会津の盛衰を刻んだ歴史舞台。桜の海に浮かぶ白壁と赤瓦の鶴ヶ城

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盆地特有の気候からか、会津の冬は長く厳しい。その季節をじっと耐えて咲くからこそ、この地の桜は美しいのかもしれません。会津人の気質にも通じるような、気高さや強さが宿っているようにも感じます。会津若松の桜名所として一番に挙がるのは、やはり鶴ヶ城(会津若松城)でしょう。幕末の戊辰戦争で、籠城戦の舞台になるなど、会津の激動の時代を見続けた城です。真っ青な春の空の下、純白の漆喰壁に赤瓦を葺いた天守閣が誇らしげな南東北の雄都・会津若松のシンボルにふさわしい威容は、難攻不落の名城と称えられます。城の天守を取り囲むように、春は約1000本のソメイヨシノがいっせいに咲き誇りまるで桜の海に浮かんでいるような情景になります。石垣の上から眺めたり、天守の最上階から見下ろしたり、さまざまな角度から桜と城の風景を楽しみます。

福島県会津地方のシンボル、会津若松城。湯川が形成する扇状地に立つ“鶴ヶ城”と愛称されるこの城の歴史は、南北朝時代の至徳元年(1384)、蘆名直盛が黒川の地に館を置いたことから始まる。時は下って天正17年(1589)、伊達政宗が蘆名氏20代の義広を常陸に追って黒川城に入城しますが、翌天正18年の豊臣秀吉による奥州仕置により、奥羽の抑えとして蒲生氏郷が城主に置かれました。前身の黒川城は伊達政宗が難敵だった蘆名氏から奪った東北支配の要でしたが、秀吉はこの地を重要視し、ようやく臣従した政宗から黒川城を採り上げると、信頼する蒲生氏郷に任せたのです。鶴ヶ城とは蒲生氏郷の幼名(鶴千代)を冠したものです。

この時氏郷は故郷(滋賀県日野)の“若松の森”の名をとって黒川の地を若松と改め、会津盆地に集まる五街道の中心として城を大改造し城下町を整備し惣構えを持つ堅城にわずか3年ほどで変えて会津若松の基礎を造りました。現在残る町割も氏郷によるものです。会津若松城には、豊臣政権の軍事拠点として、伊達政宗や最上義光、徳川家康などを牽制する役割があり、いわば秀吉政権の東北支配拠点でした。そのため築城の職人集団を会津に呼び、総延長6kmにわたって外堀と土嚢を展開する巨大な縄張り内に安土城みたいな城をと蒲生氏郷は東北初の天守閣を造り、東北初の高石垣で囲まれた立派な城が誕生しました。難攻不落の名城と呼ばれた理由がわかる本丸東側の守りを固める二の丸から本丸周辺も見どころ。両脇の東北随一の高さ約20mといわれる高石垣、幅の広い五軒堀に架かる赤い欄干の廊下橋は有事には切り落とせるよう戦国時代には簡素な造りでした。

その後は、上杉景勝、蒲生秀行(氏郷の子)、加藤嘉明、明成父子の代を経て、寛永20年(1643)、徳川幕府3代将軍家光の異母弟、保科正之が入封し、以降9代(正容からは松平に改)が幕末まで続きました。会津若松城は寛永16年(1639)、加藤明成によって現在の姿に大改修されましたが、これが幕府の怒りに触れたともいわれます。現在の天守は加藤明成が築いた天守をモデルに昭和40年(1965)に外観復元されていて、平成23年(2011)に幕末の頃と同様の赤瓦に葺き替えられました。瓦が赤いのは、会津の厳しい寒さに耐えられるよう、保科正之の命により鉄分を多く含んだ釉薬をかけて焼いているからで、化学反応により赤褐色になります。会津若松城は、幕末・戊辰戦争の激戦地として知られますが、白虎隊の悲劇はあったものの、松平容保が降伏するまでの約1か月間、新政府軍は頑固な縄張りを持つ鶴ヶ城に1兵も攻め入ることができず、城外から5000発以上の砲弾を撃ち込むという猛攻撃を耐えたのは、氏郷や嘉明。明成父子による縄張りの功績といえます。写真は本丸から見る天守と走長屋。

