杏が春を連れてくる!信州千曲市の桜を訪ねて善光寺街道を往く

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善光寺街道は正式な街道名ではなく長野の善光寺を目指す参詣者が多いことからの通称名です。北国街道(善光寺街道)は中山道追分宿(軽井沢)から上越高田までの脇往還で、江戸や関東圏から中山道経由で追分宿で分岐して善光寺に向かう街道で、戸倉温泉は善光寺の精進落しの湯として栄えました。北国西街道(善光寺西街道)は、中山道洗馬宿(塩尻)から北国街道篠ノ井追分を経て丹波島宿で北国街道に合流する結ぶ道で、主に京都・大阪など西の地域から中山道経由で洗馬宿から北上して善光寺に向かう街道で北国西脇往還とも呼ばれていました。春の千曲市は、あんずの里の花の開花とともに訪れ、桜へ移っていきます。二つの善光寺街道の挟まれた長野県千曲市の戸倉宿から稲荷山宿の間にはあんずにも劣らない桜の名所があります。桜と温泉で素敵な旅になりそうです。写真は更埴市(現千曲市)時代のマンホール

JR篠ノ井線稲荷山駅から徒歩で約20分にある千曲市の北西にある稲荷山地区。天正10年(1582)武田家が滅亡し、本能寺の変で織田信長が死去すると上杉景勝はいち早く松本(深志城主)小笠原貞慶の侵攻に備えて千曲川河川に東西155m南北170mの平城・稲荷山城を築きました。その際縄張りの中に白狐が飛び込んできたことからこの地を稲荷山と名付け、城の西側に南北に大路を通して城下町を形成しました。稲荷山城は千曲川の氾濫などによって現在その痕跡は残されていませんが、かつて城中の櫓があったとされる場所に稲荷山城跡の碑が立っています。この地は銅鑼の形状であったことから鉦山と呼ばれています。

元和元年(1613)の一国一城令による廃城後、善光寺西街道の宿場町として栄えた稲荷山宿には、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、掛茶屋が建ち並び、十辺舎一九も「稲荷山弥次喜多道中」でこの賑わいを描いています。善光寺平への入り口として善光寺西街道の要衝であり、越後に至る谷街道の起点でもあった稲荷山。江戸時代北信濃最大の宿場町として栄え、明治以降は生糸と絹織物の商いが盛んでした。弘化4年(1847)の善光寺地震での町の焼失により土壁の町並みを作り上げていきました。その背景には商都としての財力が欠かせなく、黒い屋根、白壁の豪壮な町家が当時を伝えていて、今も大壁造りの町家や重厚な土蔵が建ち並んでいます。写真はナマコ壁の土蔵が連なり昭和14年(1939)まで料亭を営んでいた松葉屋の白壁造りで四段蛇腹の重厚な建物が今も残っています。

稲荷山の町家は「切妻造り2階建て、下屋根付きの平入りが基本で、個々の敷居間口が広く高さがあり、屋根が急勾配であることにより建物が大きく見えるのも同地区の建物の特徴です。稲荷山宿藏し館は、幕末から明治期にかけて「商いに国境なし」という「稲荷山魂」を説き、生糸輸出の先駆者として栄えた、松林源九郎(松源)の邸宅を修復・再生したものです。主屋は漆喰で固めた土蔵造りで、古い町屋の生活空間を再現しています。

二階建ての土蔵には稲荷山での商いや生活の様子を物語る民俗資料を多数展示しています。歴史に触れるだけだはなく、時を重ねた迫力ある太い梁など建物の魅力も存分に味わえます。

かつて稲荷山祇園祭で町内を練り歩いた県内唯一を誇る宝物、慶応元年作の四神(青龍・玄武・朱雀・白虎)が保存・展示されています。

稲荷山治田公園には治田神社前の男池と女池と呼ばれる二つのため池の周囲にソメイヨシノなど約200本あまりの桜が咲き誇ります。

治田神社は千曲市内で隣り合う稲荷山地区と桑原宿との二神社ありますが、共に雄略天皇8年(463)に彦坐命の5世孫・日子王が当地へ下向し創建したものと伝わります。桑原の社を上の宮、稲荷山の社を下の宮といいます。水面に満開の桜が移り込む姿は絶景です。

武水別神社は地元では「はちまんさん」と呼ばれて親しまれている神社で、創建は第8代孝元天皇の時代とされ、善光寺平の豊穣と千曲川の氾濫防止を祈って武水別大神を祀っています。武水神社一帯は平安時代末期より石清水八幡宮の荘園となっており、安和年間(968~970)に石清水八幡宮から八幡神(相殿の3柱)を勧請されたと伝わります。

桜咲く寺は数多く、寺が極楽浄土を表現すること、また御釈迦様が生まれたのが花園であったことなどから、桜の他にも蓮、躑躅、沙羅双樹、紫陽花、萩、秋明菊、山茶花、椿と折々に咲く花を植えているところが多いといいます。美しい花を咲かせて春を知らせてくれるが、寺の桜は花見の宴のように俗な印象ではなく、深玄なその有様は少しも褪せることはありません。同じ千曲市にある長野県の自然百選にも選ばれている「八幡山 大雲寺」は石垣の上に立つ天正9年(1581)創建の歴史ある禅宗の古刹です。

