日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」を歩く

※この記事で紹介する内容にはPR・広告が含まれています。

関東平野の中央部に位置する埼玉県行田市は、日本一の足袋の生産地として知られ、足袋産業全盛期を偲ばせる足袋の倉庫「足袋蔵」が今も数多く残る“足袋蔵のまち”です。行田足袋の始まりは約300年前。泰平の江戸時代後期、行田付近が足袋の原料となる木綿や青縞の産地でもあり近くに中山道も通っていたため、武士の妻たちの内職として足袋作りが盛んになりました。天保年間(1830~1844)には、27軒の足袋屋があったといいます。明治時代になるとミシンが使われるようになったことで足袋の生産量が増大しました。また銀行等が設立され資金が安定し、ミシンの動力化も進んで名実ともに行田の足袋は日本一になりました。昭和13年(1938)には年間約8500万足、足袋の全国生産の約8割を占めるまでになったのです。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていきました。これら足袋蔵を含めた行田の文化が、平成29年(2017)に「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」のストーリーとして日本遺産に認定され、同年10月にはTBSドラマ『陸王』でも行田の足袋が有名になりました。駅から足袋蔵へは路上に案内標識があり、足袋蔵等歴史的建造物が残り、趣ある景観を形づくる行田のまちを歩いてみます。

利根川、荒川の二大河川に挟まれた行田市一帯、熊谷以東の地域では、両河川の氾濫で堆積した砂質土、豊富な水、夏季の高温が綿花や藍の栽培に適していました。NHK大河ドラマ「晴天を衝け」で第一銀行を創業した渋沢栄一もこの地方での藍商人であったといいます。綿花の栽培は、明治時代中期まで盛んに行われ、これらを原料とした藍染の綿布生産が盛んになり、これを原料に行田のまちで培われた縫製技術を生かして足袋つくりが始まりました。行田足袋は「貞淳年間亀屋某なる者専門に営業を創めたのに起こり」との伝承があり、足袋は中山道の交通に目をつけた近隣の熊谷宿を中心に始まり、当初は旅装や武装としての手甲や脚絆などを制作する長物師が宿場町の需要を見込んで製造されました。享保年間(1716~1735)頃の「行田町絵図」に3軒の足袋屋が記され、忍藩主阿部豊後守正喬が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励したことから下級武士や農家の婦女子の副業として家内手工業において盛んになり、天保年間(1830~1844)頃には27軒もの足袋屋が行田のまちに軒を連ねるようになりました。写真は行田市郷土博物館の足袋屋の店先を模した屋根瓦の展示室入口

近代に入ると足袋は大衆化して需要が拡大し、他の産地を圧倒してゆきます。足袋づくりには作業工程ごとに専用の特殊ミシンが導入され、日露戦争の好景気を契機に足袋工場建設ブームが起こって、敷地の裏庭に工場が建てられてゆきます。生産量が増えると出荷が本格化する秋口まで製品を保管しておく倉庫として足袋蔵が必要になり敷地の一番奥に足袋蔵が数多く建てられるようになりました。。写真は行田市郷土博物館の行田の足袋製造用具

足袋蔵は足袋産業にかかわる蔵造りの建物で古くはおもに足袋の保管庫でした。壁の柱の間隔が狭く、空間に柱がないのが特徴で江戸時代から昭和32年(1957)にかけて建築されました。一般に蔵は豊かさの象徴として表通りに面して建造されることが多く、表通りに土蔵造の見世蔵が続く蔵のまちは各地にありますが行田はそうした蔵のまちとは異なり、行田の足袋蔵のほとんどが裏通り、言い換えればに敷地の裏庭に建造されているのが特徴です。蔵の作りも建造された年代により石造り、煉瓦造、モルタル造、木造と様々な建材が用いられ多彩です。写真は行田市郷土博物館の足袋の商標を印刷したラベルコレクション

これは江戸時代、石田三成の水攻めに耐えた忍城の城下町整備が行われた際、商店は表通りに面した幅に応じて課税されたため、通りに面する幅を狭く取り、奥に細長く敷地をとる商店が多い短冊形の街並みが形成されたことに由来します。この細長い土地の表から順に店舗や住宅が築かれ、中庭に足袋工場を建設し、裏庭に足袋蔵は築かれました。江戸時代に城下の町人町だった行田には鴻巣から館林に抜ける日光脇往還の宿場町となったため、馬の世話を行う裏庭と裏庭に通じる路地が家と家の間に設けられていて、明治時代になって不要になった馬小屋や裏庭の位置に足袋工場や足袋蔵が建設されたのです。写真の奥貫蔵は元「ほうらい足袋」「栄冠足袋」の元奥貫忠吉商店が大正~昭和初期に建設した大型の土蔵造りの足袋蔵です。現在はそば店(あんど)として再利用されています。かつては周辺に足袋工場や足袋蔵が立ち並んでいましたが、その大半が姿を消してしまいました。

元奥貫忠吉商店の昭和5年(1930)棟上の住宅、明治43年(1910)棟上・大正5年(1916)棟上の洋小屋の土蔵3棟と建築年代不明の土蔵(いずれも足袋蔵)。

市内唯一の3階建ての蔵など現在はCafé閑居、足袋蔵ギャラリー門、パン工房KURAとして大半が再利用されています。行田市初代市長の私邸を利用しています。

旧忍町信用組合店舗は大正11年(1922)8月建設の腰羽目板付下見板コロニアル様式の木造二階建て洋風銀行店舗で、腰折屋根にはスレートを菱葺きしています。忍町信用組合は、大正4年(1915)に時田啓左衛門ら足袋商店主たちが組織した共楽会を母体として創業した地元金融機関で、その創業時の店舗です。原料卸売商が足袋商店から受け取った手形や足袋商店が全国各地の卸売業者や小売業者から受け取った手形などが多く持ち込まれ、組合で手形の割引が行われました。こうした足袋関連の企業間の信用決済業務を多く行うことで足袋産業の発展を支えました。市内でも数少ない洋風木造建築としても貴重な存在です。現在水城公園東側園地に移築されVert Caféに。

武蔵野銀行行田支店店舗は足袋産業を支えた忍貯金銀行が昭和9年(1934)に竣工させた彫りの深い近代復興式の鉄筋コンクリート造2階建ての本格的銀行建築の店舗。外壁は当時流行のスクラッチタイル貼りで、本格的な歯飾りの軒蛇腹、繊細な装飾、格子の入った縦長の窓、その上に付けられたレリーフの入った円形の羽目板などが特徴的です。戦後は足袋会館(足袋組合事務所)となり、昭和44年(1969)より現在に至ります。行幸で昭和天皇も訪れています。

大正12年(1923)の関東大震災で京浜地方の足袋産業が壊滅したことから念願の東京市場に進出、「行田足袋 田舎で育ちで 江戸で羽根が生え」「田舎そだちの行田の足袋も江戸へ買はれて都足袋」といった川柳や都都逸が生まれ、「尾張名古屋は城で持ち、武州行田は足袋で持つ」と誇り高く口にする時代が昭和3~4年(1928~1929)頃まで続きました。

「行田」という地名は、江戸時代には忍城の城下町の町人町で、明治22年(1889)の町村合併以後は忍町の字名のひとつでしたが、行田足袋が広く知られるようになったことから昭和24年(1949)5月3日に忍市として市制施行しながら、即刻「行田市」と改称されています。このあたりのことも2023年7月15日放送NHKブラタモリ行田で放送しています。

おすすめの記事