「たかとほは 山裾のまち 古きまち ゆきあう子等の うつくしき町」と明治の文学者・田山花袋が謳った高遠は、700有余年の歴史文化に支えられた内藤家3万3千石の城下町です。中央アルプス、南アルプスの秀峰を一望する、風光明媚な山裾の町です。古くから伊那谷における政治、経済の中心地で栄えてきた高遠は、古い町並みや文化財、名所旧跡が数多くのこります。高遠に遠流された悲劇のヒロイン・絵島の伝説が残る「絵島囲み屋敷」のほか、町内には中世以降の名勝古刹が点在する。高遠城主の御用菓子であった高遠まんじゅうや保科藩主の時代から伝わる高遠そばなど、由緒ある名物も多い。折しも春、日本さくら名所100選に選ばれ「天下第一の桜」ともいわれる信州屈指の桜の名所「高遠城址公園」があり、園内には約1500本ものタカトウコヒガンザクラが大きく枝を広げ、天空を覆い尽くさんばかりに咲き誇っています。桜風景に彩られた城下町を訪ね、古寺や名所ををそぞろ歩いてみます。
高遠城は町の西の小高い丘一帯に広がる南北朝の頃から高遠氏が支配する城でしたが、武田信玄の勢力におされて旗下に属します。天正10年(1582)武田信玄の五男・仁科五郎盛信が織田信忠と戦い、壮絶な死を遂げたのも高遠城でした。その後江戸元禄年間には3万3千石の内藤家によって8代にわたり179年統治され、現在のような形の城下町が整備されていき、馬場には立派な桜並木がありました。明治時代に城は取り壊されて公園となりましたが、明治8年(1875)荒れ果てていた城址を見かねて高遠藩の旧藩士が「桜の馬場」から桜を植え替えたのでした。それが今の1500本のタカトオコヒガンザクラが咲く全国屈指の桜の名所「高遠城址公園」となって多くの人を惹きつけています。
ソメイヨシノより桜色が濃く、鮮やかな濃いピンクが風にそよぎ、満開の頃ともなるとその壮観さに圧倒されます。雪を残した中央アルプスを背に、鮮やかに咲き誇る“桜の森”は言葉にならない迫力と美しさを持っています。
開園時間は6:00~22:00で高遠に到着した7:00ではゲート近くの駐車場は満車状態で仕方なく麓の河川敷の臨時駐車場に止めて歩いて登ることになります。写真は高遠城が武田信玄の命により山本勘助が縄張りしたと伝えられことに由来する勘助曲輪の駐車場です。
城址公園北口の手前、左手の石段の上に古い門が見えますが、中の茅葺きの建物が万延元年(1860)藩主内藤頼直によって開校した旧藩校・進徳館。国指定史跡・高遠城址唯一の建造物で、儒学教育を行った学問所で教育に熱心だったという高遠藩が偲ばれます。文部官僚となった伊沢修二など多くの秀才を排出しました。
入場料500円で北ゲートから入ります。左手に公園のシンボルとなっている「高遠閣」は、昭和11年(1936)建築の休憩所。帝国ホテルや日本郵船本社などを手掛けたことで知られる伊藤文四郎氏の設計で春には桜にまみれます。
*天下第一の桜の碑を左にとると欄干に覆いかぶさるように桜の枝がしだれる「桜雲橋」は見どころのひとつです。文16年(1547)武田信玄によって築城された高遠城は、敵から城を守るために空堀が造られました。現在では絶好のお花見ポイントになっている空堀に架かる桜雲橋は、高遠城址公園のシンボルです。赤い欄干の橋が満開の桜に包まれるこの場所で、水面に映し出される桜もまた美しいのです。
橋の下にも降りることができます。橋の下から眺める桜雲橋はまさしく桜雲の中に橋が浮かんでいるようです。濃淡取り混ぜた1500本余りのタカトオコヒガンザクラが堀から馬場までを埋め尽くしさながら花の迷宮のようです。
堀の中にある池に移る桜雲橋もまた幻想的です。戦国時代、武田信玄が家臣の山本勘助や秋山信友に命じ、大規模な改修を行った高遠城。敵から城を守るために造られた空堀も、現在では絶好のお花見ポイントです。
