三重・関宿に奇跡的に残された旧東海道の素顔と美しき意匠を歩く

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東海道五十三次の宿場町は、現在そのほとんどが旧態を留めていない中にあって、今なおまるで時間が止まったかのごとく、古い家並みが往時の町の姿を色濃く留めているのが47番目の宿場町として栄えた「関宿」です。現在も約1.8kmにわたって江戸時代や明治時代に建てられた町屋が200棟以上現存し、東海道随一の歴史的な町並みが残されていて、どの建物も懐かしく落ち着いた風情を漂わせています。かつての大旅籠から地蔵院まで古き良き時代の街道風情に触れながら歩けば、旅人たちの賑わいが目に浮かびます。

ローカル列車に身を委ね、山深い林道や田園を抜け、ようやく辿り着いたJR関駅。今でこそ周囲はひっそり静まり返るものの、鈴鹿山脈南麓に位置するこの界隈は古来交通の要衝として開けていました。その歴史は古く、反乱者の東国脱出、東国から機内への侵入を阻止するため、畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された越前の愛発、美濃の不破とともに古代三関の一つと称された、伊勢鈴鹿の関が置かれていました。壬申の乱(672年)では大海人皇子が初動で不破関を固めて優位に立ったことから大宝元年(701)に制定された大宝律令によって法的に規定されました。関宿の名はかつての東国と西国の境を分ける「鈴鹿関」にちなんでいます。

江戸時代、東海道五十三次の江戸から数えて47番目の宿場町として、東の追分で東海道と伊勢別街道、そして西の追分で大和・伊賀街道とを分ける分岐点で参勤交代や伊勢参りの旅人で賑わっていたのが関宿です。ピーク時には本陣、脇本陣各2軒、旅籠は42軒を数え、一日1万人もの往来があったともいわれています。東海道随一といわれる町並みを散策するなら、やはり東の追分から歩くのがよいでしょう。関宿は東と西に追分が残り、その間の1.8」kmに古い町並みが続きます。今でも歩き旅を十分に楽しめる宿場町です。

とう関駅から北へ歩いて5分ほど、坂道を上りきった辺りに一目でそれとわかる風景が視界に飛び込んできます。東西にのびるかつてのメインストリートは、木崎地区の東追分から新所地区の西追分までの東西約1.8kmに及び、江戸時代から明治時代に建てられた町家が200軒ほど連なり、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。日本の道百選」にも選ばれており、格子や白壁の塗籠など江戸情緒が感じられる。茶色くカラー舗装された東海道を行きます。

旧川北本陣から移築した山門を構える延命寺を正面に見つつ、まずは中心エリアの中町を東へ歩きます。

関宿は、精一杯の限度を意味する“関の山”の言葉を生んだ町でもあります。山とは祭の山車のことで、それ以上の絢爛豪華さはないということからそのように言われたのでした。下台から上の部分だけが回転するという舞台回しが特徴的で、全国的にも珍しい形をしています。最盛期には16基あり、互いに華美を競い、また狭い関宿を練り歩きました。現在は4台の山車が残り、4か所の山車倉があります。関の山車会館でには、本物の山車2基を常設展示しています。

開雲楼と松鶴楼の二軒は関を代表する芸妓置店でした。東側の開雲楼(写真奥)を見ると、表の堅繁格子や弁柄塗りの鴨居や柱、こった意匠の二階手摺りや格子窓などにその面影を残しています。

斜め向かいには御馳走場があります。関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所で、関宿には4か所の御馳走場がありました。うち揃い 殿様迎える 御馳走場 関かるた

中町から東は下町風情が色濃く深い木崎町の街並みになります。関宿の町屋の特徴は平入の二階建てが一般的ですが、二階前面を土壁で覆い漆喰で塗籠た堅格子窓の虫籠窓が目を引きます。関町にはさまざまな形の虫籠窓があります。庇の下に取り付けられた幕板は風雨から店先を守る霧除けで、座敷の前の出格子窓は、明治時代以降に取り付けられたものです。また店の前に取り付けられた上げ下げができる棚をばったりといいますが、商品を並べたり、通りを通る人が座ったりしました。

