
世界ジオパークに認定される山陰海岸ジオパークのジオスポット・鳥取城跡(久松山)。大地が育んだ急峻な地形を持つ山は、戦国時代の山城を起源にした城跡です。防御性の高さや、山頂からの優れた眺めから吉川経家に「日本にかくれなき名山」と評され、織田信長には「堅固な名城」と言わしめたといいます。鳥取城は、歴史的に著名な羽柴秀吉の兵糧攻めの舞台となり、江戸時代には国内12番目の石高を誇った鳥取藩32万石の居城となりました。中世から近世に至る多様な城の姿を残しているが故に、日本城郭の歴史を物語る「城郭の博物館」と呼ばれています。立地に恵まれた鳥取城は籠城戦後も存続し、時代が変わっても改修されながら領国の中心であり続けました。さまざまの時代の移り変わりが一つの城に息づくドラマを見ることができる鳥取城の魅力に迫ります。
鳥取城は、はじめ因幡山名氏の守護所の出城でしたが、天正元年(1573)山名豊国が、本拠地を湖山池東岸の布施天神山城から鳥取城に移転し、以後因幡国の拠点となりました。やがて毛利氏の傘下となり、天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴秀吉との間で壮絶な籠城戦が繰り広げられました。日本十大籠城戦であり、豊臣秀吉の“三大城攻め”のひとつ、“飢え殺し”の舞台で知られ、NHK大河ドラマの『黄金の日々』や『功名が辻』では、生き地獄と化した籠城戦のシーンが克明に描かれ、現地訪問前の予習に最適です。天正9年(1581)織田信長の命令を受けた秀吉は大軍を率いて鳥取城を包囲。軍師黒田官兵衛の献策で強力な陣地を築造し、鳥取城への援軍や兵糧の搬入を絶ち、飢餓状態に追い込む兵糧攻めで開城させました。城内が餓死者であふれる、戦国時代の歴史上もっとも悲惨な籠城戦とされます。
鳥取城は、標高263mの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸などからなり、さらに尾根筋には戦国期の遺構が数多く伝わる。そして鳥取城には大きく三つの姿があります。一つは籠城戦の舞台となった戦国時代の鳥取城。吉川経家が籠城した戦国時代の鳥取城の中心は、背後にそびえる標高263mの久松山山頂にありました。敵が登りやすい尾根には、尾根を切り盛りして平な敷地を造り、その周囲に切岸と呼ぶ急な斜面を造り防御とした、まさに城の字のごとく、石垣のない“土から成る”山城でした。
二つ目は、籠城戦の終息後に改変された姿です。城主となった秀吉の家臣・宮部継潤が、石垣を用いた近世的な山城へと改修しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後には徳川家康の家臣・池田長吉が城主となり、引き続き山上の鳥取城を改修しています。池田長吉は姫路城を築いた池田輝政の弟で、鳥取城が姫路城とともに、西国の豊臣系大名の抑えを担いました。宮部継潤や池田長吉は山上の城を改修する一方で、山上から山麓へと城の中心を移し、石垣や櫓を築造し、山麓にも新たな鳥取城が誕生しました。
そして三つ目が、池田光政が大改修した鳥取城です。元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、元和3年(1617)姫路城主池田光政は幼少を理由に所領減封の上、因幡伯耆32万5000石の領主として鳥取に転封となりました。光政により32万石の大藩にふさわしい城へと大改修され、城下町も大幅に整備されました。山麓一帯に残る石垣や水堀は籠城時の鳥取城の名残ではなく、江戸時代の鳥取城の片鱗です。寛永9年(1632)、岡山城主池田忠雄の死去に伴い、3歳の光仲が家督を継ぐと、これも幼少を理由に幕府は従兄弟・光政との国替を命じ、以後、鳥取城は光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となりました。※鳥取池田家の藩祖・池田光仲の曾祖父は徳川家康で祖母が家康の次女・督姫のため江戸幕府から徳川家一門に準じて厚遇されてていました。
