戦国最後の山城合戦の舞台、関東屈指の山城「八王子城」へ

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関東に一大勢力を築いた北条氏は小田原城を本拠としたが、支配地の重要拠点に城を築いて、一族や重臣を配置していました。なかでも最大規模を誇った城が北条一族の北条氏照が築いた八王子城です。日本100名城にも選ばれる高尾山北、標高460mの深沢山に築かれた八王子城は、戦国時代の城を知るには格好の史跡です。関東守備の要衡は、豊臣秀吉の北条攻めで落城し、廃城に。麓から山頂までの比高220mを登りながら、その歴史や残された遺構を探りに日帰り山城ハイキングにでかけます。

スタートはJR中央線高尾駅。武蔵野台地の西端に位置し、東京駅から約1時間の距離にある。明治34年(1901)8月1日、官設鉄道中央線の八王子駅~上野原駅開通時に開設された駅で、2021年に120周年を迎えました。開設時は当時の地名に由来する「淺川駅」という名で、簡素な駅だったといいます。大正15年(1926)12月、大正天皇が崩御され、御陵所が武蔵陵墓地「多摩御陵」に決まり昭和2年(1927)新宿御苑仮停車場から東淺川仮停車場まで霊柩列車が運転されました。その後、新宿御苑仮停車場の建物が東淺川仮停車場の一つ先にあった淺川駅に駅舎改築に使用することになり移築されました。この駅舎は全国でも珍しい寺社建築風のたたずまいで、他の駅と違った“宮廷駅”としての気品と格式が今でも感じられます。昭和36年(1961)3月30日、地元の要請により、観光地として人気の高尾山にちなんで「高尾駅」に改称されました。平成9年(19997)のは関東運輸局が主催する「関東の駅百選」の第一回選定駅に選ばれています。

北口1番バス乗り場から「八王子城跡行き」に乗り込みます。乗車時間10分ほどで終点・八王子城跡に到着です。八王子城跡行きは土休日運行なので平日は「高尾の森わくわくビレッジ行き」などで約6分、霊園前・八王子城跡入口で下車し徒歩15分です。

城跡へ登る前に先ずは「八王子城跡ガイダンス施設」を訪ねておきます。ガイダンス施設は、八王子城跡見学の拠点として、広大な山城・八王子城と、城主の北条氏照についてわかりやすく学べる施設になっています。八王子の「八」にちなんだ八角形の建物には「夢が八方に広がるように」という願いが込められているそうです。

展示スペースには城主の北条氏照や八王子城の歴史を、映像や模型、体験型の展示でくわしく解説しています。また日本100名城スタンプが設置されており、御城印を桑都日本遺産センター八王子博物館で購入(300円)する際の証明に必要になるのでぜひ押印しておきましょう。

八王子城は市内の滝山城から直線距離にして8kmほどしか離れていません。上杉謙信と越相同盟を結び武田氏と敵対した北条氏にとって甲斐方面に対する防衛強化に限界を感じ、小田原北条氏の三代目当主氏康の三男、四代目当主氏政の弟である氏照が築いたその地位にふさわしい東西、南北とも約3kmに及ぶ広大な城郭として築かれた山城が八王子城です。八王子城が築かれた丘陵の西側は、相模・武蔵と甲斐を結ぶ脇往還だったとみられる奥高尾山稜に通じていました。天正10年(1582)頃に築城が開始され、天正15年(1587)頃までに滝山城から拠点を移したとされていますが、完成をまたずして豊臣秀吉の小田原攻めで天正18年(1590)6月23日、八王子合戦の舞台となりました。前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら連合軍1万5000に攻められ一日で落城してしまいました。この八王子城落城が決めてとなって、本拠の小田原城は開城、氏照はこの時小田原に籠城中で、兄の氏政と共に城下で切腹し、北条氏は滅亡したのです。

