原爆で倒壊!三角州に佇む水堀と石垣の復興のシンボル広島城

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毛利輝元が築いたとみられる広島城は、昭和に入っても残り国宝に指定されていたものの昭和20年(1945)8月6日の原爆投下により一瞬にして倒壊。表御門跡や中御門跡に残る赤黒い石垣は、被爆時の火災により変色したものです。現在の天守閣は、昭和32年(1957)の広島復興大博覧会に際して復元が決定され、翌昭和33年(1958)3月に外観復元されました。日本100名城の一つであると同時に名古屋城・岡山城とともに日本三大平城としても有名な広島城ですが、広島復興のシンボルとして親しまれてきたものの耐震と老朽化のため2026年3月をもって閉城するということです。ラストイヤーに訪問します。

広島城は天正17年(1589)、毛利輝元が、瀬戸内海に面する太田川河口部の三角州地帯に城地を定め、穗田元清(元就子)・二宮就辰を普請奉行として築いた城です。西を本川(旧太田川)が、東を京橋川が流れる最も広い島に城の中枢をおき、北は本川と京橋川の分岐点、南に向かうと瀬戸内海が開けている天然の要害になっています。この地はかつて五箇村(五ヵ浦)と呼ばれた陸上交通・海上交通の結節点で、祖父・毛利元就の時代には、既にある程度の土地開発が進んでいたようです。豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感し、中国地方一帯の広い領地を治めるには、山奧の居城・安芸郡山城から水陸の便が良い平野へ移そうと思い立ち、この地を政治・経済の中心地として開発した輝元は、現在の広島の生みの親といえます。写真は内堀沿いに立つ毛利輝元像

「広島」という地名の由来は、自然の地形を意味する「広い島」という意味や、毛利氏の祖・大江広広元の「広」と城地選定の案内役を務めた福島元長の「島」を合わせて「広島」と命名した、築城以前から地元で人々が用いていた地名等諸説あり、はっきりしたことは不明です。また広島城は別名「鯉城(りじょう)」ともいわれます。一説には、この付近一帯が己斐浦(こいのうら)と呼ばれていて、地名の「己斐」が「鯉」にかわって「鯉城」と呼ばれるようになったと言われます。

中国地方9か国112万石の大大名として豊臣政権下で五大老の一人になり、力を持った輝元でしたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めたことで失脚し、周防・長門の2ヵ国に減封されました。輝元にかわって広島城には、福島正則が安芸・備後2ヵ国49万8000石で入り、外堀や外郭の整備や大規模な増改築(一説には88棟にも及ぶ膨大な数の櫓を建設)や広島城下を通るように西国街道(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図るといった城下町の整備を行いました。

しかし洪水で破損した広島城の修築許可の不備を咎められた正則は元和5年(1619)に改易されます。本丸北東隅に残る崩れた石垣がその痕跡といわれます。崩れかけた石垣は、福島正則が壊した跡とも言われる。代わって紀州和歌山から浅野長晨が安芸1国と備後半国の42万6000石で入城。(備後は福山藩に分割)以後明治までのおよそ250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を勤めました。浅野時代には洪水や地震後の修復に留まり、大幅な増改築はなされませんでした。

現在は内堀とそれに囲まれた本丸・二の丸のみが残されていますが、江戸時代の広島城は、内堀に囲まれた本丸と二の丸を凹型の三の丸が囲みそれを中堀が廻る構造でした。さらにその周りには外郭が置かれ外堀を廻らしていた輪郭式平城です。三重の堀で守りを固め、西側は太田川を天然の堀とする広大な敷地を占めていました。

構造上の特徴は、二の丸が出撃の拠点としての機能を持つ「馬出」という離れ小島のような独立した区画になっていることです。本丸の正面を守る役割を果たしていました。全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。

