
多摩川の渡河地点を抑えるため、多摩川と秋川の合流点の南、東西に長く連なる加住丘陵上に構築された連郭式平山城が「滝山城」です。関東の覇者、小田原北条氏三代北条氏康の三男氏照によって永禄10年(1567)までに築城されたと考えられ、北側は多摩川が削った70mほどの高さの崖になっており、この地形を利用して、丘陵の連なる東、南、西の三方に大小多数の曲輪を配し、辺縁部には膨大な空堀を巡らせています。武田信玄の攻撃にも耐えた堅城でしたが、氏照は甲斐を重視して天正15年(1587)までに八王子城に移り、その後廃城となりました。空堀や土塁など、城の遺構が良く残り「続日本100名城」に選ばれていて、北条氏の築城術が随所に残る日本を代表する中世城郭の最高傑作、滝山城を訪れます。写真は伝統芸能・八王子車人形を描いたご当地マンホール
滝山城は大永元年(1521)に武蔵守護代大石定重が築城。その後関東の覇者・北条氏3代目である北条氏康は、関東各地の勢力に対して自分の子どもたちを養子として送り込み、そのままその地域を取り込むことで、さらに領地を拡大していきました。多摩西部地域(由井領)を領有する関東管領上杉氏の重臣・武蔵守護代の大石綱周には永禄2年(1559)三男・北条氏照を養子に入れます。北条氏照は当初「浄福寺城(由井城)」に居住し、その後永禄10年(1567)までに本拠地として滝山城を大改修して移転したと考えられています。
当時の交通、流通に重要な役割を担ったのは、荷物の運搬や人の移動が速くできる河川で、滝山城はその大動脈である多摩川に面した加住丘陵にあります。加住丘陵は東西に長く、谷地川を境にして南北に分かれ、滝山城はその北丘陵の突端付近にあり、標高169mの地点に本丸を置きます。北は多摩川に浸食された急峻な断崖、南は谷戸が入り組んだ複雑な地形になっていて、丘陵の南麓には滝山街道が通り、鎌倉街道と交差します。こうした地形を利用した滝山城の特徴は、「二の丸の集中防御」です。「二の丸」には3つの尾根が集中しており、全ての登城ルートは空堀を巧みに入り組ませて通路を屈曲させ、各々虎口には枡形や「馬出」といった防御施設を設け、さまざまな箇所から侵入しようとする敵兵を側面から攻撃できるような仕掛けで、二の丸には敵を絶対入れさせないという堅固な構えになっています。永禄12年(1569)10月2日の武田信玄の攻撃に際しても「二の丸」までで撃退しています。
JR八王子駅北口からバスで滝山城址下で下車。滝山城跡入口の看板に従って住宅街に入って行きます。登城口から城内に入るまでは少し坂を上りますが、一旦丘陵上に上れば、城域は東西900m×南北約1kmと広大ですがほとんど城内は起伏がなく、整備もされており歩きやすい。
バス停近くから大手口と思われる天野坂からの堀底道は、城兵が効果的に攻撃できるように工夫されています。左手が小宮曲輪、右手が三の丸で、その間に枡形虎口が設けられていたと考えられます。
小宮曲輪は氏照の家臣の中で重要な兵力であった西多摩秋川流域の小宮領に在住する武士たちが駐屯していた曲輪です。千畳敷、三の丸の外側にある曲輪で、本丸とは多摩川に流れ込む谷を隔てた位置にありいます。小宮曲輪外側の堀は城郭を囲い込むように設けられた大規模な横堀の一部で、滝山城は、このような長大な横堀により線状に防御を構築する中世城郭です。小宮曲輪の堀は何度か屈曲を繰り返し曲輪外壁に取り付いて攻め込こうとする敵に死角を作らない構造になっています。北側の山の神曲輪方面から小宮曲輪へと攻め込むには小宮曲輪のさらに北側に枡形虎口を設け、敵が狭い通路を一列縦隊にならざる得ないようになっている。写真は虎口
三の丸は滝山城の南側を守る台状の構造で、三方を空堀で囲まれ、四隅に張り出しがある。当時はもっと堀が深かったと考えられますが、現在でも堀底から三の丸の台上までは15mほどもあり、堅牢な守りであったと想像できます。写真は三の丸南側横堀
