トライアングルゾーン「東国三社参り」でパワーチャージ!

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江戸時代に大流行した「東国三社参り」が注目されています。東国三社とは、創建から約2000年を数える茨城と千葉の県境に位置する鹿島神宮・息栖神社・香取神宮の総称です。古くから「お伊勢参りの禊の三社参り」または「下三社参り」と呼ばれ、関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に巡礼し旅を締めくくる慣習があっといわれ、信仰を集めてきました。三社をつなぐと壮大な三角形が出現!“トライアングルパワースポット“と呼ばれる神話とパワーが息づく東国三社の聖地巡礼の旅に出かけます。

この三社が密接に結ばれているのは、それぞれの祭神に関係があります。日本神話に寄れば、神代の昔、鹿島神宮に祀られた武甕槌大神と香取神宮の経津主大神は天照大神の命を受け出雲国に向かい、大国主神に対して国を譲るように交渉した神様。そしてこの交渉にあたり、両祭神を東国へ先導したのが息栖神社の祭神である久那戸神と伝えられています。近年では、この3社を結んだ線がきれいな直角二等辺三角形で結ばれることから“トライアングルパワーゾーン”と呼ばれて人気が高く、トライアングルの中を巡拝することで、とてつもないパワーが宿るといいます。

三社参りのスタートは常陸国(茨城県)一の宮であり全国の鹿島神宮の総本宮である鹿島神宮からです。平安時代に成立した『延喜式』によれば、当時神宮と呼ばれたのは伊勢神宮と鹿島、香取の3社のみで、由緒と格式は国内随一です。そして古くから遠くへ旅立つことを「鹿島立ち」といい、旅行安全の神としても信仰されています。もとになったのは『霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士に 我は来にしを』(万葉集 防人歌)防人が出征も門出に鹿島詣でをしたことから、旅の安全や武運を祈願する風習がうまれたとされる。現在では物事を始める際に参拝すると御利益があるといいます。

鹿島神宮一之鳥居は東西南北にあり、その内側が神域とされています。東の一之鳥居は、鹿島神宮の祭神、武甕槌大神が国譲りの話し合いを終えた後、この太平洋に面した明石の浜から上陸して東国に入られた神聖な場所と伝えられています。鹿島神宮を最東端とする、皇居、明治神宮、富士山、伊勢神宮、吉野山、高野山、剣山、高千穂神社といった日本各地のパワースポットが一直に並ぶいわゆる日本のレイラインはここから始まります。しかし津波対策とはいえ防波堤が建てられ地味な景観です。

創建は紀元前660年(皇紀元年)と伝わります。神武東征の際、窮地に立たされたとき、武甕槌大神が授けた「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の神威によって救われた神武天皇が大神を祀る社を鹿島に建てたのが興りと伝えられています。神話の中でも最強の武神とされ、武道の神様、武甕槌大神を祀ることから、勝負の神と崇められ、源頼朝や徳川将軍家など多くの武将から武神として崇敬され、全国の武道場には鹿島神宮の神礼が祀られています。

大鳥居(二之鳥居)からスタートします。かつては御影石で作られていた大鳥居でしたが、平成23年(2011)の東日本大震災で倒壊したことから平成26年(2014)6月に境内に自生する杉の巨木を用いて再建されました。一番上の笠木は樹齢600年といわれます。

つづいて楼門をくぐります。福岡の筥崎宮、熊本の阿蘇神社と並び日本三大楼門に数えられる鹿島神宮の楼門は、高さ約13mの総朱漆塗りの2層式で、重厚かつ威厳を感じた佇まいです。寛永11年(1634)水戸徳川初代藩主頼房により奉納されました。「鹿島神宮」の扁額は、海軍大将だった東郷平八郎の揮毫とされています。

楼門をくぐり直進すると奥参道に抜けてしまいます。鹿島神宮の本宮は東に向かって進む参道に対して横向き、すなわち北向きに建っています。これは東国の守護神として蝦夷ににらみをきかせていることを表した配置とのこと。本殿・石の間・幣殿・拝殿の4棟からなる社殿は、元和5年(1619)、徳川2代将軍秀忠による寄進で造営されました。

拝殿一番奥に鎮座する本殿は香取神宮と対を成すような色鮮やかな極彩色と朱漆塗りで武甕槌大神が祀られています。そしてその背後に聳えるのが樹齢約1300年、樹高約40mの巨大な杉の御神木です。

