
越前大野城は、織田信長の赤母衣衆だった武将・金森長近が、天正3年(1575)の越前一向一揆鎮圧の功績により、信長から大野郡の2/3を与えられ、安土城建設の翌年天正4年(1576)から約4年をかけ築城された城です。標高約249mの亀山の山頂部を平坦にして本丸を造り天守を構え、その東側の麓に二の丸、三の丸を築き、内堀・外堀をめぐらした「平山城」です。近年では、雲海に浮かぶ「天空の城」として話題となっています。金森長近が飛騨高山や上有知(美濃市)などでも都市計画の才能を発揮し整備した、城下町・越前大野とともに散策します。
お城の東麓、結ステーションの西にある大手門広場に、漢字の「野」のモニュメントが設置されていて、横に立って手足を広げて「大」をかたち作れば、「大野」の文字が完成です。城を背景に記念撮影ができるフォトスポットです。江戸時代、この場所には、越前大野城の大手門や外堀がありました。大手門は外堀を越えて城郭内に入る門で、敵の侵入を防ぐ重要な役割を果たしていました。また外堀は百閒堀と呼ばれていました。
大野城の外堀の名残である百間堀が、城と武家屋敷との境目にあたり、百間堀のお城側が藩庁や御殿のあった二の丸で、いまは学びの里「めいりん」の敷地になっています。この施設に使われている石垣が二の丸の石垣群です。
大手門広場の湧水地の水が流れ込む新堀川は、城の外堀の役割の果たしていました。
お城への登城口は3ヵ所。旧田村家に近い北登り口は上り始めは急勾配な石段ですが静かな木陰を通る緩やかな坂道で大野城まで約20分。
北側登り口には亀山西国33カ所石仏があります。大正12年(1923)地元有志により、一番から三十三番まで北登山道入口から亀山山頂までの登山道に建立されていましたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風により観音堂が倒壊したため、現在はこの場所に収集され上屋をかけて保存されています。
赤根川沿いの西登り口は、急で長い階段が続きます。大野城まで徒歩10分です。お城へは、景観もよく登りやすい南登り口がおすすめです。名君といわれた幕末の藩主・土井利忠公が祀られる柳廼社は、その名前も利忠の雅号「柳涯」に由来しています。明治15年に創建されました。境内には拝殿があり、入母屋、桟瓦葺の建物で趣があります。
ちなみに柳廼社参道脇に「お馬屋池」があります。越前大野城の堀の一部が残ったもので、江戸時代に池の南側に大野藩の馬場と厩舎があり、馬の飲料水や身体を洗うのに使われていたことからこの名があります。
柳廼社の脇から南登り口の城門(搦手門)をくぐり坂道を登ること徒歩約20分です。坂道が続き、何度か折れ曲がりながら進むとやや広い郭に到着します。
郭には幕末の大野藩7代藩主・土井利忠像が立っています。8歳で家督を継ぎ、大野藩主となり19歳で大野へ。藩政改革によって藩財政を立て直し、身分を問わず優秀な人材を登用するなど名君として知られます。
越前大野城の標柱
さらに最短ルートで天守へ向かう石段を登っていきます。
城下から移築された主郭城門をくぐり、
天守の隣にある初代藩主・金森長近の正室・お福にちなんだお福池を見ながら天守台へ。ぐっと本丸らしい雰囲気になります。お福は斎藤道三の娘で織田信長の正室・濃姫の姉妹という話もあります。
石段を上がった先に武具蔵跡があります。武具蔵は越前大野城を守るために必要な武器を保管していたと考えられる建物です。武具とは、鉄砲や弓、槍のほか、鎧などの具足のことをいいます。古文書などから城には、大筒なども置かれていたことがあります。この場所は、本丸を守るための武具が大切に保管されていた場所でした。
目の前に昭和43年(1968)鉄筋コンクリート造りで再建された天狗の間に復興された小天守が現れ、さらに進むと大天守になります。天守は茶色の下見板に漆喰の白が映える豊臣型の天守で、小天守と連立しながら建っています。お福池から武者登りへと連なる石垣が連なります。
織田信長の家臣・金森長近が、越前一向一揆を平定し、天正3年(1575)恩賞で賜った大野郡の3分の2の3万石を与えられ、天正4年(1576)頃から約4年をかけて築いた城です。標高約249mの亀山山頂を削って平坦にして多門塀を周囲に巡らせた本丸を造り、その南東、山麓部に段差下がりに二の丸や三の丸を持ち、内堀、外堀を巡らし城を守っている梯郭式平山城です。天守台は野面積みの石垣
越前大野は、越前と美濃を結ぶ美濃街道が通る要衝。本願寺の勢力がもっとも発展した北陸諸国と、同じく本願寺が勢力を持った美濃・三河・尾張など東海諸国を結ぶ要地でした。美濃街道は古代以来、白山修験の道で、戦国大名や一向一揆軍にとっては北陸道の裏街道として使われていました。組織化された一向一揆の再発防止、安定支配拠点としての役割を大野城は担っていました。
