五重塔の最勝院に禅林街と長勝寺!古都弘前・歴史の街を歩く

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城下町弘前は、お城を囲むように神社や仏閣が建てられています。なかでも寺町は面白く、特に33もの禅寺がずら~と並ぶ「禅林街(禅林三十三ヵ寺)」は、全国的にも珍しく国指定特別史跡になっています。慶長15年(1610)に津軽藩2代藩主信枚が、弘前城および城下町建設の際、城の南西(風水でいう裏鬼門の方角)の砦として、津軽一円の主要寺院をこの地に集め、曹洞宗三十三ヵ寺が連なっています。一角には濠と土居が築かれこれを長勝寺構と云いました。長勝寺を中心とする黒門のある上寺と宗徳寺(耕春院)を中心とする赤門のある下寺に分けられました。

赤門のある下寺は禅林街33ヵ寺の内12ヵ寺を構成し、黒門とは対の関係で、東西に直線的に配置された黒門の長勝寺構に対して赤門では耕春院(現宗徳寺)構と称し、南北を枡形に配置しています。耕春院を中心に主に現室派が集められたといいます。赤門は大正時代に宗徳寺廿八世棟方唯一師が建立し、切妻、板葺、高麗門形式、左右板塀付で傍らには「山門禁葷酒」の石碑と子育地蔵尊があります。

黒門は長勝寺の総門という位置づけですが、禅林街全体が弘前城の出城としての役割を持っていたことから城郭門としての機能もあり高麗門形式を採用しています。門の傍らには「葷酒山門に入るを許さず」の石碑があります。4代藩主信政が長勝寺参詣の際に、不許葷酒入山門がないのは禅林らしくないといい、すぐに立てさせたといいます。

禅林街の中にある「栄螺堂(俗称六角堂)」は、八角形の仏堂で天保10年(1839)弘前の豪商・中田嘉兵衛が寄進。内部は右回りの回廊と直進階段を併用して昇降します。東北では二つだけしかなく貴重な建物となっています。

上寺入口の黒門から一番奥の長勝寺までは、江戸期に荘厳さを高めるため植えられた林のような並木道(上寺通り)に沿って禅寺が建ち並んでいますが、下寺通りには樹木が植わっていません。

長勝寺三門は、寛永6年(1629)二代藩主津軽信枚により建立され以後数回の改造を経て、文化6年(1809)に花頭窓を設けるなど現在の形となりました。入母屋造の栩葺き、上下層とも桁行9.7m、梁間5.8mで棟高は16.2mです。組物は三手先詰組とし上層縁廻の勾欄親柱に逆蓮柱を用いるなど、禅宗様の手法を基本としているが、柱はすべて上から下までの通し柱で特殊な構造となっている楼門です。

JR東日本大人の休日倶楽部CM弘前禅林街「座禅篇」で吉永小百合さんが“弘前で禅の心にふれる。”と三門の前で佇み、宗徳寺で座禅を体験しています。『三十三もの禅寺が建ち並ぶ東北の城下町を訪ねました。何も考えず頭の中をからっぼにしたらなんだか満たされたきがしました。』

長勝寺は山号太平山で曹洞宗の津軽家最初の菩提寺で、日光東照宮と並び称される江戸時代初期の代表的な建造物です。津軽家の先祖大浦光信の死後、その子盛信(大浦城主)が亡き父のため享禄元年(1528)種里(現在の鯵ヶ沢町)に創建、弘前城築城とともに慶長15年(1610)に現在地に移されました。境内には鎌倉時代の梵鐘、本堂、庫裡などいずれも素朴ながら広壮なたたずまいです。本堂は正面にありますが、右手の庫裡を伝って本堂へ入る造りで、信枚が慶長10年(1610)に造営した桁行22.7m、梁間16.3m、入母屋造りのシンプルな外観です。庫裡は桁行18.1m、梁間13.9m、屋根は切妻造で茅葺で大浦城台所(文亀2年(1502)建築)を移築したと伝わります。

