
京都市街から北西に約80km、丹波山地の盆地に広がる福知山。天正3年(1575)に織田信長から丹波国の平定を命じられ、、この地に現在へとつながる町の基礎を築いたのが明智光秀です。高台にそびえ、遠くからでも目に付く福知山城は、天正7年(1579)、丹波亀山城に続き、丹波における西国攻略の第2の拠点として築かれました。治水や税の免除などの善政を敷いた光秀は、今もこの地で名君として愛されています。史跡をたどり“謀反人”のレッテルに隠された光秀の素顔を探りにでかけます。
光秀が平定するまで、この城の前身は横山頼勝(塩見)氏が支配していたため、横山城(簡素な掻揚城)と呼ばれていました。光秀は攻め落とした横山城の大改修を行い、『丹波なる 吹風(ふくち)の山の もみじ葉は 散らぬ先より 散るかとぞ思ふ』という和泉式部の和歌を基に、明智の「智」の字を充てて「福智山城」と名付けたといわれ、ここから江戸時代中期に現在の福知山の地名が誕生したとも伝わります。
福知山駅から福知山城を歩いて目指します。バスでも直接向かうことができますが、見通しのよいお城通りで市役所前を通り、15分ほどで福知山城に到着します。福知山城は明智光秀が天正7年(15t9)にこの地に城を築いたことから始まります。福知山盆地の丘にそびえ、由良川、土師川が敵の侵入を阻むという極めて防御力の高い設計となっています。その立地から「竜ヶ城」とも称され、光秀の城の中では唯一天守が復興されていて、続日本100名城に選出されています。
市役所の裏手、伯耆丸に立ち寄っていきます。伯耆丸は南から由良川に伸びる横山丘陵の中央部にあり、本丸・二の丸へ続く細長い丘陵を切通しで独立させた郭です。福知山藩初代藩主有馬豊氏の重臣であった有馬伯耆守の屋敷が置かれ、有馬氏の居住中は本丸へ行くための橋が架かっていたと伝えられています。写真は伯耆丸公園から望む福知山城。石垣上にそびえる天守は街のシンボルです。天守の前の白い櫓風の建物は銅門番所。
「本能寺の変」後の「山崎合戦」やその後の一連の顛末のなかで、光秀が城主だった期間は3年とごく短く、光秀は滅ぼされますが、福知山城は羽柴秀長をはじめとした城主を迎え、改修と増築が進められました。伝来している絵図等の状況から関ヶ原合戦ののちに6万石で入封した江戸時代の有馬豊氏が城主時にはほぼ完成していたと考えられます。由良川に対して伸びる丘陵を中心に築城された平山城で、城郭及び城下町周辺を堀で囲み、それらを一体的に構築した「惣構え」の城として完成しました。
江戸時代以降、転封や改易により城主が頻繁に変わりましたが、寛文9年(1669)に朽木稙昌が常陸国土浦から3万2千石で入部して以降は、明治維新に至るまで朽木氏が13代にわたり藩主を務めました。明治6年(1873)の廃城令により、天守周辺の石垣や銅門を残し、福知山城の大半が失われましたが、昭和に入り天守閣の復活を望んだ市民が、瓦一枚の金額を一口とした瓦一枚運動などで寄付を募り、有馬豊氏から松平忠房の頃の絵図資料を参考にした3層4階の望楼型の大天守と2層の小天守の再建整備を昭和61年(1986)に実現させました。まさに町のシンボルともいえる愛すべき城です。
福知山城公園が見えてきたら少しだけ回り道をしてかつての堀だった法川にかかる太鼓橋風の歩道橋「昇龍橋」を渡ると、橋からは目線の先に丘陵にそびえる大天守の望楼が顔を出しています。思いのほか遠くに見えます。
福知山公園入口からスロープ状の坂をゆっくり登っていきます。
天守閣入口前に石の鳥居が建つ神社は、福知山藩の藩祖・朽木稙綱を祀った「朝暉神社」です。寛文9年(1669)に創建され、昭和61年(1986)に現在地に移されました。
その30mほど南、天守閣の東側にある直径2.5m、深さ50mの豊磐井は、城郭内部の井戸としては日本有数の深さ誇る井戸です。豊磐とは、稙綱の神号。地下の水脈まで岩盤を掘り下げていて、今も清らかな水をたたえています。
本丸正面にまわると「銅門番所」という詰所が見られる。二の丸の登城口(市役所の東)にあったもので金具が銅で出来ていた銅門の横にあったためそうよばれたそうです。銅門番所は、大正年間に天守台(小天守台)に移築され、天守閣の再建に伴い再び本丸跡に移転されました。城の歴史を語る唯一の貴重な現存建物です。戦国の息吹を感じながら天守へと入ってみます。
銅門番所脇には一部の転用石が展示されています。
まずは天守を支える天守台の石垣に注目です。明治時代の初めに廃城となりましたが、石垣が当時の面影を留める。天守台や本丸にかけての石垣は、野面積と呼ばれる技法で、一見乱雑にも思える積み方だが堅固、自然石などを加工せず巧みに積み上げたもので、400年以上の歳月を重ねてきました。近年の研究から天正時代(1573~1592)初期、光秀時代のものである可能性が高いことが判明しています。
