アジサイの長谷寺と鎌倉大仏の長谷から極楽寺への鎌倉歩き

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東西北の三方を山に囲まれ、南に海が開けた鎌倉は、自然の要害の地。そこに神社仏閣が悠然と立ち並ぶ。数多くある寺社のなかでも、参拝客が多く訪ねる大定番の寺社を中心に江ノ電一日乗車券「のりおりくん」600円を使って巡る鎌倉旅。今回は北鎌倉の明月院と人気を二分する鎌倉を代表するアジサイ寺、長谷寺のある長谷エリアへ。

鎌倉駅から江ノ電に乗って3駅目の長谷駅までの電車旅を楽しみながら「長谷駅」で下車し長谷通りを北に、途中左折して花の寺「長谷寺」に到着です。正式には海光山慈照院長谷寺と号し、奈良時代の天平8年(736)開創を伝えています。本尊である十一面観世音菩薩像は像高9.18mの日本最大級の木造の仏像です。養老5年(721)大和(奈良県)長谷寺に開山である徳道上人の本願に基づき、稽文會、稽首勲と名乗る二人の仏師により大和国初瀬に山中で見つけた楠の巨大な霊木から二体の観音像が造られ、一体は大和長谷寺の本尊となり、残る一体が衆生済度の願いが込められる海に流されました。その後三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ付いた観音像を遷し、建立されたのが長谷寺です。

境内は観音山の裾野に広がる下境内と中腹に切り開かれた上境内に分かれ、この世の西に極楽浄土があるという西方浄土の考えを鎌倉の西に位置する長谷寺で再現しています。まずは山門脇から入山し正面が放生池と妙智池を中心に造られた回遊式庭園。

境内入口近くには、かわいい「和み地蔵」様に遭遇します。人の背丈と変わらないほどの大きさなのですぐにわかります。優しい微笑みで癒しオーラがでています。

和み地蔵の脇を歩き大黒堂へ。当山伝世の大黒天像は、応永19年(1412)の銘を持ち、現在は観音ミュージアムに収蔵されており、代わって堂内には「出世開運授け大黒天」や「さわり大黒天」が祀られ、鎌倉・江の島七福神巡りのひとつになっています。

下境内奥には弁天堂と隣接して「弁天窟」があります。神秘的な雰囲気が漂う小さな洞窟スポットで、弘法大師が籠って修行をした場所と伝わります。寺伝によれば当山の八臂弁財天は大師が岩窟に参籠し感得して自ら刻まれた尊像といわれ」、江戸時代には「出世弁財天」の名で世に知られていました。現在その尊像は観音ミュージアムの収蔵され、代わりに福徳弁財天が弁天堂に祀られています。

また弁天窟の壁面には弁財天とその眷属である十六童子と呼ばれる神像が並んで彫られています。

「頭上注意」と書かれた看板がある狭い洞窟の奥には弁財天が祀られているので参拝しましょう。

下境内から上境内へ続く石段の中ほどに立つ地蔵堂の裏手を覗くと、ずらーと地蔵堂を取り巻くように千体地蔵が並んでいます。

さらに上ると「かきがら稲荷」。海に漂う観音は尊体に付着した“かきがらの導きにより当地に流れ着いたとの渡海縁起によります。絵馬がかきがらなのがユニークです。

上境内にあるのが長谷観音と呼ばれる十一面観音菩薩像を祀る本堂「観音堂」。一般的な十一面観音とは異なり、右手に地蔵菩薩の持ち物である錫杖を携え、岩座に立つ尊容は「長谷寺式」と呼ばれる姿が特徴です。坂東三十三所観音霊場第4番札所に定められています。小泉八雲が記録した紀行文『鎌倉・江ノ島詣で』では、「この観音様を見て湧き起こる感情は、讃歎の気持ちというより、むしろ畏敬の念である。」と記しています。

