芭蕉の足跡を感じながら「三春の滝桜」から始まるさくらめぐり

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みちのくの玄関口に位置し、太平洋側から「浜通り」「中通り」「会津」の3つの地方に分けられる福島県。中でも中通り地方は、」福島、二本松、郡山、白河などの都市が並び、昔も今も旅人たちの往来で賑わってきた交通の要衝。松尾芭蕉が『奥の細道』の行脚で数々の足跡を残したのもこの道筋です。中でも春にこの地方で忘れてならないのが“”。樹齢1000年を超す「三滝の滝桜」をはじめ、銘木・古木が、綺羅星のごとく点在しています。中通りに桜の名所は尽きることがなく、そんな桜三昧の旅が味わえるのもこの時期ならではの贅沢な楽しみです。

また日本で最も愛されている美しい“桜”を東北の復興・再生のシンボルに掲げ、東北6軒の桜の名所を『東北。夢の桜街道~桜の札所。八十八ヵ所』として選定していて桜巡礼も楽しめます。

福島県の中央部、郡山の北東、阿武隈山地の山裾にある盆地の町、三春。春には数えきれないほどの桜が社寺や土蔵が残る町並みを美しく彩る。“三春”という言葉には旅情をかきたてる響きがあります。三春町は梅、桃、桜の花が一斉に咲くことからその名がついたという美しい伝承をもつ町。戦国大名の田村義顕によって、永正元年(1504)に三春城が築城され、江戸時代初期には秋田氏が入城し、5万石の城下町として栄えました。町の中心部から南へ約4km、三春ダム湖「さくら湖」近くのくぼ地には、山梨県の「山高神代桜」、岐阜県の「薄墨桜」とともに日本三大桜として知られる「三春の滝桜」が威風堂々の姿を見せます。名桜「三春の滝桜」を堪能し、町歩きを楽しむことにします。桜巡礼一番

小高い丘に聳える三春の滝桜は、三春の滝地区にあるので滝桜といいますが、推定樹齢が1000年以上、樹高が12m、根回りが11m。枝張りは東西に約24m、南北に約127mで、支柱に支えられていますが四方に伸びた枝を垂らし、紅色の花を無数につけるさまも、名前の通り、滝のように花が流れ落ちるようです。桜の種類はエドヒガンの変種「ベニシダレ」で、普通のシダレザクラよりも花色が濃い。エドヒガン系の桜は寿命が長く大木になることが多いのですが、やはりこれだけ長寿で、樹勢がある桜は珍しい。

滝桜は、艶やかな美しさと北国の大地にしっかり根付く力強さを併せ持ち、見る者を圧倒します。滝桜の周囲には遊歩道が設けられ、一回りすることができます。見る角度によって少しずつその姿が変わるのですが、どこから見ても写真のフレームに収まりきれないほどの迫力があります。

三春の滝桜は、天保7年(1836)に著された今となっては筆者のわからない『滝佐久良の記』に、江戸時代の三春藩主秋田氏が入部した正保2年(1645)にはすでに大木であったと記され、三春藩主がことさらにこの艶やかな滝桜を愛し、その開花時期には、周辺の民から現在の開花状況を報告してもらっていたことがわかります。藩主は満開の時期になると供を連れて自ら花見に出かけていたそうで、この桜は藩主御用木とされ、その枝回りの地租を無税とし、四囲に竹矢来を張って桜の保護に努めさせていたといいます。三春の盆唄は「殿の桜で手折られぬ」と花見の敷居の高さが皮肉混じりで歌われます。また享和3年(1803)に越後・長岡藩の密偵2人が陸奥南部を調査した際の旅日記『陸奥の編笠』の中に「老木のしたり桜一ト木あり、幾百歳を歴たる事を知るものなしと云、廻り三人にて手を廻してもとどかず、上にて四つの俣に分かれたる所、一本の枝とても大木也・・・」と記されています。

三春とその周辺すなわち旧三春藩であった三春町、郡山市、田村市、のみならず隣接する二本松市には、滝桜の子や孫と伝られる名木がいくつもあります。名前がついているものだけで50本以上、無名の桜も負けず劣らず美しい。桜めぐりに車を走らせます。

三春町の南隣、郡山市の中田町には巨木が多い。上石の不動桜は不動明王を祀る不動堂の境内にある樹齢約350年、樹高16m、幹周りは約5.3mで枝張りが東西に18m、南北に16.5mと全体に優美な花姿の桜。三春の滝桜の子孫と言われる「紅しだれ郡山五桜」のひとつで、不動堂の傍らに美しい枝ぶりを見せます。お堂の中に不動明王が祀られていることからこの名がつきました。このお堂が江戸時代には寺子屋として使われ、その名残が天井などの落書きに見うけられます。

紅枝垂地蔵桜は“三春滝桜の娘”といわれる、樹齢400年、樹高16m、幹囲4.1mのシダレザクラ。t地上から2.5mのところから一本の大枝が、西の方へ14m程のび、それより2m上のところから十一本の大枝が四方に直径18mにも広がっています。樹勢は極めて旺盛で、紅色の花がそだれの枝先に咲き乱れ、満開時の眺めな見事です。この桜の下には、地蔵堂があり、昔から赤ん坊の短命、夭折の難を逃れるため、この地蔵に願をかけていたと言われています。近年この桜の美しさを聞きつけ、県内外から多くの人が訪れています。桜巡礼四番

県道113号で田村市の小沢の桜を目指します。途中にあるのが是哉寺の地蔵桜です。地元では「旧磐城の街道の一里桜」、「種まき桜」とも呼んで、昔から親しまれて大切にされてきました。長年の風雪に耐えて傷跡が多くありますが、樹勢は良く、樹形、幹の太さは市内屈指で、樹齢約350年、樹高15.5m、幹囲5.15mあります。

