“東北の湘南”福島県いわき市にいわき湯本温泉で福をもらう旅

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東は太平洋に面し、県の真ん中を南北に奥羽山脈が縦断する福島県。その面積は北海道、岩手県に次いで日本で3番目の広さを誇ります。大きく分けると、浜通り、中通り、会津の3地域に分れ、気候も風土も気質も、そして食材もバラエティに富んでいます。そんな福島県の浜通りに位置するいわき市は、東北でも比較的温暖な気候に恵まれたマリンリゾート都市いわきに温泉と食を目指します。

東北の名だたる温泉群から一湯だけ離れ、太平洋側に湧く、いわき湯本温泉は、海を望めるわけでも、風光に恵まれているわけでもありません。「海に遠く、眺望は乏しく、野卑な脂粉の気があたりに漲って、いかにしても喧しい田舎の温泉場にすぎなかった」(田山花袋『山水小記』1917年) 文壇一の温泉通であった文豪、田山花袋が100余年前に感じたいわき湯本温泉の印象は、一見するとコンクリートの要塞のような温泉場です。しかしながらいわき湯本温泉は、江戸時代からの伝統的温泉文化を取り戻し、温泉の原点である湯治場的滞在型温泉地への回帰を目指しています。

いわき湯本は、2006年に大ヒットした映画「フラガール」の舞台、元炭鉱の町。共に温泉地再生に取り組む「スパリゾート ハワイアンズ」とドイツの温泉保養地を見習い“オンパク(温泉泊覧会)”を目指しています。そこで生まれたのがいわき湯本温泉宿の女将であり、着物でフラを踊るフラ女将です。

温泉通り正面の小高い土地に温泉神社があります。霊峰湯ノ岳から遷座し、十世紀初期に起草された『延喜式神明帳』にも記載されているほどの格式高い神社です。境内へと続く階段の脇には、温泉が湧く石碑があり、硫黄の香りが旅情をそそります。いわき湯本温泉には鶴の伝説があります。二人の旅人が、ここ佐波古の里を訪ねると傷ついた丹頂鶴が降りてきて、湯気たちのぼる泉につかっていました。かわいそうに思った二人が傷口を洗ってあげると鶴は元気に飛び立っていきました。数日後、巻物を持った高貴な美女が訊ねてきました。その巻物には「この佐波古の御湯を二人で開いて天寿を全うし、子孫の繁栄を図るべし」と記されてあり、二人はさっそく、湯本温泉を開いたとのことです。

鳥居をくぐり石段を上ると、正面に社殿、右手に神楽殿が鎮座します。境内にイチョウ、イロハモミジ、背後に杉林が茂る。御祭神は少彦名命、事代主命、大巳貴命で、社屋の木細工など細かな部分の見どころが多い。

この境内に至る参道右手に、詩人・草野心平の揮毫による堂々たる歌碑があり、千年の古湯の歴史を感じます。「あかずしてわかれしひとのすむさとはさはこのみゆる山のあなたか」平安中期の勅撰集『拾遺和歌集』に収録されている一首です。「三函の御湯」は現在のいわき湯本温泉のことで、湯本は平安時代にすでに中央に知られていたことがうかがえます。

江戸時代には江戸から仙台へ延びる浜街道の温泉宿場として栄えた湯本が、温泉神社がある千年湯の日本三古湯の伊予の道後温泉、摂津の有馬温泉と比べ著しく遅れをとったのは、国策としての常磐炭田の開発により、かつては地表13mまで自噴した豊富な湯脈が寸断され、大正8年(1919)に完全に枯渇したからです。昭和17年(1942)に再び温泉が出、昭和51年(1976)には炭鉱も閉鎖になり、今では毎分5千ℓもの豊富な温泉が湧き出ます。

平安時代の古称を由来とする温泉通りに面した共同湯「さはこの湯」は、地上4階建て、江戸時代の湯屋と火の見櫓を再現したという立派な浴舎。檜風呂と岩風呂があり、男性浴場と女性浴場が一日ごとに入れ替わります。