鶴ヶ城へは3通りあります。ひとつは車を東側の東口P(129台)に停め三の丸、二の丸を通って廊下橋から本丸へのルート、2つ目は北側の鶴ヶ城会館臨時Pに停め北出丸大手門跡から太鼓門跡をへて本丸へのルート、3つ目は会津葵本店(菓子店)の交差点から一方通行の道を北出丸を通って西出丸P(170台)に車を停め本丸へ向かうルートです。車の場合は西出丸がおすすめですが、新政府軍の攻城進路を体感できる北側がおもしろいです。従来は小さな馬出だったこの場所を加藤明成が北出丸に改築し、本丸の北側を守る拠点としました。北出丸は東を伏兵郭、南を本丸、西を西出丸に囲まれた場所で、ここに進入した敵を三方から殲滅する堅固な造りで別名「みなごろし丸」と呼ばれました。新政府軍は城の北出丸まで攻め入ろうとしましたが、直方体の石で形成されたくい違い虎口と内側を上り石垣の上から敵を銃撃できる大腰掛や、濠向かいから銃撃できる伏兵郭など、敵をいろいろな方向から攻撃できる造りになっていて侵入を許しませんでした。写真は北出丸大手門石垣上からみた北出丸大手門跡

北出丸と本丸を結ぶ土橋。奥に天守の頭が見えます。土橋の先に本丸入口の虎口が見え、椿坂と呼ばれる登城道を進みます。

本丸入口、太鼓門跡です。北出丸から本丸に通じる鶴ヶ城の大手門(追手門)にあたり、石垣の上には多門櫓と呼ばれる櫓が建てられ、中には直径5尺8寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用したことから太鼓門と呼ばれました。右手石垣の中ほどに大きな鏡石があります。鶴ヶ城の石垣で最大の直径2m、奥行き3m、重さは8tの「遊女石」と呼ばれる大石です。男衆の士気を高めるために遊女を乗せて運んだといいます。鏡石は、姿を映した妖怪が自分の風貌に驚いて逃げ帰るように置いたものとか諸説さまざま。

太鼓門跡の虎口を抜けると、赤瓦の大天守が姿を現します。ちなみに入口は左手に天守台の石垣を回り込んだところにあり、ここからは入れません。会津若松城に残る石垣を見るときは、蒲生時代と加藤時代のどちらかのものかがポイントになります。天守台の石垣は天正18年(1590)の築城時に蒲生氏郷が築いた勾配が緩い野面積みで慶長16年(1611)の大地震にも耐え抜いた堅牢な石垣です。

一方城内一の高さを誇る本丸東側、五軒堀の石垣は、加藤明成が改修したもので急傾斜で隙間なく積まれた打込接です。

今回は西出丸に車を停めます。170台~200台は停まれる専用場となっています。

西出丸から土橋を渡って虎口へ。石垣の上には時守を置いて城下に昼夜時刻を知らせる鐘が設置されていた鐘撞堂が建っています。その鐘は延享4年(1747)若松の鋳工早山掃部介安次等の作として知られ鐘の撞き方は江戸流でした。戊辰戦争(1868)では、ここに新政府軍の砲火が集中し、時守が相次いで斃れたが、開城の間際まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞したといいます。

虎口は石垣で迷路のように道がカギ状に折り曲げられたくい違い虎口でまったく奥が見えません。

天守台下で北出丸からの大手道と合流します。ぐると天守の周りを左手から回るようにして本丸中心部へと向かいます。ここは実際は本丸ではなく本丸に付随する帯郭にあたります。帯郭から本丸奥御殿へ入る天守閣の北東にあった枡形の城門が、本丸「埋門」です。城内の他の門や建造物と比較して低い門構えの埋門形式となっていました。大手口が東であった築城当時は表門でしたが、寛永16年(1639)に完成した加藤時代の改築後は裏門となっています。本丸奥御殿の搦手口としても重要な門です。現在はここで入場券を購入します。正面の石段は入口が封鎖されていて実際は右側に設置された階段をあがります。丸いままの石積みが豪快な氏郷時代の石積みです。