鳥取駅からお城通りを歩くこと15分、鳥取県庁の突き当りを左に進めば、飢えに苦しむ城兵の命を救うために自害した城主・吉川経家像が、戦国武将らしい潔い死への敬意から大正9年(1920)城内三の丸に銅像が建立されています。織田信長勢の山陰侵攻に対して鳥取城の軍勢は吉川一門につながる有力武将の派遣を要請し、総大将吉川元春はこれにこたえ、石見国福光城主・吉川経安の嫡男・経家を城将に任命したのです。
内堀に架かる擬宝珠橋を渡り中ノ御門を通る道が大手登城路です。欄干親柱先端に擬宝珠が付くことから呼称された擬宝珠橋は、池田光政が元和7年(1621)に城の正面玄関として中ノ御門とともに整備されました。後に橋長約37mの規模に架け替わり、明治30年(1897)頃まで存続しました。城の大手橋として藩領各地への距離の基点にもなっていました。
表門と渡櫓門で構成される中ノ御門は、鳥取城の大手門として創建、享保5年(1720)の大火で焼失も表門は同年、渡櫓門は享保9年(1724)に再建されていることから鳥取城の中でも重要な区画であったと思われます。中ノ御門は枡形虎口に高麗門と櫓門を備える近世城郭ならではの配置を基本としつつも、全幅10.2m、全高5mと広くひらいた虎口いっぱいに表門を構え、石垣上に配した土塀を表門の棟まで高く築き上げるなど独特な門構えをしているほか、渡櫓門において屋根に切妻造を採用するなどの特徴が見られます。※令和7年3月復元工事竣工
現在鳥取県立博物館の入口になっている北ノ御門跡からその広い敷地は、江戸時代には主に3段の敷地に分れていました。最も高い上段に城代屋敷、中段に藩主の馬を飼育した上御厩があり、L字状の厩には16頭の馬が繋がれていました。内堀に沿う丸ノ内跡には米蔵(標高6.5m)がありました。
米蔵跡の向かい、一段高い位置にあるのが、宝隆院庭園です。参勤交代緩和で文久3年(1863)に11代藩主池田慶栄の未亡人・宝隆院のために12代藩主・池田慶徳が扇御殿とともに造った池泉回遊庭園です。久松山を借景に自然林を活かした渓流の岩組、滝口からなる景色は美しい。鶴をかたどった池には、豪壮な亀島を浮かべ、地形の変化に富み、徳川末期の造園の味をよくのこしています。
その扇御殿跡に、旧藩主池田仲博侯爵によって明治40年5月の嘉仁皇太子(後の大正天皇)行啓の宿舎として建てたのが仁風閣です。設計は明治建築最高の傑作である赤坂離宮の設計者として有名な宮廷建築家片山東熊博士によるものと伝わります。フレンチルネッサンス様式を基調とする木造二階建ての本格的洋風建築で、仁風閣の名は行啓に随行した海軍大将東郷平八郎によって命名されたものです。
西坂下御門は中仕切門といい、鳥取城唯一の城門で慶応3年(1867)に創建。昭和50年(1975)の大風で倒壊破損し復元されています。
標高26mにある左手の右膳ノ丸と標高37mの二ノ丸との間を登っていいきます。写真奥の石垣は隅櫓跡。写真右奥の石垣上部が二ノ丸三階櫓跡です。
さらに二ノ丸へと石段を上っていきます。算木積み布積みの整然とした角櫓跡の石垣です。奥に登石垣が見えます。
角櫓跡の石垣沿いに上ると登石垣が現れます。嘉永2年(1849)に拡張された二の丸の北端に、幕末のものとしては国内唯一の登石垣が築かれました。
山下ノ丸の中心であった二ノ丸の建物は、姫路城から移った池田光政の頃の創建と考えられ、祖父池田輝政が姫路城大天守を築いた際の職人達が関わったと推定されます。この頃、幕府による築城規制があったため、鳥取城内には、高層の櫓はありませんが、元和3年(1617)からまもなくして建てられた二ノ丸三階櫓は、山陰地方で初めての層塔型の櫓とされ、元禄5年(1693)の落雷による山頂の天守焼失後の象徴でした。建物は三層三階の構造で、その規模は一階8間約14.5m四方、二階6間約10.8m四方、三階4間約7.2m四方の平面で、高さは石垣の上から約17.8mに及びました。また姫路城大天守が築かれてから約10年後、同じ職人によって再整備された鳥取城二ノ丸の姿は、世界文化遺産・姫路城の“弟城”ともいえるものでした。また北東面の天端角石(上面の角の石)には享保5年(1720)石黒大火で焼失した三階櫓を同13年に再建された際に石垣も修復したことを示す、普請奉行・下奉行・職人の棟梁の名前の銘文刻まれています。