銅鐘は嘉元4年(1306)の紀年銘があるところから「嘉元の鐘」と呼ばれます。寄進者の筆頭に鎌倉幕府第9代執権だった北条貞時の法名があり、さらに津軽曽我氏の統領や安藤一族と考えられる名前なども陰刻されていて北条氏と津軽の関係を示す貴重な資料です。奥に見えるのが入口の庫裡です。

庫裡の向かい正面左手に「蒼龍窟」なる堂宇があります。小さな入母屋造の中に、緻密な装飾が施された方形造りの厨子が納まっています。中には中央に阿弥陀如来像、左が薬師如来像、右が土台で高さを合わせた十一面観音像と三体の仏像が祀られています。実はこの三尊は、江戸期までは岩木山の下居宮(現岩木山神社)に祀られていました。

堂内上部に設置された壁掛け棚には十六羅漢が左右に8体ずつ、厨子より壁を隔てての左右には五百羅漢像が雛壇状に置かれています。これらの仏像群ももともと津軽家が奉納し岩木山神社で習合されていたものとのこと。

本堂左手、蒼龍窟の奥にあるのが「津軽家霊廟」です。曹洞宗の様式で葬られた初代藩主・為信正室、2代・信枚、信枚正室、3代・信義、6代信著五棟の御霊屋が、御影堂より南へほぼ一直線に並び、いずれも入母屋造、こけら葺妻入りですが、組物の一部の様式はそれぞれ異のなっていて時代差を示すものと考えられます。東に面して玉垣で囲われ、正面に門を置いています。

遺言で御霊屋に葬られた6代を除き4代以降は、長勝寺が家康のブレーンで天台宗の僧侶でもあった天海僧正と縁があったことから天台宗に宗旨替えするこになったため基本的に五輪塔様式になっています。五輪塔が並ぶ墓所は霊廟と向かい合うように設けられています。中央手前に4代、右に5・7・8代左に9・10・11・12代と並びます。

弘前市の南方、寺町の禅林街と新寺町と呼ばれる地区には合わせて46の寺院があり、その中でも長勝寺と並ぶ代表的寺院が最勝院です。最勝院は金剛山光明寺最勝院といい真言宗智山派の密教寺院です。天文元年(1532)、常陸国の高僧弘信が堀越城下の地に開基、その後二代藩主信枚が弘前城を築いた折、鬼門(東北)に当たる田町に慶長16年(1601)に移転し弘前八幡宮の別当寺とされました。明治3年(1870)神仏分離令により当地に移転、この地にあった大圓寺が移転したことから五重塔、本堂、諸堂、境内地などの全てを受け継ぎ現在にいたっています。市民からは今でも「大円寺」の俗称で呼ばれる当院の文殊菩薩は津軽では古くから十二支の卯年生まれの一代守本尊として信仰を集めています。写真は昭和58年(1983)建立の新仁王門

仁王門をくぐると本堂までの両脇に三十三観音が並びます。

五重塔は弘前藩藩祖津軽為信の津軽統一の過程で戦死した全ての人々を敵味方の区別なく供養するため、四代藩主信政の時代、寛文7年(1667)に建立された方3間、総高31.2mの東北地方第一の美塔です。初層は正面のみ連子窓、他三面を丸窓とし、2層以上は窓や構造材の意匠に変化をもたせています。

本堂は昭和45年(1970)建立、宮大工は仁王門と同じく青森が生んだ名工大室勝四郎棟梁。

境内東端の一角にひっそりと佇む六角形の小さなお堂は、六角堂と呼ばれる如意輪観世音菩薩堂です。元治甲子元年(1864)連光山大圓寺時代に弘前城下本町の豪商一野屋の当主二代目一戸卯三郎庸友の嫡男運次郎の供養のために建立したものです。因みに卯三郎は作詞家一戸謙三の先祖になります。

※一戸謙三は詩集『ねぷた』の中にある『弘前(しろさぎ)』で一躍全国に名を馳せたひとです。

 

 

 

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