架かる第6橋梁からで奥に10号トンネルが写っています。
めがね橋から30分ほどで旧熊の平駅に到着です。横川~軽井今沢間で唯一の平坦地であったので、明治26年(1893)に信号場、給水給炭所として設置され、明治39年(1906)に駅に昇格し、変電所も建造され当初単線であった60年間、上下線の列車が待ち合わせてすれ違いをしていて乗降客で賑わっていたといいます。その後信越本線が複線化されると、昭和41年(1966)に信号場に降格、変電所の機能を残して駅としての機能は必要とされなくなりました。旧変電所や線路の保存状態が良く、トンネルの入り口に柵が張られ、立入禁止の看板がある以外は今にも列車が入線してきそうな感じです。
余談ですが、小学唱歌の作詞者として著名な高野辰之作詞の秋の夕日に照る山紅葉で始まる「紅葉」の舞台になったのは、碓氷峠の信越本線熊の平駅近辺とのこと。高野が東京と郷里の信州を往復していた頃の車窓から目にした光景を元にこの詩を作ったと言われています。
ここには昭和25年(1950)の土砂崩落の被害者を慰霊する巡礼碑「母子像」が立ち、錆びた線路に草が茂る廃線跡と相まって寂寥感が漂います。
帰路は来た道を戻ることになりますが、今回は変電所の先から階段を下り旧国道18号沿いに熊の平駐車場からめがね橋駐車場までの1,5kmほどを下っていきます。道路沿いにはカーブの数に番号がうたれていて途中のC-69で碓氷第6橋梁を見上げることができます。アーチ径間11m、高さ17.4m、頂部長さ51.9mで、隅角部切石で補強し高い橋台と片蓋柱と長い側壁を持っています。長さやレンガの使用量では第3橋梁に次ぐ規模のものです。
C-60のところでは碓氷第5橋梁を眺めることができます。アーチ径間11m、高さ8.8m、頂部長さ15.8mで、補強のため橋台をコンクリートで固めアーチをひとまわり小さくしています。
トイレもあるC-40のめがね橋駐車場からは300mほどの遊歩道を進むと、明治25年(1892)に建造、古代ローマの水道橋を連想させる雄大な姿の碓氷第3橋梁(めがね橋)が現れます。3本の大橋脚が4連のアーチを支える姿は壮大にして優美。そのスケール感と連続するアーチの美しさを堪能します。高さ31m、長さ91mあり、203万個のレンガが使われています。
めがね橋の橋脚の下を潜って橋の上まで上がりアプトの道に戻ります。
碓氷湖を眺めながら昼食をとろうと約1.1㎞約20分来た道を戻り碓氷湖の畔に到着です。信越線の脇を流れる中尾川と碓氷川の合流点を堰止めて造った坂本ダムによって形成された人造湖(ダム湖)で、四方を国有林の大木に覆われています。湖畔には、親水公園や約20分で一周できる約1.2kmの散策路があります。坂本ダム上の橋や湖を渡る橋梁については、碓氷第三橋梁を始めとする碓氷鉄道施設遺産群に配慮して明治風のデザインを採用しています。
昼食は予め「おぎのやドライブイン横川本店」でテイクアウトしておいた、明治18年(1885)創業のおぎのや『峠の釜めし』です。横川駅での補助機関車の連結・切り離し作業の停車時間で乗客が買い求めた、荻野屋の峠の釜めしは、昭和32年(1957)長旅で疲れた旅人の「温かいごはんが食べたい」という一言から生まれました。益子焼の土釜に入った駅弁は平成26年(2014)の「駅弁味の陣」で“思い出賞”を受賞している懐かしい味です。しっかりとした味と歯ごたえの鶏肉、香り高いささがきごぼう、ちょっとうれしいうずらの卵、箸を差し入れるとたっぷりと詰まった茶飯などどれも丁寧に仕上げた自慢の料理です。別容器でついている「香の物」もまたうれしい。
峠の湯まで戻った後は、「峠の湯」で温泉に浸るも良し、トロッコ列車を利用して碓氷峠鉄道文化むらまで汗だくにならず戻るもよし、歩いて戻るもよしなのです。
「碓氷峠越え!中山道を“安政遠足”に思いを馳せ、力餅に憩う」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/9471