 

鶴ヶ城へは石垣をくり抜き地下倉庫から入城します。天守台の内部は年間を通して外部より気温が低いため塩蔵として用いられた場所で、間近で見る石垣は圧巻です。若松城の天守台は約400年前の蒲生氏郷が天守閣を建てたときに築かれたものですが、内側の石積みは慶長16年(1611)の大地震の時の被害により加藤時代に行われた改修の時に積み直されています。ここから1層から5層の展望層まで階段で上っていきます。

2層の鶴ヶ城ヒストリーコリドーでは、領主の変遷と国づくりをテーマに歴代の領主や領主にまつわるエピソードを資料や観光情報で紹介しています。3層では幕末の動乱と会津を展示。モニターと音声で戊辰戦争を解説し、五感で追体験します。

最上階5層の展望層から北を眺めると太鼓門のあった北出丸虎口と武者走り(細い石段)がよく見えます。大手門の渡り櫓などへ簡単に昇り降りができるように石垣に沿って細い石段がV字型に造られていて「武者走り」と呼ばれます。地表面での専有面積も少なくすみ、石積みについての当時の知恵が伺えます。

北東の直下を眺めれば入場券売場のある埋門がよくわかります。帯郭の本丸を囲む石垣沿いに東に進めば廊下橋を渡って二の丸へ行けます。

東側正面には新政府軍が陣を構え、大砲・アームストロング砲で城を砲撃した小田山が見えます。直線距離で1.5mほどと以外に近く、ここに陣を張られたのは会津藩にとって痛かった。

南に目をやれば天守から伸びる多聞櫓(走長屋)の先に鉄門が良く見え、さらに南走長屋の先の一番奥に2層の干飯櫓が木造で復元されています。これを見ると本丸への正式な入口は鉄門だあたのがわかります。」

天守を降りて走長屋へ。内部は売店になっていて、越えて奥にすすむと2001年に復元された干飯櫓・南走長屋へ繋がります。南走長屋は、表門(鉄門)から続く、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。天守閣から表門をつなぐ走長屋とともに表門を守り、帯郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと思われます。よく見ると屋根が、走長屋~鉄門~南走長屋と続くにつれて徐々に低くなっています。また鉄門のみ壁面が下見板張りです。写真は干飯櫓出口付近からの鉄門

木造復元された南走長屋は長い廊下と小部屋が延々と続き、各部屋にはちょっとした展示コーナーが設けられています。一番奥が南走長屋と干飯櫓の接続点。階段の上が櫓で鉄砲狭間から銃を構える等身大人形が展示されています。泥人形なので逆にリアルです。

干飯櫓は若松城内にあった十一の二重櫓の中で一番大きかった櫓です。文字通り「食料櫓」であったと考えられています。また南側の濠に面していて、石落としが備えられていました。このことからお濠からの侵入を防ぐ点でも、重要な役割を担っていたと思われます。

干飯櫓出口から外に出ると本丸外周の土塁の上にでます。上部は石垣の鉢巻石垣でここから本丸に降ります。本丸御殿が建っていた場所は芝生広場です。御殿跡の芝生広場の周囲をぐるっと廻ると本丸を一周できるようになっています。広場の向こうに南走長屋と干飯櫓が見えます。

勇猛な蒲生氏郷は文化人でもありました。天正19年(1591)千利休が豊臣秀吉から切腹を命じられると、利休の茶道が途絶えることを惜しんだ氏郷は利休の子・少庵を会津に匿い、秀吉に『千家再興』を願いでました。この結果、少庵は京都に帰り今日の千家茶道の礎となり、千家茶道は少庵の子宗旦に引き継がれ、その孫により武者小路千家、表千家、裏千家の三千家が興され現在に伝えられています。城内本丸南東端にある茶室「隣閣」は、少庵が氏郷のために建てたと伝わり、戊辰戦争後は茶人森川善兵衛宅で大切に保存されてきました。平成2年に元の位置に移築復元されています。