不揃いの石積みをよく見ると、積み上げられた石の中に自然石とは違う直方体の加工石が混じっています。これは寺社の墓碑塔などを転用した“転用石”で、大量の使用例は、福知山城や大和郡山城に見られますが、再建時の調査でその数500以上にのぼるといいます。信長に関係した当時の城に見られる特徴で、資材確保のために領内から石を集めることはよくありますがこれほどの数の転用石が間近に見られる城はめったにない。
現在の天守は昭和61年(1986)に再建された建物で、光秀時代の天守はもっと小さく、その天守台は現在の天守台の一部だったと考えれています。天守台を西側から見ると、左側に石垣の継ぎ足しを示す斜めに亀裂が入った線があります。この線を境に向かって南側(右)が光秀時代に造られたと考えられる天守台です。
城内の転用石が光秀時代の構築とみられる天守台に集中しています。現在、石垣に含まれている転用石の約6割が天守台南面に集中しています。確認されている紀年銘は「延文4年(1359)」から「天正3年(1579)」までで、そのうちもっとも年代が新しい天正3年の紀年銘は天守台南側の天端の中央付近の穴の開いた地輪の石で、光秀の修築時期と合致します。
石垣をみつつ大天守へ。天守閣の内部は、近代的な郷土資料の展示施設になっていて、甲冑や書状などの光秀ゆかりの珍しい品も公開されています。最上階は展望台になっていて、四方の窓から見渡せる盆地の眺望が美しい。城下のすぐ東は、由良川と土師川が合流する地点となっていて、交通の要所や天然の堀として川を巧みに利用していたことがよくわかります。遠く見渡せば、連なる丹波の山々も天然の要害であり、城を守るうえでいかに好立地であったかを展望台からうかがうことができます。
西側の本丸の対面に伯耆丸と呼ばれた郭が望め、本丸と伯耆丸の間に二の丸が置かれていました。本丸とは石垣で、伯耆丸とは切通しで区切られていました。朽木氏時代の二ノ丸建物は、西に玄関があり、奥に向かって大広間・二ノ間・大書院・応対ノ間・小書院等40余りの座敷・詰所が設けられていました。建物は明治20年(1887)に取り払われ、大正年間までにの陸軍の福知山連隊が駐屯地から演習場に向かう際に邪魔という理由で二ノ丸の台地も削り取られました。
北東には由良川と福知山城の小天守ごしに光秀が治水のために竹などを植えたと伝わる明智藪が望めます。光秀は城下町を建設する際、たびたび氾濫を起していた由良川に堤防を築いて流れを変え、新たな流れの衝撃をやわらげるためにそこに強度を高めるためのヤブを作ったといいます。かつてはその地名から蛇ヶ端御藪と呼ばれていましたが、いまでは“明智藪”の名で親しまれ、生い茂る姿を目にすることができます。
続いて訪れたのは御霊神社。光秀ゆかりの神社ということですが、創建は本能寺の変から100年以上もあとの宝永2年(1705)。町の基礎を築いた光秀に感謝する領民の願いを受け、当時の福知山城主・朽木稙昌が商売繁盛の神である宇賀御霊大神を祀る祠に光秀の霊を合祀。大正7年(1918)に現在地へ移りました。
朱色の社殿や唐破風付きの屋根が雅やかな佇まいの拝殿。屋根などところどころに桔梗紋がみられます。光秀が織田家のどの武将にも先駆けて群の規律や軍役の基準を制定した「明智光秀家中軍法」を所蔵しています。光秀は地子銭(宅地勢)を免除して自由に商売ができるように図るなど善政を敷き、町の経済発展にも力を注いだことから、境内には光秀を称える石碑が立つ。
福知山には美味しいグルメもたくさんあります。B級グルメでは「ゴム焼きそば」と「うす焼き」。この両方を味わうために御霊神社から5分ほどの距離にある『お好み焼き めだか』を訪ねます。茶色い見た目と弾力がまるで「輪ゴム」のように見えることから「ゴム焼きそば」と命名された麺は、2021年閉店した『神戸焼』の初代店主が戦時中に中国・広東省で食べた広東麺を福知山で再現し、焼きそばとして販売したのがルーツと言われています。
もうひとつの福知山の味「うす焼き」は、クレープのように薄く伸ばした生地に、粉カツオを振り、刻んだイワシちくわと牛スジ肉をしょうゆで炊いたものを乗せるのが定番。お好み焼きといっしょでマヨネーズなどはお好みで。
スイーツでは足立音衛門。由良川堤防沿いに建ち、高低差を利用した和洋折衷モダンな佇まいが美しい焼菓子店。粒よりの丹波栗とヨーロッパ種の栗を使用した「栗のテリーヌ『天』」や栗のクリームと栗が丸ごと入った「集栗夢」など栗にこだわった焼菓子が人気です。
本店のある840坪の敷地にはショップとして使用する母屋のほか、洋館や撞球場など大正時代に建てられた9棟が並びます。本店の建築群は由良川堤防の築堤に携わった「松村組」4の創業家自邸として建てられました。堤防の安全性を示すためこの場所を選んだと言われています。2022年7月「お城カフェ」として開放された洋館では、本店で販売する焼き菓子やシュークリームをコーヒーや紅茶とともにゆっくり味わえます。