本堂を挟んで右手にある鐘楼は、文永元年(1264)の銘を持ち、鎌倉では常楽寺、建長寺に次ぎ三番目に古い半鐘です。

左手には経蔵が建ちます。内部に回転式の書架を備える経蔵を「輪転蔵」と呼び、書架を一回転させることで、中に納められている約5400巻からなる一切経(大蔵経)をすべて読誦したのと同じ功徳が得られるといい、また堂内にはマニ車が十八基設置されています。

本堂正面左手、山の斜面からせり出すように設けられ視界が開けた「見晴台」があります。当山は鎌倉八景のうち「長谷の晩鐘」と謳われた景勝地であり、その眺望は、由比ヶ浜はもとより、厨子・葉山といった遠く三浦半島や相模湾までも一望できます。

また近くにある食事処「海光庵」からも鎌倉の街並みと由比ヶ浜、三浦半島を見渡せる開放的な眺望が楽しめます。長谷寺の山号・海光山からとった同庵では、お寺が提供するだけあってお寺のカレーは動物性の食材を使っていません。

さらに観音山に広がる眺望散策路が経堂横から整備され、6月になれば「あじさい小径」となり40種類を越える約2500株のアジサイの競演が境内裏手の斜面を彩ります。経堂前のあじさい小径に入る手前の鉢植えも見事です。※2018年6月11日訪問。

あじさい小径を上る途中、経堂を見下ろす。

観音山斜面一面に咲くアジサイ

アジサイ越しに望む遠景。※この日は生憎の雨模様

下境内の放生池と妙智池に架かる石の平橋に置かれた鉢植えのアジサイに見送られて光則寺へ。

長谷寺とひとつ谷地を隔てて行時山光則寺があります。鎌倉幕府5代執権・北条時頼の家臣である宿谷光則が開基し、文永11年(1274)頃、日蓮の弟子である日朗を開山として創建しました。『立正安国論』などによって日蓮上人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も宿谷光則によって屋敷に捕らえられました。やがて光則は日蓮上人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられます。境内の裏山には日朗上人が幽閉されていたと伝わる土牢の跡が残っています。

境内には法華経の信者だった宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩碑があります。

長谷寺と光則寺を後にして一本道の長谷通りをさらに北に歩きます。観光客と土産物屋で大にぎわいなのは、この道が大仏様のいる高徳院へと続いているからです。後光山を背に鎮座する鎌倉大仏で有名な「高徳院」は、法然上人が開いた浄土宗の寺院で、本尊として鎌倉大仏として親しまれる「国宝銅造阿弥陀如来坐像」が鎮座します。奈良の大仏の復興法要に参加した源頼朝が思い立ち、その遺志を継いだ僧の浄光が寄付を集めて造ったとか、源頼朝の侍女といわれる稲多野局が発起したともされ、『吾妻鏡』によれば建長4年(1252)より約10年かけて建立、像の高さは11.3mにもおよび耳の長さだけで2m、奈良の大仏には及ばないものの鶴岡八幡宮の鳥居(8.5m)を大きく超える高さで重さはなんと122トンあります。仁王門をくぐると大仏様現れます。

運慶に代表される「慶派」の作風に宋の影響をミックスさせた像容が特徴の鎌倉大仏は、ほぼ建立当初の姿を保ち、仏教芸術史上でも高く評価されています。阿弥陀如来の手の組み方(印相)は9種類あると言われていますが、その中でも最も格式の高い上品上生印を結んでいます。明治23年(1890)来日直後の小泉八雲が記録した紀行文『鎌倉・江ノ島詣で』では「大仏様の柔和で夢見るような無心の表情-容姿のすみずみにまで現れている無限の安らぎは、誰もが心惹かれる美しさに満ちている」と記しています。

鎌倉大仏の横に回ってみましょう。背中から見ると少し猫背気味に前かがみになっていることがわかります。実はこの姿勢こそ宋の影響を受けていて鼻の高いエキゾチックな顔、人間のような姿勢が宋風のポイントです。歌人与謝野晶子が『かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな』と詠みました。