拝殿の右前方に建つ「仮殿」は元和5年の社殿造営で旧本殿(現在の奥宮)と新本殿との移し替えの際、一時的に神様を安置した場所です。

社殿から奥宮までのびる奥参道はおよそ300m。鬱蒼と生い茂る樹木、差し込む木漏れ日と静謐な空間は聖域というにふさわしいパワーを感じます。

敷地面積約21万ha、東京ドーム約15個分にあたる広大な神域を持つ鹿島神宮の樹叢の境内は鹿島の森と呼ばれ、県指定の天然記念物で、スギの他シイ、タブ、モミ、ヒノキ、スタジイなどの巨樹が生い茂り、その種類は600種以上にのぼります。凛とした空気に包まれて深呼吸すれば心が浄化されていきます。

奥参道の中間地点に鹿園もあります。鹿島神宮の鹿は神の使い、神鹿と呼ばれ30頭ほど飼われています。奈良の春日大社も鹿で有名ですが、縁起によると春日大社創建時に鹿島神宮の分霊を背に乗せた神鹿が春日へ渡ったと伝えられています。

奥宮の社殿は、慶長10年(1605)、徳川家康が関ヶ原の戦いでの戦勝御礼に本宮として寄進したものです。

奥宮を正面に左手すすんでいくと「要石」があります。見える部分は、直径30cm、高さ7cmほどの小ささです。中央の凹みは、香取神宮の要石の凸と対をなしています。古来地震は地中深く棲む大鯰が暴れ騒いで引き起こされると信じられ、それを鎮まるために武甕槌大神によって大鯰の頭に打ち込まれた石棒が鹿島神宮の要石で尾の部分が香取神宮の要石と伝えられています。一見頼りなげな石でも、地中深くに眠る大鯰を押さえつけるほどのすさまじいパワーにあやかりたいものです。

奥宮からさらに奥へ下っていくと境内の最奥に澄みきった水がこんこんと湧く御手洗池があります。一日に40リットル以上もの水が湧いています。新年恒例の「大寒禊」では約200人の神職が御手洗池で潔斎します。神代から水が枯れず、誰が入っても水位は胸を越えないといわれます。近くには「涼しさや 神代のまゝの 水の色」と詠んだ松尾芭蕉の句碑があります。

南の一之鳥居のある息栖神社に行く前に、境内から2kmほど離れた霞ヶ浦の一部、北浦の畔の鰐川の大船津に設置された水中鳥居の西の一之鳥居によっていきます。水底からの高さ18.5m、幅22.5mと厳島神社の水中鳥居16mを超え国内最大級といわれています。徳川2代将軍秀忠が社殿と併せて奉納した鳥居です。大船津は古来、水運の要衡であり、鹿島神宮の玄関口として一之鳥居は歌川広重の「六十余州名所付図会」にも描かれ、その風景が親しまれてきました。12年に一度の御船祭*次回2026年では、ここから神輿を乗せた御座船が出航し、華麗な御座船が船団を従える渡御は圧巻です。

茨城県神栖市にある息栖神社は規模こそほかの2社にはおよばないものの、霊験のあたたかさでは引けを取りません。参道の正面の船溜まりにある鹿島神宮の南の一之鳥居は息栖神社の一之鳥居で代用されています。常陸利根川につながる船着き場に面して立っていますが、かつてここは息栖河岸の水上交通の要衝としてまた渡船場として賑わっていました。

一之鳥居の左右に二つの鳥居を従えています。その足元には日本三大霊泉(伊勢の明星井・山城の直井)の一つといわれる忍潮井の井戸が残されています。辺り一帯が海だった頃から1000年以上もの間、潮をおしのけて清水が湧き出し続けてきたとされています。清水が湧き出る井戸の中に男瓶と女瓶があり、井戸水が澄んでいてその瓶を見ることができれば幸運が訪れるパワースポットなのです。

息栖神社の創建は応仁天皇の御代405年頃で平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により大同2年(807)に現在の地に遷座したと伝えられています。二之鳥居は弘化4年(1847)に建てられました。

二之鳥居をくぐり参道を進む神門があります。弘化4年(1847)の造営時のもです。

本殿には日本神話の国譲りにおいて鹿島・香取の両祭神の先導役となった久那戸神と武神の乗り物であった天鳥船命を主祭神として祀っています。手前の拝殿で参拝します。

神門をくぐったすぐ左手にあるのが力石と松尾芭蕉の句碑です。力石はかつて祭礼に集まった若者たちが力くらべをした石で高々と持ち上げた者が、栄誉を受けたといいます。となりの芭蕉の句碑には「この里は 気吹戸主の 風寒し」と刻まれています。江戸時代には気吹戸神を主神とした説もあります。

