苔に覆われた白山信仰の拠点、白山平泉寺跡に眠る巨大宗教都市

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万年雪をたたえ、豊かな水をもたらす白山は古代から崇められてきた霊峰で、江戸時代には富士山・立山とともに日本三霊山と呼ばれました。美しい山の姿に神を感じて憧れる素朴な自然崇拝が白山信仰の起源です。霊峰・白山への憧れと古代の自然信仰が生んだ白山の頂上に続く祈りの道・白山古道の一つ、越前禅定道は、越前に生まれ、白山を開山し、白山信仰の祖とされる泰澄によって拓かれました。その起点に広がる福井越前馬場「平泉寺白山神社」の旧境内は国史跡の寺院跡として1300年の歴史ロマンを今に伝えています。発掘が進む土に埋もれ、苔を纏ったかつて栄華を誇った広大な境内では、日本では珍しい石で築かれた荘大な宗教都市の痕跡が次第に姿を現し始めています。絶大な力をもって栄えた中世・巨大宗教都市の栄枯盛衰の謎めく歴史にふれてみます。

JR東日本「大人の休日倶楽部」都市遺跡編で『宗教都市として日本最大級の遺跡が眠る白山平泉寺。ベールに包まれた残り99% 歴史の旅は想像力を元気にする旅でした。』と吉永小百合さんも都市遺跡の石畳を歩いています。

生い茂る緑の中に、歴史が静かに眠る福井県勝山市平泉寺。地名からもわかるように、かつてここには白山平泉寺がありました。明治の神仏分離・廃仏稀釈によって現在は白山神社として存在しています。歴史の始まりは、養老元年(717)越前の修行僧・泰澄が、女神に導かれ、禁足とされていた霊峰白山に初登頂を果たしたことによります。やがて泰澄のように霊験を得ようと修行僧が集まり、泰澄が女神と出会った池の周辺に堂宇が建ち並ぶようになりました。9世紀初めには白山山頂へ登拝する修行の道・白山禅定道ができ、平泉寺は白山信仰の越前国の拠点になりました。古くは『枕草子』にその雪山の美しさが語られ、武士の時代になって木曽義仲、奥州藤原氏など武将たちにも信仰されました。源義経が奥州逃避行の際に平泉寺に立ち寄ったのもその縁によります。

勝山城から県道132号を走る途中えちぜん鉄道勝山駅から車で10分、九頭竜川の支流、女神川に沿ってしばらく走ると、下馬大橋を渡ったところから、『日本の道百選』に選出されている約1km続く白山平泉寺旧参道が始まります。人々はここで馬を下り、身を清めたあと歩いてお参りしたそうです。入口の森を菩提林といいうが、実は林ではなく、林のように鬱蒼と茂った並木道です。左手に大師山、右に三頭山、そのはるかかなたに白山も望めます。

菩提林の杉木立に囲まれた旧参道を歩き出すと、舗装道路の脇に、木漏れ日を浴びて光る中世の石畳が現れます。それは多くの僧兵たちが念仏を唱えつつ九頭竜川から河原石を運んで約1000年前に整備されたものと言われています。途中にある二つの大きな岩は「牛岩・馬岩」とされ、牛と馬の姿になって道をふさいだといい、広大な白山平泉寺にある結界のひとつとされます。

車で来た場合、旧参道入口の駐車場に停めて歩くか、杉木立の中、舗装道路を走り歴史探幽館まほろば前の大杉裏手の駐車場に停めます。この大杉は天正2年(1574)の一向一揆で焼け残った7本のうちの一本なのです。写真奥の「と之蔵」は、名勝“東尋坊”ゆかりの坊院跡に整備された情報発信基地兼ソフトクリーム屋さんです。白山平泉寺の僧であった乱暴者の東尋坊を恨む僧たちが宴を催し、酒に酔わせて崖から突き落としたことから、その断崖絶壁を東尋坊と呼ぶようになったのです。ジャージー牛乳100%の手作りソフトクリームは、さっぱりとしながらも濃いミルクの味わいで、優しい口どけち後口の良さが評判です。