三の丸から平成元年(1989)の広島城築城400年を記念して復元に着手し平成6年(1994)8月に完成された御門橋を渡り、表御門から二の丸城内に入ります。

同じく同年復元された平櫓、多聞櫓、太鼓櫓がある区画が二の丸です。この郭は、毛利時代に築造されたもので、外側から内部がみえにくく、本丸からは内部が見える構造として防衛機能を考慮していました。また本丸の南側に突出した空間を置くことで、防御力を高めていました。太鼓櫓と平櫓を結ぶ多聞櫓の長さは35間(約63m)あります。

櫓の中は見学ができ、木造で復元されています。天井の梁が素晴らしく、日本建築が堪能できます。

写真は内堀から見た二の丸を撮ったもので、左から平櫓・多聞櫓・一番手前が太鼓櫓です。創建時期は天正期末(16世紀末)頃と想定され、このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されています。3棟とも江戸時代を通して、二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していました。平櫓は桁行12.43m、梁間8.64m、棟高7.76m。多門櫓は桁行67.86m、梁間4.93m、棟高5.13m。太鼓櫓は桁行8.49m、梁間7.76m、棟高10.60mです。

本丸の中御門とは土橋でつながります。本丸は上下2段で構成され、上段は城主の居住エリア、下段は馬場と土蔵となっていました。現在、本丸下段には広島護国神社があります。石段を上がって本丸上段へ。

本丸上段の広さは約5000坪で、藩主の住まいや政務を執った本丸御殿が置かれていました。東側、南側は現在土塁となっていますが、福島正則時代にはここにも石垣がありました。北西隅には五重の天守が立っています。築城時には大天守を中心に、3重南小天守と3重東小天守の2棟を渡櫓で連結させた壮大なものでした。

天守閣内では1層から4層までは広島城の模型の展示、武家屋敷や商家の復元展示、さらに広島ゆかりの刀やつば、鎧・兜などを展示しています。

武家屋敷には、広島城のキャラクター「しろうニャ」がお出迎えしてくれています。比翼千鳥破風に見せかけた耳と、下見板張り風の首輪がチャームポイントです。

天守閣第5層の展望室からは、晴れた日には宮島に山並みを望むことができます。

場内に残る石垣は見応えがあります。石垣は、自然石をほぼ加工せずに積んだ「野面積」と、ある程度の大きさに成形して積み上げた「打込接」の2種に大別されます。天守台付近の石垣をはじめ隅角部が算木積みになっていない石垣は輝元時代、なっているものは福島正則時代以降の石垣と考えられます。

裏御門跡は本丸の東に位置する城門跡。現在残る櫓台石垣の間に門扉があり、その上部に渡櫓が築かれていました。

福島氏は毛利氏と同様に広島城を居城とし、領国支配の中心としたほか、地域支配あるいは国境の守備のため、小形(大竹市)、三吉(三市)、東城(庄原東城町)、鞆(福山市鞆町、三原(三原市)、神辺(福山市神辺町)の6ヵ所に支城を設置し、有力家臣を配置しました。家臣の三原城には養子正之を入れた配置状況から三原城が支城の中で最も重視されていたことが窺えます。元和元年(1615)7の一国一城令により、三原城を除く5つの城は廃城となりましたが、三原城のみ存続が許可され、その後も明治維新まで広島藩の支城として存続しています。

三原は古くは古墳時代から人が暮らし、永禄10年(1567)小早川隆景が三原城を築城して以来、城下町として発展した三原。大正時代以降は、企業城下町となり同時に港町・寺町でした。多彩な表情を見せる三原を歩いてみます。駅前には、「三原やっさ踊り」の像が立ちます。これは、永禄10年(1567)小早川隆景」が三原城を築いた際、城の完成を祝って、人々が歌い踊ったのが始まりとされています。「やっさ、やっさ」という囃子言葉が特徴で、老若男女が笛や太鼓、三味線に合わせて踊ります。

城下町三原と聞いて不思議に思えるのも城跡と駅が合体しているのです。三原城はおそらく日本でもっとも“駅近の城”で、本丸を山陽新幹線の線路が貫通し、JR三原駅がつくられているからです。