近世城郭としての鳥取城の基礎は、池田長吉の時代に築かれました。この時の工事にあたって、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女「お左近」の活躍は目覚ましく、三階櫓の石垣を築く際に、お左近の手水鉢を築き込んだことで無事工事が完了したと伝わります。
写真は三階櫓跡から北西を眺めたもので、奥の隅櫓跡は、江戸末期の拡張にともなって建てられました。手前の石段が二ノ丸の裏門で、江戸時代後期までは粗略な門でしたが江戸末には渡櫓門に改修されています。
また江戸時代の前期には藩主が住み、家老などが政治を司る藩主の御殿がありました。鳥取池田家三代・吉泰の時代に御殿が三ノ丸に移され、享保5年(1720)の石黒大火で全体が焼失しました。三階櫓などは早く復旧されましたが、御殿は幕末の弘化3年(1846)まで再建されませんだした。三階櫓跡から東を見ると石垣に沿って家老などが政務を司る走櫓、一番奥に二層の菱櫓、左手の樹林の中に御殿がありました。菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建てられ、建物も菱形の二層の櫓が建ち一階は四間四方でした。二ノ丸の西南隅の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を表していて、明治維新までその偉容を誇っていました。
標高37mの二ノ丸背後にある露出岩壁は、元和5年(1619)頃からはじまった城の大改修の際に石垣の石材を調達した石切場跡です。もともとこの場所には、久松山の中腹から続く尾根があったようで、二ノ丸の敷地を造る時、その尾根を切り崩しながら、得られた石材で石垣が築かれました。石垣を築く時、最も経費のかかる工程は、石の運搬ですので、城の近くで石垣に適した石が採れることは重要で、鳥取城の石垣も大部分が久松山で産出する石が使われています。
右隣には中坂稲荷鳥居があり、中坂稲荷本宮まで15~20分、山上の丸まで30~40分ほどです。
籠城戦の舞台となった久松山山頂の「山上の丸」へは、山麓の「山下の丸(二の丸)」からつづら折りの急坂が続く登山道を40分ほど登ります。登城口すぐのところには武人の神・八幡神を祀った神社の跡、八幡宮跡があり、境内は巻石垣を応用して築かれています。
1合目から10合目まであり、途中5合目には中坂稲荷があり、三日三晩で江戸と鳥取を往復したという伝説を持つ狐を祀った神社です。日本の城には「ヌシ」と呼ばれる妖怪や神様の伝説がつきものです。彼らは時には人を怖がらせたり、時には城や殿様を守ったりする不思議な存在ですが、鳥取城のヌシは桂蔵坊というキツネでした。殿様の用事を果たすために飛脚として江戸まで使いにいったという話や、殿様のかわいがっていた鳥を食べてしまった部下のキツネを処罰し、殿様にお詫びを言った話が伝わります。
山頂を中心とした山上の丸は、久松山の山頂部を数段に大きく切り開いて構築し、その廻りを高い石垣で囲っています。一帯には見事な石垣が残り、壮大な総石垣の城だったことがわかります。使用される石垣は、自然石に近い石垣が使用されています。
山上ノ丸の中央部の一段高い場所のあたる本丸には、天守櫓・車井戸・多聞櫓・月見櫓、それをつなぐ走櫓等を設けられ、御天守奉行がこれを守っていました。元禄5年(1692)に落雷のため焼失するまで、本丸には天守がそびえていました。宮部時代の三階建のものを池田長吉が2階建てに改築したと言われ、天守の屋根は茶色で描かれているため杮葺か板葺であったと推測されます。天守台は1辺が約10間と城内最大の櫓台です。中央に穴蔵という貯蔵庫、南東側に付櫓があり、往時はここから天守に出入りしたと考えられています。
本丸の中央部にある車井戸は池田長吉が慶長7年(1602)から行った城内大改築の時に3年の歳月をかけて掘られたといわれます。
山上の丸には本丸の他にも東側に二の丸、三の丸と呼ばれる曲輪があり、一段低いところに出丸が設けられています。また西の尾根を下ると鐘ヶ平、太鼓ヶ平、松の丸などの曲輪が残っています。※現在見学制限エリア
本丸からは眼下に鳥取平野の他、日本海に沿って鳥取砂丘や遠く中国地方最高峰の大山も望むことができる抜群の眺望が広がります。陸水運の利便性が高い、領国の拠点としてふさわしい立地です。