緩やかな下り坂の向こうに関宿の東の玄関口にあたる東追分の大鳥居が現れます。東海道と伊勢別街道の分起点にそびえる大鳥居は20年に一度の遷宮時に役目を終えた内宮御正殿の棟持柱、宇治橋南詰めの鳥居を経てきたものが移されてきます。いにしえの旅人は憧れの伊勢神宮をここから遥拝しました。鳥居を抜けて南へ延びるのが伊勢別街道、15里(約60km)で伊勢神宮に着きます。

延命寺を正面に中町エリアを西に進むと、江戸時代末期に建てられた関宿の代表的な伝統的町家を、町が解体修理して公開している「関まちなみ資料館」があります。連子格子の戸、縦に3つ並んだ部屋、坪庭、土蔵などがあり、町家の造りを知ることができます。また関の文化財の紹介や関宿に関する歴史資料などを展示しています。盛信が 天正年間 町作り 関かるた

向かいには江戸時代の終わりには脇本陣もつとめた「鶴屋」があります。玉屋、会津屋とともに関宿を代表する旅籠のひとつで、座敷の前についた千鳥破風がその格式を示しています。

川北本陣跡のまちなみ文化センターの前には、関宿が江戸から百六里余りにあることから名付けられ、関宿の町並みの中に生まれた小公園「百六里庭」と通りに面した建物「眺関亭」があります。眺関亭からは、関宿の家並みが一望でき、甍の先に映るのは緑豊かな鈴鹿の山稜です。また正面奥の屋根瓦は地蔵院。

並びには関宿のもうひとつの本陣、伊藤本陣跡があります。本陣は、産金交代の大名や公家、公用の幕臣ばどが利用した格式の高い宿泊施設です。現在残るこの建物は、本陣の店部分にあたります。

斜め向かいの橋爪家は代々橋爪市郎兵衛を名乗り、江戸時代の初めの寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち大阪の鴻池と並び称される豪商でした。江戸末期には芸妓の置屋として栄えました。街道に面して三角形の屋根を見せるこの建物は、関宿ではめずらしいものです。“丸みある屋根の形は起こり屋根” 関宿かるた

高札場跡のある関郵便局の手前、白い漆喰壁にトレードマークの宝珠をモチーフとした虫籠窓が印象的な建物が「玉屋」で「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と歌われた関の三大旅籠のひとつで現在は歴史資料館として公開されている。慶応元年(1865)築という母屋をはじめ、12代主人作の欄間彫刻が見事な離れなどを、当時の道具類とともに紹介しています。通り庭を抜けた奥、元文4年(1739)築の土蔵では、歌川広重「東海道五十三次 関」の浮世絵を展示しています。

すぐ向かいの通りに面して、徳川家光公の時代、寛永年間から370年余の暖簾を守る和菓子の老舗「深川屋 陸奥大掾」があります。忍びの古文書が残り、忍者の隠れ蓑の和菓子屋とも言われています。陸奥大掾とは官位であり、かつて天皇が出家して入る門跡寺院の筆頭であり「御室御所」と呼ばれた京都・仁和寺の御用達を仰せつかったことで“従二位服部陸奥大掾”の名を賜った老舗。江戸末期の重厚な商家の佇まいを今に残し、庵看板や虫籠窓などの美しい意匠が見られます。銘菓「関の戸」は、北海道産赤小豆のこしあんを求肥で包み 阿波特産の和三盆をまぶした餅菓子で、その姿は鈴鹿の峰に降り積もる白雪を表現しているとのこと。そに菓子を献上する際には、大名行列も道を譲ったというほどの格式がありました。

その深川屋の軒先に唐破風の屋根を配した見事な庵看板が通りに面して直角に掛けられています。制作は1783年以前のものだということが記録で分かっていることから、優に240年の歳月を経ています。おそらく日本最古級の現役看板であろう。

古さもさることながら、この看板に彫られた文字「関の戸」の裏表の書風が異なるのも珍しい。京都側と江戸側で看板の文字が書き分けられているのは、旅人が迷わないよう配慮した東海道の慣わしとのことですが、このような商家の看板はほかに例がないと思われます。京の方面に向く看板西面は、全体にややがっちりとした書きぶりで、「関」の字は楷書に近く、「の」は草書の「能」で書かれている。反対に江戸のある東面は「関」の字が崩された草書で、「の」も柔らかい平仮名の雅な雰囲気の書きぶりです。