参道沿いには、天から同時に降ってきた「隕石」と伝わる二つの大きな石が祀られ、縁結びの神様として拝むようになった「結神社」があります。境内にある四十八社のひとつで、社前には“良縁絵馬”が奉納されています。良縁絵馬とは、大野市、勝山市のそれぞれ5カ所で購入でき、大野絵馬(左300円)・勝山絵馬(右300円)を一つに合わせて祈願する奥越前でしか手に入らない縁結びの絵馬です。

結神社の横には参拝者を出迎えてくれる常夜灯があり、その屋根石のずっしりと苔をのせる姿には驚かされます。

斜め向かい側には、室町時代に作られた開祖・泰澄大師の供養塔である五重の層塔がある「泰澄大師廟」があります。

泰澄は682年に越前国麻生津に生まれ越智山で修行し都でも活躍した後、晩年を越智山太谷寺に戻り神護景雲元年(767)86才で亡くなりました。

境内の石畳の参道は平泉寺のかつての隆盛を今に伝えています。かつてこの石段の坂から上へは魚や肉を持ちこむことが禁じられたことから「精進坂」の名がついたとのことです。また煩悩を断じ、身を清め心を慎むという意味もあるとか。石は九頭竜川の河川敷から僧侶が運んできたもので、登ったところにあるのが一の鳥居です。

一の鳥居から続く参道は杉の大木の間に延び、森閑とした境内に幽玄の趣が漂い、立ち止まると清浄な森の香りに包まれます。約1300年前に開かれ、白山信仰の一大拠点として栄えた白山平泉寺も今はひっそりと佇み、境内には空間を埋め尽くす苔、苔、苔・・・。石垣や灯籠、狛犬までも苔むして、京都の西芳寺に比して北陸の苔寺と呼ばれています。

鳥居をくぐった先の左手に「旧玄成院庭園」があり、一向一揆の焼き打ちにより灰と化した平泉寺を再興した江戸時代の平泉寺の中心的な坊院・玄成院の庭園で、今は社務所になっています。約500年前享禄年間に造られた枯山水庭園は北陸エリアで現存する最も古い庭園で、1530年室町幕府管領細川武蔵守高国が造ったと伝わっています。様式は枯山水で写真左隅の五重の石塔には永享6年(1434)の銘が刻まれています。

その先から左に折れると神秘的な気配が漂う「御手洗池」が見えます。曲がり角は見落としやすいので標識に注意して歩きます。今も清らかな水がとうとうと湧き出ているこの池が、伝説によると養老元年(717)に白山に向かう泰澄大師が発見した泉で、ここで祈ると白山の女神(伊邪那美命)が泉の中央の小さな影向石に出現し「早く登っておいでなさい」と告げたのです。その導きのおかげで頂上を極められたことから下山後に泉のそばに構えた庵がのちに平泉寺となり、山頂までの道が越前禅定道になったのです。この池は昔、平泉と呼ばれ平泉寺の名前の由来となっています。

池畔には泰澄が植えたと伝わる樹齢約1300年の御神木・三又杉がそびえ立ち、幹は途中から三本に分かれ白山の三山(大御前・別山・越南知)をかたどる形となっています。なんでも三つに分けるのが白山信仰の形式らしく、登山口も美濃馬場の長滝寺、加賀馬場の白山本宮、そして越前の平泉寺に分かれています。白山が三つの国にまたがり、三つの峰に分かれているので、自然にそういう形式を生んだのであろう。「馬場」の名が、初めて史上に現れるのは、平家物語の木曽義仲の願文で、そこから先は馬を乗り捨て、徒歩で登るのがきまりであったといいます。