また東には直線距離にして約1.5kmひどの至近距離に、天正9年(1581)の兵糧攻めの際に秀吉が本陣を構え、約100日間全軍指揮にあたった帝釈本陣山(標高251m)・太閤ヶ平を、鳥取城を守った吉川経家が見た山の姿のまま、今も望むことができます。そこからは、秀吉のほか、後に築城の名手として知られる加藤清正や藤堂高虎、キリシタン大名で著名な高山右近、秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛などの武将が見た鳥取城の姿を今も望むことができます。太閤ヶ平の構造は、秀吉の三大城攻めとされる三木城攻め、備中高松城攻めの本陣と比較しても圧倒的な土木量を誇り、日本最高傑作の土の陣城と評されています。※久松山山頂から片道1時間
天球丸は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、鳥取城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪です。若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人であった天球院が、山崎家を去って長吉のもとに寄寓し、この曲輪に造られた居館に住んだことから名付けられました。天球丸には、天球丸は山下ノ丸の最高所(標高51m)に位置し、東側を巨大な竪堀で守った軍事的に最も重要な場所で、戦国時代末から江戸時代初頃までは、現在の姿と異なっていました。天球丸が現在のような広い敷地になるのは、鳥取城が鳥取藩32万石の居城として再整備された元和3年(1617)から後のことです。もとの石垣の上に同じ高さの石垣を築くという立体的な手法で拡張され、風呂屋御門と呼ばれる門、東南側に建てられた三層の櫓があったことが知られ、江戸時代に築かれた石垣が今日に伝えられています。中央の半円状の石垣は、文化4年(1807)頃に背後の石垣が孕み出し、その崩落を防止するための補強として築かれた球面石垣です。
表御門跡から楯蔵跡をみて登城路を三ノ丸へと下ります。登城路を振り返ると鏡石を配した石垣の他、高低差を利用した登雁木などの石垣が重なって見えます。写真左が二ノ丸、右奥が天球丸です。
現在鳥取県立鳥取西高校がある三ノ丸は、江戸時代前期、城の中心は現二ノ丸であり、現三ノ丸は二ノ丸と呼ばれ、隠居した藩主の居所が置かれていました。その後三代藩主池田吉泰は、享保元年(1716)から3年かけ三ノ丸の造成を行い、自らの居所(御殿)を置き、本丸としました。直後の享保5年(1720)に石黒火事で焼失も後に復興、弘化3年(1841)二ノ丸に御殿が再興され、藩主の居所が一時期二ノ丸に移りますが、すぐに戻っています。三ノ丸は万延元年(1860)に拡張で最終形態となりました。
関ヶ原の戦いの後に入城した池田長吉は、慶長7年(1602)から城内の大改造に着手し、特に久松山麓の「山下ノ丸」と呼ぶ二ノ丸、三ノ丸などを整備し、現在の鳥取城に基礎を築きました。この時、大手口を北ノ御門から現在の中ノ御門に改め、城下から二ノ丸、三ノ丸へは、堀の擬宝珠橋を渡り、中ノ御門の櫓門をくぐり、太鼓御門を通ってから入ることになりました。太鼓御門は、左右の石垣に懸け渡した桁行12間、梁行2間半の楼門です。御門の渡櫓に時刻を知らせる太鼓が据えられていたことからこの名がつけられました。太鼓御門の石垣は、城内に入ってまず相対する高石垣で、正面の高さは約7m、石垣の傾斜もきつく築かれ、威圧感のある石垣です。城内唯一の白色花崗岩の切石積石垣です。石垣の下は、家臣などが登城する際、駕籠や馬から降りる場所で、下乗場と呼ばれていました。
日本遺産『日本海の風が生んだ絶景と秘境 幸せを呼ぶ霊獣・麒麟が舞う大地「因幡・但馬」』の構成資産に鳥取城跡と仁風閣が選ばれています。麒麟獅子舞をこの地に登場させた初代鳥取藩主・池田光仲の居城・鳥取城と旧藩主池田家が、明治40年の嘉仁皇太子(後の大正天皇)の行啓の宿舎として建てた仁風閣では、行啓時に皇太子が見守る中、堀端で麒麟獅子舞が披露されました。