江戸時代、主な街道には宿駅が定められ問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、また旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人を置いていました。高遠城下、本町の問屋役所にあったのが問屋門で昭和20年代に問屋役所建物取り壊しの際移築されたものです。手前の桜雲橋とともに、城跡にかかすことのない景観シンボルになっている問屋門をくぐると本丸です。
正面に中央アルプスを望むことができます。白く輝く山と桜のコントラストが美しい。
本丸跡左手に太鼓楼が建っています。藩政時代、太鼓を打ち鳴らして時を告げていました。
南曲輪から白兎橋を渡り、法幢院曲輪へ。追手門近くに立つ歌碑には松井芒人の秀歌「登り来て振り返り見る坂の上、国美しき四季の移ろい」が刻まれています。またここには桜に埋もれる広瀬奇壁・河東碧梧桐の句碑「西駒は 斑雪てし 尾を 肌ぬぐ雲を」がある。高遠の桜を愛で、風光明媚な自然を求め、さらには歴史情緒に浸った文人墨客は枚挙にいとまがありません。
南ゲートを出ると信州高遠美術館
その前をすぎ高遠町歴史博物館に隣接するのが、高遠に遠流された悲劇のヒロイン・絵島の伝説が残る「絵島囲み屋敷」です。甲州藩士の娘であった絵島は大奥で出世し大年寄にまで上ったのですが、当時の人気歌舞伎役者生島新五郎と恋仲となり、不義密通を働いたという罪で二人はとがめを受けて絵島は高遠へ、生島は三宅島に流された「絵島・生島事件」の絵島です。
高遠藩の侍が昼夜警護をかかさなかったといわれ、忍び返しが付いた塀やはめ込みの格子戸は物々しい雰囲気です。事実は政争の犠牲になったとありますが、その絵島が厳しい監視にさらされながらもひたすら法華経を信じ、精進の日々を8畳一間の居室で33歳から61歳で亡くなるまでの28年間一人寂しく幽閉生活を送ったといいます。絵島の墓は蓮華寺にひっそりと佇んでいます。
三峰川にかかる白山橋を渡ります。桜の合間から模擬天守が望めます。やはり桜に天守は感動物です。
橋の上からは、東に仙丈ケ岳を望み、高遠城址公園を高遠湖の向こうに見る公共の宿「高遠さくらホテル」が見えます。桜に埋もれるドラマチックな姿が湖面に映しだされ幻想的です。高遠さくらホテルは湖に面してガラス張りとなっていて、レストランでは高遠湖畔に咲く桜を眺めながら食事ができます。日帰り入浴も可能で、高遠城址の花見帰りに、もうひと足伸ばして立ち寄るのもいいです。
左に高遠湖を眺めながらしばらく歩くと白山トンネルの手前、五郎山登山口の標識を見つけます。天正10年(1582)織田信忠と戦い、壮絶な死を遂げた武田信玄の五男・仁科五郎盛信のお墓が五郎山の頂上にありますが、その手前白山神社の先、白山観音の小さな標識を頼りに登ること登山口から20分、正面に高遠城址公園の全景を眺めることができるのです。1500本のタカトウコヒガンザクラが満開になる様子はまさしく「茜雲がたなびくよう」と例えられる有り様です。
下山したあと高遠湖畔の桜の広場で休憩。桜の位置が低く満開の桜を実感できます。
臨時駐車場に来るを停めておくのもいいですし、帰りの混雑を考えて一足早くに城下町にあるJRバス高遠駅に車を入れておくのも手です。
蕎麦を食べに向かいの「壱刻」を訪れます。隣の酒店が味噌の貯蔵に使っていた明治24年の醤油酒蔵を再生した城下町高遠らしい落ち着いた佇まいの中で、自家製粉した手打ちそばがいただけます。高遠産のほか季節に応じて全国から選りすぐったそば粉を使い、香りの高さと甘味の深いそばに仕上がっている角の立つ細切りの蕎麦は、風味を引き立たせる上品なそばつゆとのからみ具合も絶妙である。そばは二八、丸抜きの十割、挽きぐるみの十割、と変わり蕎麦の4種類から選ぶ。自身は抜きの十割、妻は二八での高遠そばを注文する。薬味に下伊那産の親田辛味大根のおろしが付きます。
高遠そばには諸説さまざまだが、今を遡ること1300年程前の奈良時代から伝わる言い伝えに由来します。伝説の天才的修験者「役小角」が、東山道を辿り荒行の聖地「駒ケ岳」を目指していた際、伊那市西部の内の萱で村人に温かくもてなされた小角は、お礼に厳しい気候条件でも栽培でき、栄養価の高い「そばの実」を村人に贈り、村人はこの一握りのそばを大切に育てて、やがて信州全体に広がったといいます。