改札を出て駅構内を右手に進むと天守台入口を示す案内板があるほど。三原城の天守台は、まるで駅の屋上広場のような存在です。

改札を出て小早川隆景像と書かれた案内板を進み、天守台の周りをぐるりと一周しながら石垣を眺めてみれば、思いのほか立派な石垣が広範囲に残っていて驚きます。

『小早川家文書』によれば、瀬戸内海の水軍を掌握していた毛利元就の三男、小早川隆景が、三原城を築城したのは永禄10年(1567)。往時は、沼田川河口に浮かぶ瀬戸内海に面した地に島を繋いで築かれた、いわゆる「海城」です。城は海に向かって船入を開き、海水を取り入れた水堀で囲まれ、満潮時には海に浮いたように見えたことから「浮城」とも呼ばれていました。周辺を少し歩けば、徒歩5分ほどのところには三原港があり、三原が瀬戸内海に面した地だとわかります。三原は古くから、瀬戸内海と山陽道の両方を抑える地で、隆景は水軍の基地、瀬戸内防衛の拠点として、多くの船が往来する瀬戸内海を抑えるべく三原城を築きました。現在は天守台や船入櫓に一部しか残っていませんが、現在のような近世城郭の姿になったのは福島正則以降で、東は湧原川から西は臥龍橋付近まで約900m、南北には約700mもの長さだったと言われ、この中に本丸、二の丸、三の丸があり、櫓32と城門14があるとても大きな城でした。

小早川隆景は天正10年(1582)には三原城に入っていますが、その後筑前に移りました。文禄4年(1595)に家督を小早川秀秋に譲ると三原に戻り、三原城と城下町造りを再開しました。慶長2年(1597)隆景が亡くなると、毛利氏の直轄領となりましたが、その後慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に福島氏、福島氏の改易後は浅野氏が入りました。写真南西部隅部。

天守台の石垣は、北西部と北東部で、隅石の積み方が異なります。北東部の隅石が長・短・長・短と組み合わさる算木積みに対して、北西部の隅石はそうなっていません。これは、北西部が小早川時代、北東部が福島時代に積まれたからと考えられています。三原城は、小早川氏と福島氏、そして江戸時代に手を入れた浅野氏と、三代の技術が見られる貴重な城です。特にこの裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜き、当時の高度な技術「空積み」という特殊な工法は、古積形式を400年以上経た今でも立派に伝えています。※空積みは石と石の間を接着剤で固定せず、石の重みだけで積み上げる方法。写真北東部隅部

『紙本著色備後国三原城絵図』に描かれた後藤門の石垣をもとにに復元されています。実際の石垣はもう少し高く、、北側の石垣も現在の市道の歩道部分あたりまでは延びていました。門自体は市道の直下にあたります。石垣の東側は階段状の雁木となっていました。

また浮城の面影を残すのが、刎跡(川の勢いを弱めるための施設)や船入櫓跡、中門跡です。写真は、和久原川の神明橋上から見える「水刎」。河岸から川中へ向けて三角形に石垣を築き出し、川の流れを弱める役と流れの方向を変えて、三原城の「東築出」の用地を確保する為に造られた石積と考えられます。流水の強く当たる所の大石には、それぞれに穴を開け、鉄棒を通して連結してあるそうです。現在は水刎の上に家が建っている点も不思議です。

とりわけ船入を監視していた船入櫓跡は、昔の入り江付近に造られたもので今にも舟が入ってきそうな情緒があり、海城だった頃を連想させます。

船入櫓跡の南側は、石垣と遊具が共存する城町公園となり、櫓台の下には南東隅に城の基礎となった岩礁が見られます。

城の東西に形成された城下町は、隆景が東側を整備し、後に福島氏が西町の町割を行いました。どちらも山陽道が通り、現在でも小路が残り、寺の多い城下町であり同時に港町でもある市街地を石碑や石垣を探しながら散策できます。

 

 

 

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