二の鳥居から先は、めくるめく苔の世界です。

拝殿の前に至ると色鮮やかな苔の緑のじゅうたんがふかふかと一面に広がっています。苔の絨毯が美しいと有名な平泉寺白山神社は、作家の司馬遼太郎が、“京都の苔寺の苔など、この境内の規模と質からみれば、笑止なほどであった”『街道をゆく越前の諸道』「冬ぶとんを敷きつめたよう」と絶賛したように、まさにそのとおりな風景に思わず癒されます。かおり風景百選にも選ばれている苔の世界がそこにあり、苔と日差しのコントラストの鮮やかさが訪れる人を魅了しています。境内の苔は200から300種類もあるといわれ、緑のグラデ―ションを織り成しながら、生命力あふれるみずみじしい景色を見せてくれています。

拝殿は江戸時代の絵図に「三十三間拝殿」と描かれていてかつての拝殿があった礎石の一部が左右に残っていて、間口が約80mと巨大な建物であったことが伺えます。

正面の額には「中宮平泉寺」とあります。

拝殿後の石垣はみどころで3mを超える大きな石を使って積まれています。弘治年間に平泉寺の有力な院坊であった飛鳥井宝光院と波多野玉泉坊が競い合って積んだといわれています。

裏の石垣の上には3つの頂がある白山のそれぞれの神を祀る社が並んでいます。真ん中の御前峰である本社は寛政7年(1795)に第12代福井藩主松平重富により再建されたもので見事な昇り龍と降り龍の彫刻が見事です。左に大汝峰の越南知社、右に別山の別山社が並んで鎮座しています。

拝殿から右に鳥居をくぐった先には上り坂と階段が続き、旧境内の最奥部に鎮座する、安産の神様を祀った小さな社「三の宮」があり、この裏手から越前禅定道が始まります。白山山頂までは直線距離で約30Kmあり、岩場や滝など難所続きの険しい修行場であいた。どれだけ多くの修行僧がここから白山を目指していったのだろうかと思いを馳せてみます。

三の宮の手前には、南北朝時代に活躍した楠木正成の供養塔があります。この「楠木正成墓塔」は白山平泉寺で修行していた正成の甥・恵秀が建立しました。

戻り道は少し迂回して中世の石畳や石垣が発掘された「南谷史跡公園」内を見学していきます。平安時代後半に比叡山延暦寺の末寺として権威をふるい、中世には48社、36堂、6千坊が立ち並び北陸有数の勢力を誇り、戦国時代には寺領9万石、僧兵は8千人を超え、伽藍を中心とした巨大な宗教都市が造営されていました。現在の白山神社に伝わる室町時代後期を描いたものとされる古い絵図『中宮白山平泉寺境内絵図』を見れば、伽藍両側の北谷・南谷にたくさんの僧侶の屋敷が並んでいて、その数6千坊ともいわれています。

平成元年(1989)から発掘調査が始まった南谷発掘地は中世宗教都市としては国内最大級の遺構で、平泉寺6千坊のうち3600坊があり、川原石を敷き詰めた石畳道、土地区画の土塀や石垣が見つかり、計画的に配置された僧坊跡からも石の宗教都市だったことがわかります。日本遺産「400年の歴史の扉を開ける旅~石から読み解く中世・近世のまちづくり越前・福井~」にも認定されています。

坊僧の門と土塀が復元され、史跡の整備が進められています。2013年に完成した門は高さ約4m、幅2.7m、土塀の高さ約1.8m、全長約33mあります。

泰澄の白山登頂をきっかけにほかにも白山に入って修行する人が現われたことで山頂へと続く山岳修行の登山道が形づくられていきます。そのルートは「禅定道」と呼ばれ加賀・美濃・越前を起点とする3つがあり、平安時代末期には「三馬場」と呼ばれ、白山信仰の拠点となっていました。福井県の白山平泉寺を起点とする「越前禅定道」、石川県の白山比咩神社を起点とする「加賀禅定道」、岐阜県の長滝白山神社を起点とする「美濃禅定道」があります。この三馬場つなぐ白山の象徴である“白”を“プラチナ(白金)”にかけたプラチナルートでめぐってみませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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