以来内の萱は信州そば発祥の地と言われ、今も毎年十月に「行者そば祭り」が開催されている。「行者そば」の特色は地粉で打った手打ちそばを大根おろしの汁に焼き味噌を溶きいれた「辛つゆ」でたべることにある。山国の信州では鰹節などが貴重品であるがゆえ、そばつゆの代用として編み出されました。
そしてその「行者そば」を好んだのが、江戸幕府徳川二代将軍秀忠の妾腹の子で高遠藩主であった保科正之です。「辛つゆ」にさらに大根おろしとネギを薬味として加える食べ方を特に好み、領内で大根を栽培させるほどであったという。また高遠藩のおもてなし料理として将軍に献上していたとのこと。大根のおろし汁に焼き味噌を溶いた辛つゆが行者そばの特徴で、それに薬味のネギを添えたのが高遠そばでになります。
その正之公が高遠から出羽山形藩へ転封となり、その後さらに会津藩へ国替えになるとともにこの食べ方が伝えられ、今の会津地方では「高遠そば」として親しまれていて、「高遠そば」と言う呼び方自体が、300年以上のときを経て会津から高遠へ里帰りしてきたものなのです。壱刻では薬味にネギ以外に大根おろしもいれるようになっていて、辛つゆで食べたあとに少しづつそばつゆを足していくことも出来る。
女性向けにそば白玉ぜんざい、しるこ、くるみ餅等の甘味メニューも小気味よく揃えている。妻は当然のごとく食後にそば白玉ぜんざい(温)を注文していた。餡は高遠まんじゅうの老舗・亀まんの餡を使っているとのこと。南箕輪村産の白毛もち米を使ったくるみ餅は、あっさりした食べ応えがクセになる味とのこと。かつて伊那地方で栽培されていた古代米「白毛もち米」は、背丈が高く穂が白髪のように長いことからこの名がつきました。
因みに国道152号線との交差点、高遠公園下近くの高砂橋の袂に「高遠そば」のポスターが貼られたお店は「入野屋」があります。こちらは、会津に「高遠そば」として伝わった食べ方を平成9年から高遠でも復活させたものです。
入野屋では薬味とともに、辛味大根の絞り汁にかつおダシを加えたそばつゆとともに味わうスタイルです。のど越しもよい風味豊かな二八そばが楽しめます。
城下町を散策することにします。高遠には花見とともに訪れるにふさわしい、由緒に富んだ寺院が横町を中心に数多く点在し、寺の数は23を数え、寺の町であることを物語っています。気ままに細い路地をたどれば、昔ながらの石垣が続く民家や角に立ち道祖伸など、温かな風景に出会えます。
まずは城下町の入口に鎮座するのが、赤門が印象的な高遠城の守護神として歴代領主の厚い信仰を受けた神社「鉾持神社」です。急な階段が天に登りつめるかのように続いていて、なんと石段の数は321段です。奈良時代の養老5年(721)に創建され、当時の領主であった小治田宅持が高遠の西に聳える権現山に、熱海の伊豆神社、箱根の箱根神社、静岡県三島の三島神社の分霊を祀り勧請をしたのが始まりです。平安時代の安和2年(969)に往時の歌人で三十六歌仙のひとり、信濃守源重之が伊那郡笠原の庄に遷座するが、その後元暦元年(1184)に幕府から郡代として高遠に派遣された、日野喜太夫宗滋が現在の地に遷座しています。
文治元年(1185)笠原の庄整備の折、地中から「霊鉾」がでたため、ご神体として祀り、高遠城の守護神として鎮座してきたことから「鉾持神社」と名付けられました。三つある本殿のうち、伊豆神社と箱根神社が、一間社隅木入春日造、こけら葺き、三島神社は一間社流造、こけら葺きです。現在の本殿は、安永3年(1774)に再建されていて、赤門は透かし塀で、江戸時代元禄年間に創建、切妻、銅板葺、腕木門、間口一間のつくりです。