県道113号から国道349号で北へ。小沢の桜はタバコ畑の中の樹齢100年ばかりの一本桜。地元の人が「さくら」という女性を偲んで植えたソメイヨシノ。小沢の里は古くはタバコの産地で、郡山からも磐城からも遠く山深い土地とされてきました。2000年公開映画『はつ恋』(主演田中麗奈)に“願いの桜”として登場し、最後の花見のシーンなどがここで撮影されました。傍らには子安観音の祠と野仏、遠くには移ヶ岳が見渡せ、懐かしい古き日本の原風景が広がっています。桜巡礼三番

国道349号と国道459号の合流近く、二本松市(旧岩代町)に入った道の駅「さくらの郷」から合戦場のしだれ桜まで続く桜の並木「いわしろのさくら回廊」があります。全長1.6kmにも及ぶ遊歩道に約250本の桜が織りなします。道の駅近くにあるのが新殿神社の岩桜といい、鳥居の上に4本の石割桜がそびえ立ちます。

回廊沿いに歩くと福田寺の糸桜。樹高20m、幹囲5m、樹齢300年で、三春の滝桜の子、そして合戦場のしだれ桜の親と伝わるシダレザクラです。国道349号から全容が良く見え、樹形が美しい桜です。

いわしろさくら回廊には、たくさんの桜の花が咲き誇り、まるで桃源郷の風景です。春の谷を囲む若い桜の多くは合戦場のしだれ桜のこども達。

合戦場のしだれ桜は国道459号沿いに広がる高台にある樹齢160年のエドヒガンザクラ。合戦場とは、1040年頃の平安時代に朝廷の命で奥州征伐に来た源義家と蝦夷地豪族の阿部貞任、時任が旧三春、川俣、伊達街道のこの地で戦った「前九年の役」の戦いの場となったことが名前の由来。周辺には菜の花が咲き、桜との共演が楽しめる人気のスポットです。よく見ると約2mの間隔で南北に二本立っていて地元では「合戦場のしだれ桜」と呼ばれ、一本の木のように見えるのが特徴的。2本の木からなることから「大林の夫婦桜」とも呼ばれる。元は、三浦宅の氏神である稲荷神社の参道左右に格一本ずつ植えられたものであるが、現在の参道は旧参道の南方約4mに移設されています。南側のものは、樹高17.2m、幹囲3.08m、枝張り東西約14.3m・南北約16.5m。北側のものは、樹高17.2m、幹囲2.62m、枝張り東西約14.3m・南北約16.5m。樹齢は約150年と若い。桜巡礼十八番 ※現在樹勢回復作業中

二本松城は福島県を代表する桜の名所で日本さくらの名所100選に選定されています。「お城山」の愛称で市民の憩いの場となっている霞ヶ城公園は、江戸時代の寛永20年(1643)に白河藩から移封された初代二本松藩主丹羽光重が近世城郭として整備し、以後220余年にわたり二本松藩の政庁だった二本松城跡です。阿武隈山系の裾野にあたる標高345mの白旗ヶ峰を中心として、三方が丘陵で囲まれた「馬蹄形城郭」で、自然地形を巧みに利用して築かれた要塞堅固な名城です。春には公園全体にソメオヨシノやヤマザクラなど約2500本もの桜が咲き誇り、城跡全体を霞がかかったように桜が覆うことから霞ヶ城とも呼ばれる桜巡礼十七番の名所です。                        「偉大なる「✖」!戊辰悲話の二本松城跡と十万石の城下町散策」でこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/12382

再び三春町まで戻り三春城下を散策します。                                         「名物を味わい、枝垂れ桜の名木が彩る城下町三春をそぞろ歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/20797

最後に桜巡礼十番、郡山市の市街地にある開成山公園へ。明治6年(1873)3月、郡山の商人25名が結社した「開成社」がこの地の開拓にあたり、灌漑用に土手の長さ860mの開成沼を造りました。その後、明治11年(1878)、開成沼及び五十鈴湖の土手に、彼岸花・山桜・ソメイヨシノなどを847株植えました。開花の季節には開成山一帯が見事な景観になったため、昭和9年(1934)5月1日に国の名勝天然記念物に指定され、全国に桜の名所として知られるようになりました。昭和35年(1960)に指定は解除されましたが、現在約1300本の桜が植栽されています。

日本遺産『未来を拓いた「一本の水路」~大久保利通“最後の夢”と開拓者の軌跡~』は、この開成社による開拓事業の成功から始まります。日本で4番目の広さを誇り、豊富な水を湛える猪苗代湖は、江戸時代までその湖水は西側の会津地方にしか流れず、奥羽山脈に遮られた東側の安積地方(現郡山市)には枯渇した原野が広がっていました。明治6年(1873)この安積原野の一部である大槻原を対象に開墾事業を始めたのが、戊辰戦争で敗れ困窮を極めていた旧二本松藩士族であり郡山商人25名で結成された開成社でした。水を確保するため元からあった五十鈴湖(江戸時代の灌漑用池で以前は上の池と呼ばれていた)に西側、現在は公園内の野球場と陸上競技場になっている場所に、新たな用水池「開成沼」を築造したのです。これが「大槻原開墾事業」です。

その開拓事業の成功に感銘を受けた内務卿・大久保利通は、明治9年(1876)新産業の育成を目指す「殖産興業」の進展と困窮した武士を救う「士族授産」のため、水不足で悩まされていた安積平野へ猪苗代湖東岸を開削して水を流す「国営安積開墾事業」が政府により明治11年(1878)始められました。こうして悲願の水路「安積疎水」が明治16年(1883)に全行程が完成しました。

 

 

 

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