隣閣の裏手、本丸南東土塁上には、月見櫓、茶壷櫓がありました。月見櫓は城下南方の物見櫓、本丸南側の石垣への横矢掛けに重要な役割を担っていました。櫓にかかる月がひときわ美しかったことから「月見櫓」と風流な名がつけられましたが、実際は武器庫でした。また近くには「荒城の月碑」があります。『荒城の月』というと滝廉太郎、豊後岡城跡が有名ですが、あちらは作曲で、こちらは「春高揚の花の宴~」という作詞のほうで、この歌詞は仙台青葉城と会津若松城をモチーフにしたと作詞家・土井晩翠も語ったといいます。さらに北側にあるのが「茶壷櫓」。この櫓の下には茶室隣閣があり、櫓内には貴重な茶器類が納められていたためこの名があります。茶壷櫓は廊下橋の側面の守りとしても重要な櫓です。写真は茶壷櫓から本丸石垣を北に進んだ場所から

御三階跡付近から見た大天守。松の木と白壁と赤瓦のコラボがまた桜とは違って素敵です。御殿を挟んで天守の反対側に本丸内唯一の高楼建築で三階建ての「御三階」が建っていました。藩主の御休息の間のすぐ背後に位置し、限られた人しか近づけなかったと考えられます。戊辰戦争でも焼失することもなく現在は城下の阿弥陀寺の本堂として移築されています。

本丸を一回りして鉄門を北へくぐり帯郭へ。帯郭から本丸内の御殿に通じる表門で、北向きの多聞櫓城門です。扉や柱が鉄で包まれていることから鉄門の名が付けらています。門の石垣の工法は「切込接」と呼ばれる積み方で、四辺形に加工した石を積む巧みな工法になっています。

鉄門あたりから南方を見返すと南走長屋と干飯櫓

現在の天守は昭和40年(1965)の再建されたもので5重。元々の天守は7重で現在のものより少し大きかったため、今は天守が載った石垣と天守の裾が少しずれています。また天守台の野面積みとその横に繋がる長屋の打込接、切込接との対比も面白い。

埋門まで戻り本丸外周の帯郭へ。東へ伸びる石垣に沿って歩いて廊下橋に向かいます。がっちりとした打込接の石垣は適度に苔むしていて時代を感じます。

いよいよ廊下橋へと近づきます。廊下橋の真上あたりにある石垣に上る石段があり眺めてみます。廊下橋門のくい違い虎口がよくわかります。迷路のように組み上げられた石垣を目前にしてただ驚くばかりです。おそらく写真手前に門があったのではないだろうか。

二の丸から見る本丸方面。二の丸と本丸を結ぶ朱塗りの廊下橋は、長さ約13m、堀からの高さは約23mで、橋の向こう側には石垣の壁があり、真っすぐ進むことはできず、立ち止まってしまうと、石垣の上の櫓門から激しい攻撃を受けてしまいます。道かつて蒲生氏郷の頃、屋根付きの廊下造りだったことからこの名が付きました。かつては藩主も通る橋で、人目につくことを避けたためと言われています。戊辰戦争時、七装式スペンサー銃を抱えた新島八重はここから入城しています。

20mもの高さを誇る長大な本丸石垣。元々の丘の形なのか堀に突き出した丸い形の土塁の上には2層の茶壷櫓が建っていました。道を隔てて左手が二の丸跡です。

二の丸沿いに南に歩くと南口に出ます。南口にも駐車場がありますが台数が少ないのでおすすめしませんが、廊下橋からの入城には便利です。

西出丸の駐車場に戻り、鶴ヶ城を出て城下町を散策します。

往時の風情と歴史が息づく城下町!会津若松で旅情を感じる」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/18691

 

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