但馬の小京都・出石の往時を偲び、美しい城下町歩きを楽しむ

※この記事で紹介する内容にはPR・広告が含まれています。

古くは『古事記』『日本書紀』に名を留める歴史ある町・出石は、垂仁天皇3年から天日槍(あめのひぼこ)によって開かれたと伝えられる神話ゆかりの地であり、江戸時代には但馬地方最大の城下町として栄え、但馬の中心として数百年の華やかな歴史を刻んできました。町の南を流れる出石川は、かつて三十石級の大きな船が行き来するほど栄えた但馬の主要な交通路でした。但馬の小京都と呼ばれ、歴史を偲ばせる昔ながらの佇まいが今も町のそこここに残っています。その面影を鮮やかに伝える町の中心地は、2007年国の重要伝統的建物群保存地区に指定されました。ゆっくりと時間の流れる城下町の名勝や史跡に彩られた町並みを情緒を味わいながら散策します。

町の南に位置する有子山山頂には戦国期の名城「有子山城」が、麓には近世期の名城「出石城」が築かれ、出石は、これらの城を中心に谷山川と出石川を外堀とし、城と町が一体化した「惣構え」の城下町として整備された但馬随一の雄藩として発展しました。2017年4月「続日本100名城」に選定されました。有子山城は、天正2年(1574)但馬守護山名祐豊が有子山山頂(標高321m)に築いた東西約740m、南北約780mもある大城郭です。主郭を中心に三方向に伸びる尾根に放射状に曲輪及び竪堀・堀切を配置した堅固な山城となっていて、まさに但馬の王者(但馬守護)の居城に相応しい「獅子の山城」でした。山名時代は土の城でしたが、天正8年(1580)羽柴秀吉により落城した後、城主となった羽柴秀長の命により“築城の名手”藤堂高虎によって石垣の城へ改修され、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となるまで使用されました。

有子山城と出石城は共存していて、時代とともに城が改変される様子がよくわかります。山城から平山城へ移行、山城への織豊系の城の技術の導入、山上の城と山麓の居館のあり方とその変化も2城を通して読み解けます。

小出氏は9代、約100年間続きましたが、後継ぎがなく断絶。元禄10年(1697)、松平忠周が藩主を継ぎます。本城は吉英の代でほとんどが完成していますが、小出氏に代わり入部した松平忠周が、元禄15年(1702)に三の丸に対面所を建設し、それまで本丸・二の丸にあった藩主御殿・政治機関を移しました。1825坪、90数部屋ある壮大さで、以降、宝永3年(1706)に信州上田より入部した仙石政明もこれを踏襲し代々居所としました。現在は出石庁舎が建っています。仙石氏は7代にわたって163年間出石藩5万8千石を治め、明治に至っています。

出石城は慶長9年(1604)小出吉英により有子山の麓に築城された連郭式平山城、最上段の稲荷曲輪から平地部分の三の丸まで階段状に曲輪を配置しています。城域は東西約400m、南北約350mあったとされ東西の斜面に竪堀、西側に蓮池、城の周囲のは水堀と土塁を巡らせ、重要な三御門(大手門(北)・東門・西門)は枡形虎口で防御を固めていました。現在の登城門・登城橋は、かつて埋門があった場所。江戸時代はここに谷山川はなかったので登城橋もありませんでした。

登城口を入って右手が西の郭で文化12年(1815)、仙石久道が自らの隠居所を建設したことから、西御殿と呼ばれていました。また久道の趣味でコウノトリが飼われていたといいます。

城下を一望する隅櫓は本丸跡に東隅櫓と西隅櫓が昭和43年(1968)に復元されたものです。登城門をくぐってすぐに見えてくるのが西隅櫓です。

石段を上がれば二の丸。政治を行う役所が建ち、本丸の城主御殿と渡り廊下で連結していました。中枢機能が対面所の映るとほとんで使用されなくなりました。二の丸からも東西の隅櫓を見上げることができます。写真は西隅櫓

東隅櫓は白漆喰総塗籠・2階の隅櫓。かつてはこの本丸東東櫓・二の丸東西の合計3基、さらに本丸西隅に多聞櫓が建っていました。

有子山城跡へは、江戸時代最上段の有子山稲荷社への参道でした山上建ち並ぶ37の朱色の鳥居が美しいお城坂と呼ばれる稲荷参道登城口から登ります。

途中稲荷曲輪がありますが、石垣は約13.5mの高さを誇り、但馬地方で最大規模を誇り、築城時の土木技術の高さがうかがえます。整えられた石材が、見栄えよく整然と積まれています。写真は本丸より見上げた稲荷曲輪