外から見て参拝するだけでなく大仏の中に入る「胎内拝観」で大仏の神秘を感じてみます。大仏様の脇に入口があり拝観料120円です。胎内は背中の扉から光が差し込み、鋳造の継ぎ目や補強された跡などがはっきり見えます。初めは木造だった大仏を青銅仏にしたといい高度な鋳造技術がうかがえます。

大仏の周辺には「蓮弁」といわれる江戸時代、台座修復の際に装飾のために作られたものが並んでいます。本来は32枚作る予定がなぜか完成した4枚の置かれています。

完成当初は大仏殿の中に安置されていましたが、室町時代に現在のような露座の姿となりました。境内には災害で倒壊するまで鎌倉大仏を守っていた大仏殿の土台となった「大仏殿礎石」が56個残っています。大仏殿の規模が想像できますね。

長谷通りを戻り、長谷寺を過ぎたところで鎌倉彫の「白日堂」を右折し脇道へ。江ノ電の踏切のすぐ脇に「御霊神社」の鳥居が立っています。うっそうとした木々と石造りの鳥居、江ノ電車両のバランスがよく鉄道ファンによく知られた撮影スポットです。鎌倉が舞台の映画「海街diary」では、次女佳乃(長澤まさみ)と四女すず(広瀬すず)の通学・通勤シーンで登場しました。

創建年代は推定で平安時代後期。当初は関東平氏の先祖の霊を祀っていましたが、武勇を持って知られる鎌倉権五郎景正を祭神とした古い神社です。景正は鎌倉武士団を率いて湘南地方を開拓した領主でもあり、地元では鎌倉権五郎神社とも呼ばれ親しまれています。石橋山の戦いで頼朝の危機を救ったとされる梶原景時は鎌倉党の一族でした。現在の本殿は大正時代に建立されたものです。

怪力の伝説を持つ権五郎景正が軽々と持ち上げた105kgの手玉石、袂に忍ばせたという60kgの袂石が社殿の右側に残されています。

社務所前にはかながわ名木100選にも選ばれている樹齢400年の大樹「タブノキ」があります。樹高は20mにも達し日差し除けになってくれています。糸巻きの形をしたペアの縁結び御守りはひとつずつ持てば御利益あり。

坂の下の星の井通りまで下ると元禄年間(1688-1704)創業の老舗和菓子店「力餅屋」があります。御霊神社の「手玉石」と「袂石」をモチーフにした店名でもある力餅は、鎌倉土産の定番贈答品。昔ながらの製法で作り、甘さ控えめのなめらかなこし餡とやわらかいつきたての餅の歯応えとの食感が絶妙で相性抜群ですが、賞味期限が当日限りで残念。建物は町を見守り続ける歴史ある佇まいです。

星の井通りは、坂ノ下海岸から御霊神社前を通って坂の下の虚空蔵堂の下にある「星の井」へと続く古道。坂の下とは鎌倉七口の一つ極楽寺坂切通しの下にあるということで、明治時代の井戸付近は茶店で賑わいました。星の井は、別名星月の井又は星月夜の井と呼ばれ、鎌倉十井のひとつ。この辺りは山深く、鬱蒼と木々が繁り、昼でも暗かったため、井戸を覗くと星が輝いて見えたという伝説からこの名があります。

極楽寺坂切通を上って下って江ノ電「極楽寺駅」を目指しますが、途中にある眺めの良い「成就院」に寄っていきます。縁結びで有名な寺院で人間の煩悩の数と同じ108段の石段が約100m続き、上がると山門前で視界が開け、由比ヶ浜と材木座海岸が一望できます。『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』に登場した成就院は、アジサイを南三陸町に移植したため、寺側斜面はハギが植えられています。

平安時代初期に弘法大師空海が諸国巡礼の折に護摩供養を修したという霊場跡に、承久元年(1219)鎌倉幕府三代執権北条泰時が一族の繁栄を願い普明山法立寺成就院を創建しました。山門は江戸時代後期の建立と伝わり、木材を複雑に組み合わせた禅宗様式の屋根の裏側など細部も細かくチェックしてみてください。