八王子城跡バス停から標識に従って徒歩10分のところにある北条氏照及び家臣墓に参ります。高台にあるため整備された勾配のきつい木段を登っていきます。

氏照の百回忌を機に氏照の重臣で八王子城松木曲輪を守備して討死にした中山勘解由家範の孫・常陸水戸藩附家老で常陸松岡藩主中山信治によってたてられたものです。両脇に中山家範と中山信治の墓があります。

落城後城は廃城となって山林と化したので、戦国時代の遺構が良好な状態で地下に保存されていました。城の構造は、山麓の居館地区(城主が平時に暮らしていた区画)と山上の要害地区(戦時の際の防御施設が配置された地区)に大きく分かれます。いよいよ城跡探訪に出発です。

まずは居館地区にある御主殿跡を目指します。ガイダンス施設の先、左側の谷筋を歩く。清々しい空気が満ちる樹間の道を歩いていきます。このあたりは城の表玄関にあたる大手門があったところで、発掘された礎石や敷石などから、いわゆる「薬医門」と呼ばれる形状の門と考えられています。正門は追手がなまって大手になったといわれます。写真は大手門跡から御主殿に向かう古道途中にあるV字形の空堀です。

大手門跡から御主殿跡へと続く古道(大手道)はよく整備されています。

城山川に架かる古道と御主殿曲輪とをつなぐ曳橋。当時は簡単な木橋で、戦時には橋を落として敵の侵入を防いだと考えられています。

御主殿は氏照の館などがあったとされる所で、周囲を石垣で固めた高台にあります。落城後は幕府直轄領や国有林であった経緯から、当時のままの状態で残っていました。御主殿跡の石畳や石垣などは、なるべく発掘された当時のものを使い忠実に復元されています。

虎口の階段に遠近感がなくまっすぐに見えるのは、佇まいをより立派に、重厚に見せる工夫をしています。この造り方は安土城と同じです。

曳端を渡り御主殿入口までの高低差約9mの石敷の道は「コ」の字型に曲がっている階段通路になっています。途中の踊り場には四つの建物礎石が見つかっていて、その大きさから櫓門であったと考えられています。

当時の門をイメージした御主殿入口の冠木門への虎口(曲輪の出入口)は直角に曲がり、敵の侵入を防いでいます。

 

御主殿跡は一見すると広々とした芝生の広場ですが、建物跡を示す礎石が並んでいます。本物の礎石は発掘後に地下に保存され、地上に目安として礎石を置いているそうです。この御主殿跡の主な建物は2棟あり、ひとつは城主が政務を行った御主殿です。広さは15間半×10間(29.4m×19.8m)で、折中門と呼ばれる玄関から入ります。大勢の人が集まる「広間」や城主が座る「上段」などがあります。

もうひとつは対面の場であった会所です。広さは11間×6間(20.9m×13.3m)で、北側が主殿と廊下でつながっています。会所はその規模がわかるように床面が復元されています。

御主殿曲輪を下った先、城山川に御主殿の滝があります。落城時に御主殿にいた北条方の武将や婦女子らが、滝の上流で自刃して次々に身を投じ、その地で三日三晩赤く染まったと伝えられています。

古道の対岸、江戸時代に作られた林道を曳橋の下をくぐって管理棟まで戻ります。

要害地区の標高約460.4m地点にある本丸跡へは、未舗装の山道を45分ほど登ります。山頂までは、滑りやすい土の道や石だらけの道が続くので登山用のシューズは必携です。管理棟脇の道から登山道へ入ります。

道はすぐに二手に分かれます。案内板には「新道」と「旧道」とあり、新道は元々土塁だったところを山頂近くにある八王子神社の参道として江戸時代に整備された道で、本来の登城道は旧道ということでしたが、金子曲輪に寄るため馬蹄段と呼ばれる石段を登っていきます。登山口には八王子神社の鳥居が立っています。