右手の石段は駕籠道といい、天守への御城主の緩やかな石段になっています。
天守は江戸時代の安永4年(1775)の大火で焼失、現在の天守は昭和43年(1968)に再建されたものですが、本丸周辺に累々と残るいかにも古い風情がある石垣は当時のままで、約1km離れた戌山城の城石や亀山で採石した石を使用したと伝わります。自然石を積み上げた野面積みと隅角部の未発達な算木積みという工法で造られていて大変堅固にできており、440年以上のものとされる貴重な史跡となっている。
大野城が築城された年は、信長が安土城の築城を開始した年にあたります。信長によって初めて本格的に高い石垣が導入された年と同時期であり、大野城の石垣も全国の中で先駆的といえるでしょう。天守台南西側の通路のような石段は、武士が駆け上った天守へと続く戦国時代を彷彿させる武骨な「武者登り」と言われる急な石段で、天守と連動する櫓が前面に突き出す形で建っていたであろうと想像させる。戦国時代からの姿を今に伝える貴重なものです。
当時の天守閣は、望楼型の2重3階の大天守に2重2階の小天守と天狗書院と呼ばれる付櫓が付属していました。
城主は江戸初期に松平氏、1682年から明治まで土井氏が務め、2層3階の天守館内には、第4代利貞所要の胴具足や歴代藩主の書など土井氏の貴重な遺品を鑑賞できます。
城の内部をカラフルで豪華絢爛な和柄で装飾。繁殖力の強いうさぎは、平和な時代にはお家存続が一番大事なのです。子の階段の中にハートが5つ隠れているとのこと。探してみてください。
4階展望室からの眺めは圧巻で、城下町はもちろん、好天なら標高1523m、日本百名山の荒島岳なども見えます。越美国境をつなぐ美濃街道から九頭龍川沿いに北陸道へとつながる勝山街道へは、城下の七間通りを分岐点としています。写真右のひと際高い山が荒島岳
小天守越しに見る眺望は、見晴らしがよく、ここから眺めると大野は1000m超の高い山々に囲まれ、いくつかの河川が集まる扇状盆地なのがとくわかります。
火薬などが保管されていた本丸の北西隅の位置する「塩硝蔵跡」。塩硝とは、火薬の原料となるもので、「煙硝」と書かれることもあります。また火薬そのもののことをさす場合もあります。江戸時代、この場所に火薬などを保管する塩硝蔵という建物がありました。当時、火薬を製造するには、かなりの労力と時間が必要としたため、大変貴重なものでした。落雷や火災などで爆発する恐れがあるため厳重に保管されていました。ここから東に向かって尾根を下りていきます。写真は塩硝蔵跡から見た本丸の石垣
帰路は、天守郭から本丸に下る急な階段をおりると本丸になり、初代藩主・金森長近像と遠くに白山を眺めることができます。ここから江戸時代大野藩の侍たちが藩庁から城の本丸へ上がる唯一の道だったつづら折りの百閒坂を下り南登り口へ。金森長近は本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)飛騨国を与えられ、大野から飛騨高山へと移り、その地で再び城と城下町を建設しました。
百閒坂の登城は、階段が多く、昔にタイムスリップしたような感覚にさせてくれます。今の百閒坂以外の遊歩道は、明治以降に整備されたものです。ただし遊歩道を整備する際には堀に使われていた石を再利用しているため、戦国時代の石、明治の石垣職人の技は見ものです。
北登り口に一番近い櫓跡が「麻木櫓跡」です。江戸時代この場所に麻木櫓という建物7がありました。櫓とは、近世の城郭に建てられた矢や鉄砲を発射するための建物のことです。越前大野城には4棟の櫓があったようですが亀山の上に建てられた2階建ての櫓はここだけだったようです。城下を見下ろすことのできる場所にあり、城を守る上で重要な役割を持っていました。現在は休憩所となっていまsす。
大野城のある亀山は大野盆地内の独立丘陵であるため、朝霧が発生する冬季に雲海に浮かぶ日本三大天空の城(後は竹田城と備中松山城)として一躍有名になりました。撮影スポットは城の西、約1kmにある標高324mの戌山城址南出丸跡。近年木々が伐採され眺望もよくなり人気です。同山にはこの地域の要の城であった戌山城址があり、山城ファンは郭や竪堀などの遺構が楽しめます。朝倉景鏡の居城(詰の城)であり、天正3年(1575)金森長近が大野城築城前の入城していました。一番登りやすいのは国道158号の側道から登る鍬掛コース約20分。

「北陸の小京都・越前大野は、清水(しょうず)巡りが楽しめる城下町」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/19336