本堂に安置されている本尊「不動明王像」の分身が境内にあります。剣を持つ右腕の形が恋人と腕を組む姿に似ていることから縁結びのパワースポットとして人気がります。

2015年公開映画「海街diary」やドラマ「最後から二番目の恋」など近年話題になった作品に極楽寺境内や極楽寺駅などが登場しています。極楽寺駅の駅舎は昭和10年代築の木造で、関東の駅百選になっているノスタルジックな佇まいです。鎌倉が舞台の「海街diary」では、4姉妹が暮らす一軒家の最寄り駅とされましたが、昭和51年(1976)10月から1年間全48話でTV放映された「俺たちの朝」も極楽寺駅付近で共同生活をすることになった男女3人の若者を描いた青春ドラマで、当時廃線寸前だった江ノ電の危機を救ったといわれています。

極楽寺駅を出て左側にある線路に架かる赤い欄干の桜橋から見られる江ノ電唯一のトンネル極楽洞は煉瓦造りの坑門で、明治40年(1907)竣工、アーチの頂部に2ヶ所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいものです。藤沢方には極楽洞、鎌倉方には千歳開道と表示されていて、建設当時の煉瓦張りがそのまま残されています。

駅の裏手にあるのが駅名にもなっている「極楽寺」。北条義時の三男で六波羅探題北方を務めた北条重時が、正元元年(1259)に創建した鎌倉唯一の真言律宗の寺です。開山は良観房忍性で奈良西大寺叡尊門下で戒律を学びました。隆盛期には七堂伽藍を備えた大寺院でしたが天災や兵火により焼失しました。文久3年(1863)再建の山門が鄙びた風情で、本堂、大師堂、客殿へと誘ってくれますが、残念ながら山門から先の境内は撮影禁止です。分厚い茅葺きの山門は質素な造りでありながら重厚感があり、往時の隆盛を偲ばせるに十分な風格があります。入る時は右側、出る時は左側のくぐり戸から出入りします。映画「海街diary」では、姉妹の祖母の法事や食堂のおばさんの葬儀場面で登場しています。

江ノ電で由比ヶ浜まで戻り、駅から歩いて2分の「鎌倉 松原庵」でランチをいただく。

瓦葺きの門扉を潜ると、そこに待っているのは蕎麦屋とは思えない洗練された空間。築90年の邸宅を利用した建物には、四季折々の花木が美しい、テラスやカフェスペース、離れが用意され、大人の雰囲気が漂います。

テーブル席を配した和室もモダンな雰囲気です。落ち着いた雰囲気でゆったり寛げます。

ランチは由比コースで前菜は彩り7種盛り合わせ。今日は、鮮魚のカルパッチョ、彩り野菜のバーニャカウダ、茄子の南蛮漬け、揚げ蕎麦の豆腐味噌添え、鴨わさ 蕎麦屋のかえし和え、鎌倉豆腐の醤油豆がけ、七穀餅の揚げ出し。

鴨のロース肉の炙り焼きは単品で注文。鴨が美味しいと評判のお店なので。

海鮮のあられ揚げ(+400円)にせいろ。そばは国内外のそば粉のブレンドで、やや色の濃い二八のそばは、そばの風味、香り、喉越しのバランスが良い。芝エビ、大葉などが混ざったかき揚げはあら塩でいただきます。

江ノ電にのって鎌倉駅に戻ります。江ノ電鎌倉名物のご当地グルメ駿河屋本舗の「鎌倉コロッケ」。江ノ電鎌倉駅構内のお店「ことのいち鎌倉」でしか買うことができません。なかでも「Big鎌倉コロッケ」は江ノ電公認の限定商品です。牛脂でじっくり炒めた玉ねぎとしっかり裏ごししたじゃがいもによるクリーミーな食感とシンプルな味付け、そしてサクサクの歯ざわりがどこか懐かしく感じるコロッケです。江ノ電パッケージの紙袋入りが旅情を掻き立ててくれます。

 

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