二の丸から一段上がると本丸。築城時は城主御殿がありましたが、松平氏以降ほとんど使用されなくなり、現在は庭園が残っているほか、隅櫓、感応殿が建てられています。感応殿は、出石藩主仙石氏の祖・権兵衛秀久公を祀り、中には小諸時代から伝わる秀久の木造が安置されています。秀久は、古くから豊臣秀吉に仕え、洲本、讃岐一国の城主となりましたが、九州攻めの戸次川の戦い失敗で秀吉の勘気を蒙り改易となるも小田原攻めで奮戦し、信州小諸城主として帰り咲きました。石川五右衛門を捕えた豪傑として知られています。

本丸に建つ西隅櫓

本丸に建つ東隅櫓

石段を登り、城下を見下ろせば、江戸時代を思わせる城下町ならではの町並みが広がります。5万8千石の出石藩は三丹(但馬・丹後・丹波)きっての雄藩として知られ、城下町は文化商業の中心地となりました。江戸時代の風情が色濃く漂う町並みは、実は明治9年(1878)の大火で大半を焼失し、その後、江戸時代の町割りの上に、時代の伝統を引き継いだ建造物群を建て、近代の城下町としてよみがえらせた新しい町並みです。碁盤の目のような町並みには、虫籠窓や卯建、緻密なデザインの格子など、江戸時代から伝わる瓦葺き、平入の町家形式を基本に、明治、大正期を経て発展した伝統的意匠が続き、落ち着いた佇まいをみせてくれます。

旧三の丸大手門脇の櫓台に建つ辰鼓楼は、かつて辰の刻(午前8時)に藩士の登城を告げる太鼓が打ち鳴らされたことから名付けられた見張り櫓。明治4年(1871)建設、高さ約13mで、内部は4階建ての構造。当初は最上階から太鼓を鳴らして時刻を知らせていましたが、明治14年(1881)には医師・池口忠恕寄贈のオランダ製の大時計が取付られました。現在1日2回(午前8時と午後1時)に太鼓の音にて時を告げ、同じ明治14年に時計が設置された札幌時計台とともに日本最古の時計台であり町のシンボルです。

出石町家老屋敷では、江戸後期の家老級の上級武士の居宅をそのまま展示。江戸時代の三大お家騒動のひとつ「仙石騒動」の首謀者とされた家老、仙石左京の屋敷といわれる。外観は平屋建てだが、不意の襲撃に備え隠し二階がある。

出石旧福富家住宅(出石町立資料館)は、明治時代の生糸を商う豪商の福富家の旧邸。建築当時は土台の石だけでも家が一軒建つといわれたほどの屋敷は、京都から職人を招いて当時流行の数寄屋風建築に仕上げたぜいたくな造り。明治期の高度な建築技術が駆使された極めて貴重な建物です。現在は出石の近代歴史を語る代表的な資料や藩主の甲冑などの武具、料理目録などを展示されています。

郡役所として明治20年に建てられた、木造の疑洋風建物

そんな道すがらに佇む廣江屋敷跡に残されている「桂小五郎潜居跡」の記念碑。元治元年(1864)蛤御門の変で敗れ、朝敵となって追われる身となった長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)が、出石の町人善助・直蔵兄弟の義侠により京都から逃れて廣江孝助と名乗り、幾松夫人と共に荒物屋を装うなどして、ここに250日余り潜伏の日々を送ったと伝えられています。

昔は日本海から30石級の大船が出入りしていた旧出石川の大橋東詰めにあった船着場に立つ「おりゅう灯籠」。名の由来は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公「おりゅう」にちなんだもので夜になると灯がともります。

昭和39年(1964)の閉館から44年の歳月を経て平成20年(2008)よみがえった、近畿最古の芝居小屋「出石 永楽館」。全体を大きな切妻屋根が覆う館は、地元篤志家・小幡久次郎氏によって創設され、開館は明治34年(1901)、歌舞伎や新派劇などの大衆文化を支えた芝居小屋で、出石城主・仙石氏の家紋『永楽銭』にちなんで名づけられました。