城のような石垣に白壁、百余体の石仏がたたずむ霊諍山と前の大雲寺中池とに囲まれ桜の他にも蓮や紫陽花などで四季を通じて景観が楽しめる有名な花の名刹。この風景は大正時代にこの池を訪れたお坊さんにより、遠くインドにも紹介されたといいます。

八幡峯から『更科紀行』の芭蕉気分で姨捨の棚田を歩いてみれば、今も昔も変わらない日本の原風景を楽しむことができます。

 

 

 

善光寺平の南端に広がる千曲市戸倉は、江戸時代は北国街道(善光寺街道)の宿場町として、また大正時代からは県内随一の歓楽温泉街として開けた町。町の中央を悠然と流れる千曲川と温泉街を一望する桜に囲まれたしなの鉄道戸倉駅東側の山腹の高台にあるのが「戸倉宿キティパーク(現戸倉宿サクラケアパーク)」です。4月中旬、270本のソメイヨシノが桜花爛漫に咲き誇り、園内を華やかに染めていきます。見晴らしのいい広い敷地とあって大勢の花見客で賑わいます。写真は公園から眺めた戸倉温泉街

駐車場は少なく早朝には満車にることが多く、付近は住宅地であることから駐車禁止でもあり、電車での来場になります。Jしなの鉄道戸倉駅から思いのほか急な坂道でエネルギーが必要になりますが、満開の桜並木のトンネルを歩くと身も心も癒され、疲れも飛んでしまいます。途中園内にはローラー滑り台やターザンスロープ、アスレチックなどの遊具も充実し、ヤギやヒツジが放し飼いのいなっていて、親子で楽しむことができます。キティパークの「キティ」は小動物の意味です。

公園のシンボルは高さ9.5m(身の丈8.0m)体重5トンの迫力のある千曲天狗で、別名「天狗公園」とも呼ばれています。戸倉山天狗伝説では、隣村(坂城町)に住んでいた山伏の兄弟が千曲川の大水でちりぢりとなり、うち長男が戸倉自在山に移り住み、毎日厳しい修行を積みながら村人の幸福を願っていたことから、後に村人がこの山伏への感謝の気持ちから天狗としてまつったとのことです。この証として、当公園右手奥の自在山のは「天狗の松」「天狗の祠」などがあります。

 

戸倉上山田温泉から城山へ。当地一帯を治めていた村上氏の支族である山田国政によって大永4年(1524)に築かれたと伝わる荒砥城は、山田城、砥沢城とも呼ばれた戦国時代の連郭式山城。現在のものは、中世の史実に基づき木造復現された全国で2例目の城山史跡公園で、櫓や本郭からは戸倉上山田温泉の街並みや千曲川、北アルプスの眺めも楽しめます。

冠着山から千曲川へ向かって伸びる舌状尾根の突端部にあり、戦略上重要な位置に築かれていて、村上氏の本城、葛尾城の支城としての役割を担っていました。信濃に侵攻する武田信玄と領地奪還を目指す村上義清に加勢する越後の上杉謙信との川中島の戦いの中で荒砥城は、目まぐるしい奪い合いの渦中にありました。天正10年(1582)武田氏滅亡後は上杉領となり、屋代秀正が入城も天正12年(1584)徳川氏に通じたため上杉景勝に攻められ落城し廃城となりました。屋代秀正出奔後の領地の一部は上杉景勝の人質となっていた真田信繁(幸村)の領地として与えられたとされています。

館や兵舎、櫓、門、木柵といった中世の山城の建造物を木造復元していることから2007年NHK大河ドラマ「風林火山」の海ノ口城として、また2011年NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の小谷城としてのロケ地に使用されています。

千曲市の温泉といえば、善光寺詣での精進落としの湯として、県都長野の奥座敷として、温泉歓楽街を形作ってきた「戸倉上山田温泉」があります。千曲川を挟んで両岸に戸倉温泉と上山田温泉があり、開湯から100年余りの信州では比較的新しい温泉街ですが、湯量は豊富、美肌の湯の誉れ高く名湯百選に選出されています。日中は少々閑散とした空気は否めませんが、いくつかある昔ながらの銭湯では良質の湯に安く浸かることができます。その代表格は温泉街の北の端にある「湯元 かめ乃湯」です。100周年の記念事業として長く20円銭湯として地元民に親しまれてきた公衆浴場「亀の湯」が日帰り温泉施設「かめ乃湯」として改築新装オープンしている。

上山田の温泉供給会社によって運営されている日帰り温泉施設なだけにもちろん源泉かけながしの100%天然温泉です。ジャットバスを備えた内湯と陶器風呂のある露天風呂があります。

 

 

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