源泉かけ流しの湯が、木で縁取られた湯船からあふれ、朝から土地の人で賑わいます。片足をそっと前に伸ばし、指先に伝わる湯の熱さに身震いする。まずは踝まで、そして脛までと少しずつ体を慣らし丁寧に入るが、肩まで浸かるころには体の内側から沸騰しています。源泉はおよそ59度だが水で薄めず、熱交換器により適温にしているが、二つの浴槽は、42~43度および44度の設定で成分も濃い。

湯本の目抜き通り、童謡館の隣には「鶴のあし湯」と呼ばれる足湯施設があり、朝7時から夜8時まで誰でも無料で利用できます。「あつ湯」「ぬる湯」の2種の足湯に加え、手を温める手湯まで備え、この地の歴史を紹介したボードは読み応えがあります。常設のステージでは、5月から10月までの6か月間、月1回、ここで「フラのまちオンステージ」と銘打ち、フラ女将と地元のアーティストやフラチームとのフラダンスを中心とした多様なステージを開催しています。

近くには元銀行をリニューアルした「童謡館」があり、明治後期から大正にかけて「赤い靴」「十五夜お月さん」「シャボン玉」など数多くの童謡を作詞した詩人、野口雨情を記念して2008年に開館しました。

雨情は一時、湯本で生活しています。創業明治10年の「雨情の宿 新つた」は、野口雨情が、大正時代の数年間滞在したゆかりの宿です。ここ新つたでは、令和3年10月30日・31日と、第34期竜王戦第3局が行われ、豊島将之竜王に藤井聡太三冠が挑んだ対局がありました。※結果、藤井聡太三冠が勝ち、次の第4局も制して4連勝で竜王位を奪取しました。

ロビーでウエルカムドリンクを頂きながら館内の施設案内を受けます。

館内には新つたの先々代の女将と同郷という縁もあり、よく将棋を指すなどの交流があったという野口雨情の色紙や愛用品を展示するギャラリーがあります。

新つたの魅力の一つは、福島県のPR写真にも使われている竹林庭園に囲まれた混浴の庭園露天風呂「竹林」です。いわきでは珍しい混浴ですが、湯浴み着も男女ともに用意され、女性でも比較的入りやすくなっています。もちろん女性専用の時間帯も設けられています。

泉質は硫酸塩泉(硫黄泉)ながら硫黄の匂いはきつくなく、無色透明。ほんのろ香る硫黄と情緒漂う広大な庭園で竹林と巨石に囲まれ、野趣あふれるひとときが楽しめます。

大浴場は男女別で内湯と露天風呂が各一づつあり、朝晩気軽に入れます。

夕食は和食処“菜の花の”個室でいただけ、手作りのまろやか梅酒で乾杯です。この日は前菜に“鳥手羽照り焼き”“烏賊オクライクラ”“南瓜冷製スープ”、とお造りの“鰹たたき”がテーブルに並べられ、煮付は“金目鯛煮つけ”鍋物は“すき焼き”とボリューム満点。

ご飯と香の物にお椀が“渡り蟹の味噌汁”最後のデザートがアイスでした。

朝食も同じ会場で、品数も多く、贅沢な籠膳です。柔らかくて甘いイカ刺し、温泉玉子に焼き魚、地元福島のコシヒカリと御馳走が並びます。

翌日は、温泉街から車で15分のところにある福島県唯一の国宝建造物・願成寺白水阿弥陀堂を訪ねます。平安末期の永暦元年(1160)に鎮守府将軍藤原清衡の娘・徳姫が、岩城の国守の夫・岩城太夫則道の菩提を弔うために創建。白水の地名は徳姫の故郷奥州平泉の泉を分字して白水と名付けたと伝わります。平泉の中尊寺金色堂を模して建てられた御堂には、阿弥陀如来像を中心に観世音菩薩像と勢至菩薩、持国天像、多聞天像の五体の仏像が安置されています。寄木造漆箔の見事な仏像が、手が届きそうな近さで拝観できます。