金子曲輪は金子三郎右衛門家重が守備したといわれ、尾根をひな壇状に造り、敵の侵入を防ぐ工夫がなされています。

さらに登ると8合目の柵門跡で旧道と合流します。山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で、柵をめぐらせ、人の行き来を制限したところです。ここから先の登りは緩やかなくねくね道になります。

9合目、この付近は八王子落城の際に激戦の場になったといいます。

9合目の標識を過ぎて約100m、南側に突然視界が開ける場所があります。ここからの眺めはまさに絶景、眼下には八王子市街を手前にして、はるか先まで関東平野の眺望が広がっています。一休みして山頂を目指します。

東屋のある広場から八王子神社への石段を登る。八王子神社は、牛頭天王とその眷属神である八人の王子を祀る信仰とともに全国に点在します。この城山の八王子権現は延喜13年(913)に華厳菩薩妙行が山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれています。この伝説に基づいて北条氏照が八王子城築城にあたり、「八王子権現」を城の守護神としました。これが城の名称や「八王子」の地名の由来とされています。

八王子神社のある広場は中の曲輪とも呼ばれ、周りを大小の曲輪が取り囲んでいます。ここと東屋のある広場は敵兵が自ずとここに集められ集中砲火を浴びせられるようになっています。八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩へ落ち延びた横地監物が祀られています。もともと、東京都奥多摩町にありましたが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移されました。

松木曲輪も中の曲輪を取り囲んだ曲輪のひとつで中山勘解由家範らが守備していたといいます。八王子城攻めの際に奮闘しましたが、多勢に無勢で防ぎきることができませんでした。前田利家は家範の武勇を惜しみ助命を申し入れたといい、その遺された子息が水戸徳川家の附家老中山信治です。

落城後荒廃していた八王子権現は、元禄年間(1698~1704)の修験者・鉄山無心により、再建されました。現在の社殿は江戸末期のものです。

神社裏手からさらに登って山頂へ。山頂の本丸跡は、10m四方といった広さで、天守などの高層建物はなかったと考えられています。周りは木が繁り眺望は開けていません。ここは横地監物吉信が守備したといわれています。

帰路の途中、狩野一庵が守備したといわれている小宮曲輪にも立ち寄っていきます。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていました。八王子城攻めの際に上杉軍に攻められ、ひとりの内通者が上杉軍を手引きしたためここの陥落が引き金となり、山頂の曲輪が次々と破られたといいます。

帰路は旧道を下って下山しました。

JR高尾駅北口までは行きと同様バスで戻ります。ここからの運行は土休日しかなく、平日であれば「霊園前・八王子城跡入口」バス停まで歩きます。途中の根小屋地区は家臣や御用商人が住み、城下町が形成されていたところで、平安時代に華厳菩薩が開いた寺を北条氏照が永禄7年(1564)に再興した寺が前身といわれる宗関寺があります。北条氏照百回忌法要の際に中山信治が寄進した宗関寺銅造梵鐘があります。霊園前まで歩く途中に寄ってみてください。

高尾駅に戻り、高尾天狗パンが有名なカフェ「Ichigendo」でひと時のコーヒーを味わいながら暫しの休憩です。

八王子城合戦は、わずか1日で決着しましたが、とても激しい戦いでした。豊臣方は総勢2~3万の大軍で、前田利家軍は城の大手側、上杉景勝軍は搦手側に分れて攻め込みました。この時城主・北条氏照は小田原城に詰めていて、留守を横地監物・中山勘解由らの重臣が守っていましたが、城に籠っていたのは女性や周辺の農民も含めて3千人ほどだったといいます。豊臣軍は夜陰にまぎれて城に近づき、一気に攻めたてました。重臣らは奮闘しましたが、ついに搦手から破られ、ついで大手側の陥落、重臣らの多くが討ち死にし、氏照の正室や娘たちは自害を選び八王子城は落城しました。殲滅戦のため何かと噂が絶えない「八王子城」で、アニメ『RDGレッドデータガール』にも描かれています。

 

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