つまり、“鈴鹿の関”にほど近い関宿を過ぎる時、東国から来た旅人は看板の雅な字を見て都が近いことを感じ、逆に西国から来た旅人は、そのかっちりとした硬い書きぶりを見て、関宿からいよいよ東国に足を踏み入れたことを肌身で感じたことだろう。なんと粋な趣を演出した看板であることか。これも関宿という東西を分ける土地柄ならではのこと。今も看板に恥じない、老舗の伝統を守りながら営まれています。

もう一つの関宿の銘菓が、四季を表現した飾り玉がかわいらしい団子餅「志ら玉餅」です。江戸時代末期の文久年間(1861~1864)の頃に関町中町の白玉屋の初代が考案したといい、関宿で旅人がお茶請けとして楽しんだお菓子です。白玉屋が廃業し、昭和58年(1983)に前田屋製菓が引き継ぎ創意工夫を重ね復活させました。三種の神器の一つ勾玉をイメージしているとのこと。土産店や食事処も点在しのんびり散策するのも楽しい。

その先に関地蔵院の大きな屋根瓦を望む。天正13年(741)行基菩薩の創建といわれ、東大寺の僧が天然痘から多くの人を救うために地蔵菩薩を置いたのが始まりだといいます。のちに一休禅師が自分の褌と小便をかけて開眼供養を行ったともいわれています。「関の地蔵に振り袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」とも歌われる関のシンボルで、本堂、鐘楼、愛染堂が国の重要文化財に指定されています。本堂は徳川5代将軍綱吉によって建立されました。本堂が東向きに建つのは、幕府のもとで建ったからだとも。中世には地蔵院と門前町が形成され、町そのものが“関地蔵”と呼ばれて広く信仰を集めました。そして現在に見られる関宿の基盤は、天正年間(1573~1592)、関盛信が地蔵院を中心に中町の町建てを行ったことに遡ります。

地蔵院前の町並みは会津屋をはじめ、二階に洋風意匠の窓が付いた「洋服屋」、米をつく水車の音から名付けられたという「川音」、伝統のある鍛冶屋など、特色のある町屋が並んでいます。

門前に店を構える会津屋は、もとは大旅籠のひとつ。正面から見ると屋根がぷっくりと盛り上がっています。起り屋根と呼ばれ、威厳を持たせていて関宿のなかでも財力のあった家にこれが見られるとのこと。戦後の空き家を床屋の店主が買い取り、現在は気軽に立ち寄れる食事処で「山菜おこわ」が名物です。

現代に語り継がれる「小万の仇討ち」で、はるか九州・久留米から夫の仇を追ってきた女が力尽き、助けられた山田屋はこの会津屋の前身とされます。まもなく女は女児を生んで息絶え、旅籠の夫妻に引き取られた子は小万と名付けられ、やがて仇討ちの本懐を遂げます。関の小万は、鈴鹿馬子唄にも唄われ、すぐ北の福蔵寺で安らかに眠っています。

福蔵寺は天正11年の創建の織田信長三男信孝の菩提寺です。裏門は玉屋の向かいにあった荻野屋脇本陣から移築したものです。

この辺りから新所地区となります。江戸時代の関宿の特産物として火縄があり、新所を中心に数十軒の名物の火縄を扱う店が並びました。火縄は鉄砲に用いたため大名の御用がありましたが、道中の旅人が煙草などに使うために購入したため大いに繁盛したといいます。先へ進むにつれて落ち着いた家並みに変り、大和・伊賀街道との分岐点である西追分に着きます。

関宿の西の入口にあたり、東海道と大和・伊賀街道の分岐点です。石柱には「ひだりハいかやまとみち」とあります。

改めて街道を戻りながら目を凝らすと、鯉の瀧登りや鶴・亀・龍など凝った造りの漆喰彫刻や瓦細工が屋根を彩っています。子孫繁栄・家運長久などを願って職人が技をこらして作ったものです。

昭和27年(1952)開通の国道1号線が町中を通らなかったことが幸いし、東西の追分間約1.8km、約25haという広い範囲が保存地区。西から新所、中町、北裏、木崎の4地区に分れ、旧街道に面して約400棟の町家が軒を連ねます。そのうち200棟余が江戸後期から昭和初期にかけての建物で、地区ごとにすこしずつ趣を異にしている観光地でなく、暮らしが息ずく東海道47番目の宿場町です。

 

 

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