東国三社の最後の参ったのが、利根川を渡って千葉県香取市に鎮座する下総国一ノ宮である香取神宮です。奈良の春日大社、宮城の鹽竈神社をはじめとして香取大神を御祭神とする神社は多く、関東を中心に約400社ある香取神社の総本社です。鹿島神宮の祭神である武甕槌大神と共に出雲へ派遣され見事交渉を成功させた経津主大神を御祭神として神武天皇18年の創建と伝えます。

JR成田線「香取駅」から北へ5分ほど歩くと、利根川岸に大きな白木の鳥居が立っています。太古の昔、経津主大神がここから上陸したという「津宮」です。古代には現在の霞ケ浦や印旛沼、手賀沼までつながった内海として広がり、香取の海と呼ばれていました。柿本人麻呂が「大船の 香取の海に いかり下ろし いかなる人か 物思はざらむ」と詠んでいます。

第一駐車場(100台・無料)に車を停め境内に向かいます。参道入口には「歓迎」「香取神宮」と書かれた参道商店街の門に迎えられます。参道脇にはお食事処や甘味屋、お土産屋さんなど8店舗ほど並んで、賑わっています。美味しそうな香りが漂っているのですが、そこはぐっと我慢して先に参りをします。

程なく表参道の入口に立つ大鳥居が見えてきます。ここから森閑とした境内が続きます。

大鳥居をくぐるとそこはシイやタブ、モミなど600種もの巨木が生い茂る香取神宮の森。その中を5~6mほども幅のある広い参道が続きます。参道の両脇には大きな石燈籠が建ち並び凛とした厳かな空気が漂っています。春日燈籠には鹿が描かれていますが、これは香取神宮の経津主大神と鹿島神宮の武甕槌大神が、手紙のやりとりを鹿を遣っておこなったという言い伝えがあるほど、鹿は神の使いなのです。

駐車場から550m、大きな石燈籠に導かれるように参道を進んだ先に朱塗りの総門があります。石の階段を一段づつ上るごとに身が引き締まっていきます。

総門をくぐり右手から楼門をくぐります。元禄13年(1700)に本殿とともに徳川5代将軍綱吉によって造営された朱塗りのに楼門に迎えられて神前に至ります。南側に掲げられた扁額は鹿島神宮同様、海軍大将だった東郷平八郎の揮毫とされ軍神のイメージが強く感じます。

楼門を抜け正面には拝殿、その奥には本殿があり経津主大神の和御魂を祀っています。拝殿は昭和15年(1940)国費を以って造営され、檜皮葺、黒の漆塗りを基調とし極彩色を取り入れた装飾が美しく映えます。

拝殿上部には色鮮やかな見事な装飾が施されています。

拝殿は一周することが可能で、後方にある本殿を眺めることができます。拝殿から中殿、本殿が一体化した権現風造りは、楼門と同じく元禄13年(1700)、5代将軍徳川綱吉によって造営され御神威の大きさを感じさせます。本殿の西には三本杉があります。源頼朝の祈願により三又に分れたという杉です。

社務所の前にある神楽殿は現拝殿を造営するにあたり旧拝殿を移築し神楽殿としました。

一度楼門を出て手水舎の前を通って旧参道を歩くこと2分、少し奥まったところに「要石」があります。地震を起こす大鯰を抑えるため地中深くまで差し込んでいるとされる霊石です。わずかに露出している頭頂部は香取神宮では凸形石で大鯰の尻尾を抑えているとのことです。

さらに旧参道を歩くこと2分、細い階段を上がった先に「奥宮」があります。経津主大神の荒魂を祀ります。

現在の社殿は昭和48年伊勢神宮御遷宮の折の古材で建立されています。

そのまま急な下り坂を進むと表参道の参道商店会に出てきます。歩き疲れたこともあり、お土産に明治28年(1895)創業の老舗和菓子店「岩立本店」のわらび餅を買ってかえります。香取神宮のご神水を使い、手で練り上げたわらび餅と、香ばしい国産きな粉が上品にマッチしています。

休憩は「梅乃屋本店」で草だんご400円をいただきます。注文してから作ってもらえる厄除け草団子はやわらかく、あんこも上品で一皿をぺろっと完食します。

東国三社めぐりも朝7時半から鹿島神宮を振り出しに息栖神社、香取神宮と詣でると約3時間半で巡れます。「道の駅・川の駅 水の里さわら」で休憩し、昼からは小江戸「佐原」をめぐります。

 

 

 

 

 

 

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