次に向かった大宝山「建福寺」は高遠城主であった武田氏と保科氏の菩提寺として古くから栄えたお寺です。武田勝頼が出した朱印状が伝わるほか、勝頼の生母である諏訪御料人のものと伝わる位牌や墓があります。開山は安元2年(1176)に平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した文覚上人が、現在の本堂の裏手にある「独鈷の池」のあたりを訪れ際が始まりと伝わります。その後、鎌倉の建長寺を開山した大覚禅師が立ち寄った際に、鉾持山乾福興国禅寺を建立し隆盛しますが次第に衰退します。戦国時代になり武田信玄の庇護を受け、静岡の臨済寺から東谷禅師を招き妙心寺派の寺として中興され、大宝山建福寺となります。
境内の入口の急な石段を上りきった両側の覆屋内に高遠石工が並びます。高遠藩領内出身の石工は、高遠石工と呼ばれ優れた腕を持っていました。中でも地元高遠出身の守屋貞治は、稀代の名工といわれ、68年の生涯に336体の石仏を地元・高遠をはじめ1都9県(長野、群馬、東京、神奈川、山梨、岐阜、愛知、三重、兵庫、山口)に残し、また仏門に帰依していたことから「石仏師」と呼ばれました。
名石工であった守屋貞治が刻んだ石仏はほかの石工職人のものと比べても端正で繊細優美、「貞治仏」と呼ばれ、六地蔵・観音像といった名作が残ります。全国に名をとどろかせた高遠石工のルーツを偲ぶのにふさわしい場所です。
ここから300m先には「満光寺」がある。石段の上に高くそびえる立派な鐘楼門は遠くからもよく見える。高遠の町を見守る、満光寺鐘楼門は、科の木(別名:中国菩提樹)を使った鐘楼を兼ねた楼門。間口は四間、奥行きが二間半、牛窪流の大工、菅沼定次の作といわれ、延享元年(1744)の修復。禅宗様式を取り入れてあり、屋根には張りがあり、枡組が精巧、彫刻の技法が巧妙でひときわ美しい。明治32年(1899)に花火がもとで本堂と庫裡を焼失してしまいましたが、鐘楼門だけは難を免れました。
鐘楼には、かつて松本の鋳物師・田中伝右衛門が鋳造した鐘があったのですが、戦時中に供出されています。しかし門の安定を保つために同場所に石が吊るされていたといいます。現在見ることができる鐘は、昭和49年(1974)の満光寺開創400年祭事に復元されたものです。
満光寺の創建は天正元年(1573)、江戸時代高遠藩主となった内藤家の菩提寺となったため寺運が隆盛し、伊那郡の中心的寺・録所として、浄土宗の中心的役割を持ちました。天文4年(1739)年に再建されたときに、科の木を使い、善光寺に模した伽藍配置にして建てられたので、「信濃の科寺」とか「伊那善光寺」などと称され伊那郡一番の伽藍であったといいます。境内には樹齢数百年といわれる「極楽の松」と呼ばれる黒松があり、一目みれば極楽成仏できると言い伝えられています。
またさらに300m先には田山花袋によって発見された「島絵の墓」がある蓮華寺がある。
商業が盛んであったことを今に伝える問屋など商家の佇まいもまた、高遠ならではの町並みです。創業140年の上伊那を代表する酒蔵「黒松仙醸」も高遠町の街づくりに貢献しています。上伊那地域の東の穀倉地として城下には多い時で16の酒蔵がったというが、現在唯一つ伝統を受け継いでいる蔵元が「仙醸」である。創業は慶応2年(1866)16の蔵のうちのひとつ、広瀬家の酒蔵を買い取り、酒業を開始。黒松仙醸の黒松とは、初代当主の黒河内松治郎氏の名前に由来している。以来高遠に銘酒ありと言われてきたのである。
高遠土産の定番で、なんと400年以上前の天正年間(1573~1591)から伝えられ、高遠藩主の御用菓子として庶民にも親しまれてきたという名物まんじゅうが「高遠まんじゅう」です。こしあんで薄皮にはサクラと高遠城址の焼印が押され、良く見るとひとつ一つ店名が刻まれているのがわかります。町内で5軒の店で製造されていますが、高遠まんじゅうといえば「老舗 亀まん」です。
唯一亀の焼印が目印の亀まんは、明治初め、銭湯「亀の湯」で客に振舞っていた饅頭が話題となり、饅頭屋に衣替えしたのが店の始まりで、亀の湯から亀をとり「亀まん」と名付けられました。名代の亀まん頭は130年来、当時の作り方を忠実に守り、北海道産小豆を使った自家製の滑らかなこしあんで、上品な口当たりに仕上げています。