興行の無い日は館内見学もOKで、花道や看板のかかる表舞台から、奈落や楽屋といった裏舞台まで、使えるものはすべて残した館内をめぐれば、まるで明治時代にタイムスリップしたよう。畳敷きの客席、床に傾斜を持たせ、どこからでもよく見える2階席を合わせ、計368席あり、木と土の館に響き合う圧巻の迫力は天下一です。館内の壁に残されたスポンサー広告の看板は閉館時のままで、今でもこの地で半数は商売を続けています。

舞台下の奈落には床を回すことができる回り舞台があり、現在も人力で回して舞台転換などの演出を行っています。

ところで出石の名物ろいえば“出石そば”。これは宝永3年(1706)に但馬出石藩主の松平忠周と信濃上田藩の仙石政明のお国替えにより仙石氏が、一緒にそば職人を連れてきたことが始まりとされています。元来殿様しか食せなかった出石そばでしたが、江戸時代末期には、美しい白磁の出石焼きの小皿に盛り付ける「皿そば」が定着。その文化は脈々と受け継がれ、お店ごとにそれぞれ味の特徴がありますが、この独特の食べ方のルールは3つ。直径10cmほどの出石焼の小皿に盛ること。5皿1組をを一人前とすること。さらに枚数を言って追加していき、因みに箸の高さを食べれば“そば通”とされる。薬味ともに自然薯を添えること。だし、たまご、やまいも、ねぎ、わさび、などをお好みで混ぜ合わせるスタイルはいずこも同じです。

「ひきたて」「うちたて」「ゆがきたて」の三たてを信条とし、まず、そばとつゆだけで味わい、次にネギやワサビなどの薬味とともにいただき、その後に山芋と卵を入れて味の変化を楽しむのが正しい食べ方で、最後はそば湯で締めます。今回は創業宝永3年(1706)、出石皿そば 南枝でいただく。仙石家移封とともに出石に移住し、その後藩主より南枝と称せられました。ちなみに南枝の由来は『文選』に五言詩最古のものである「古詩十九首」が収められているその中の一首「行行重行行」の第八句からとったもの。

町の中心から少しはずれたところにあるのが宗鏡寺と願成寺です。宗鏡寺は、元和2年(1616)に出石城主・小出吉英により再興された寺で、出石生まれの沢庵和尚が庵を結び、ここで著書をあわわし、閑寂の日々を送ったことから「沢庵寺」と呼ばれるようになりました。徳川3代将軍・家光に厚遇を受けた和尚は、孤高の禅僧としての逸話も多く、中でも、グルメざんまいだった家光に、和尚手製の沢庵膳を供し「空腹こそ、ごちそうのもと」と戒めた話は有名です。境内には和尚作庭と伝わる「鶴亀の庭」や夢見の鐘、お手植えの侘助椿など、見どころがいっぱいです。

白壁が往時を留める寺社も多く、その数は30を上回ります。江戸時代、各街道の出入口に建ち、砦の役割を果たした寺もあります。

宗鏡寺の手前に建つ願成寺は、NHK大河ドラマ「八重の桜」で八重の最初の夫であった川崎尚之介ゆかりのお寺です。出石出身の尚之介は蘭学を志して江戸に赴き、江戸の高名な塾で洋楽を学び、同門の会津藩士・山本覚馬と出合い、維新期の数奇な運命をたどることにます。この寺は川崎家の菩提寺であり、由緒ある山門は江戸時代のものです。

向かいには2013年1月、刀の切っ先をイメージした供養の碑が立てられました。会津へと移った尚之助は、会津藩校の日進館で覚馬と共に洋学・砲術を教授し、妹・八重とも出会います。夫婦ともども戊辰戦争を戦い、戦後も会津藩が転封となった斗南藩のために尽力しました。

仙石家の菩提寺である本高寺の創建は、康正元年(1455)、日曾上人の開山と伝わります。当寺は最盛期には、9坊を擁する大寺でしたが度重なる兵火により堂宇が焼失し、衰退します。慶安3年(1650)には出石藩主小出吉英から庇護され境内が整備され、宝永3年(1706)には信州上田から移封し出石藩主となった仙石政明が帰依し、仙石家の菩提寺となりました。

 

 

おすすめの記事