周囲の浄土庭園とともに仏の世界に引き込まれていきます。

白砂青松の美しい海浜が連なる「いわき七浜」海岸線の真中、薄磯海岸の突き出た岬の断崖の突端に、明治32年(1899)に開設された、塩屋埼灯台があります。この灯台は、いわき市沿岸のほぼ中央にあり、地元では“豊間の灯台”と言われ親しまれてします。

全国に16しかない「のぼれる灯台」のひとつで日本の灯台50選に選出されています。昭和31年(1956)に雑誌「婦人倶楽部」に掲載された塩屋埼灯台長田中 績さんの奥様きよさんの手記「海を守る夫とともに20年」が原案となり、昭和32年(1957)映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台になり、美空ひばりの「みだれ髪」の歌詞「憎や恋しや塩屋の岬」で有名になりました。

高さは地上から灯台頂部まで約27m、水面からは約73mあり、今でも沖合40kmの海上まで光を放ち、船の安全を守っています。なんといっても絶景は塩屋埼灯台の最上階から眺める美しい大海原。心地よい海風を浴びながら太陽にきらめく海を眺める至福の時間が味わえます。写真は北側の海。

大きな船が水平線をゆっくり滑っていき、外国船も入る小名浜港の東の岬一帯は総面積約70万㎡の三崎公園として整備され、その広大な土地に様々な施設が存在しています。遊歩道もあり、潮風を感じながらウォーキングや散歩などが楽しめます。断崖の上から海に突き出すように設置された潮見台からは、太平洋の大迫力の景色が堪能できます。海に突き出た展望ポイントでは、海を真下に、潮風を受けながら、ちょっとしたスリルが味わえます。

昭和61年(1986)にオープンした高さ59・99mの展望台「いわきマリンタワー」からは南に太平洋、北にいわき市内を一望することができます。エレベーターで昇る展望室は海抜106m、さらに階段を上がって屋上のスカイデッキに出ると、さえぎるもののない眺望がまっています。

三崎公園南側の瀬を望む岬先端、第12駐車場近くに白亜の小型灯台番長(ばんどころ)灯台があります。この場所は古くから、海の様子を目で見て確認する「下神白の遠見番所」として活用されていました。昭和3年(1928)に綱取埼灯竿として設置され、その後昭和30年(1955)に綱取埼灯台から番長灯台に名称変更された福島県で2番目に古い灯台です。裾拡がりの六角柱形の石造り風で地上高11m、海面高35m、灯頂部も六角形のフォルムです。

いよいよ白河の関・念珠ヶ関(鼠ヶ関)とともに奥州三関のひとつに数えられる勿来の関で奥羽地方との別れを告げます。水戸から北へ磐城、相馬、仙台とつなぐ街道は、古くは「岩城相馬街道」「東海道」「奥州東通り」などと称され、明治5年(1872)に陸前浜街道に統一されました。東北地方への浜街道の玄関口となっているのが常陸国と磐城国の境界にある「勿来の関」です。太平洋が広がる勿来海岸に沿って走る浜街道(現在の国道6号)沿いに江戸時代にはいくつかの宿場があり、勿来町にも関田宿という宿場町が形成されていました。その西側の小高い山に勿来の関跡があります。4世紀から5世紀ごろにかけて蝦夷の南下侵入を防ぐための関門として設置されたといい。樹齢100年以上の松に囲まれ、石碑と関門が立ちます。

元は菊多関と呼ばれ、「来る勿れ(くることなかれ)」という枕詞で知られる文学上の関として知られています。平安時代の武将源八幡太郎義家が、後三年の役の時、奥州へ下向すり途中、勿来の関にさしかかった際に詠んだ句が「吹く風を勿来の関と思へども路も狭に散る山桜かな」(千載和歌集)です。

「来る勿れ(くることなかれ)」の勿来の関を越えましたが、また東北には桜の季節に来たいものです。

 

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