この先は、強力な側面攻撃ができるように工夫されたコの字型土橋。堀を掘る際に、一部を土のまま残して通路として使う場所を土橋といい、この場所の土橋は、左右から伸びた空堀を食い違わせ、その間を掘り残す形で造成しています。当時はもっと狭く、敵方の主郭部への侵攻に対して直進を防ぎ、狭い通路を4回も進行方向を変えて進ませ、千畳敷からの側面攻撃ができるように工夫した城郭遺構です。
虎口の前方に設けられた空間を馬出といい、この場所の馬出は方形に作られていることから「角馬出」と呼ばれています。馬出があることで守備する城兵の出撃と収容を安全に行うことができ、大変堅固な守りとなります。馬出による防御は戦国時代の東日本に特徴的な築城術のひとつで、北条氏は「角馬出」を好んだという説もあります。
二の丸は中の丸の南側にある曲輪で、西・南・東の三方にはそれぞれ外側に馬出、内側に枡形も設けた厳重な造りの虎口があります。二の丸はすべての尾根が集まったところに作られていて、敵の攻撃を防ぐための集中防御が施されています。この付近には櫓台の跡があり、櫓からは、カゾノ屋敷、大馬出、三の丸の三方向からの敵に動向を把握していました。厳重に防御がなされていることから、北条氏照が滝山城中枢部を防御する曲輪として最も重要視した曲輪です。写真は二の丸南側の横堀。二の丸は折れを伴い、高低差をつけています。
二の丸東側の堀を挟んで通路状の帯曲輪は両端が狭い土橋になっていて、ここに侵攻してきた敵は行き場を失い、二の丸からの反撃にさらされます。二の丸東の馬出(大馬出)は、周囲を土塁と空堀で囲んで独立性を確保し、本丸へ向かう重要な虎口を守る馬出として大変堅固な守りとなっています。二の丸から中の丸、本丸へ向かう通路の中の丸南側には、土塁の残り方から櫓門があったと考えられています。この場所は三方向の通路から攻め寄せた敵が合流できる場所であり、中の丸や本丸へ向かうためにはこの土橋を渡るほかないため、土橋の前面の土塁を守る防御設備がが必要でした。そのため、中の丸や二の丸側に横矢(櫓)を作り、土橋にいる敵を横矢掛けしたとされます。写真は二の丸南側の横堀や土橋
写真は中の丸(左)と二の丸(右)の間にある空堀。
中の丸虎口
中の丸は東西約70m、南北約100mの広さがあり、かつての滝山城では、最重要の政庁施設があったと考えられています。守りも非常に硬く、東に9mの深い空堀、北には70mの高さの断崖、南には15mの深さの空堀と、3つの馬出をもつ「二の丸」を擁していて、本丸に比べて規模も大きいことから、北条氏照が大石氏から城を譲り受けた後に大規模な改修で完成させたともので、本丸より時代が新しい。写真奥の建物に続100名城スタンプと御城印購入希望書が置かれています。
本丸の東側に位置する中の丸の北側山麓には、多くの腰曲輪が設けられており、北側の多摩川方面に対して警戒していました。滝山城の東には河越道の多摩川の渡河地点である「平の渡し」があり、この重要な渡河地点を抑えることが滝山城築城の一因と考えられます。写真は中の丸より北側の眼下に広がる多摩川を望む。
本丸と中の丸の間の大堀切に架けられた引き橋を渡ります。当時の地表面は現在より約1m低く、木橋は現在よりも下に架けられていました。中の丸に敵が押し寄せてきた際には、木橋を本丸側へ半分程引き込むことで敵の侵入を防いだと考えられています。
本丸は上下2段からなる曲輪で、城主北条氏照の居館があった場所とされる。本丸周辺は小規模な曲輪で構成されており、中の丸より外側の曲輪とは規模が異なることから、この周辺は滝山城の中でも比較的古い形態を残しています。本丸上段にある金毘羅社は江戸時代に祀られた神社で、多摩川で水運に従事していた人々の信仰を集め、滝山城北側の滝村が管理していました。滝村側からの登城路は搦手とされ、この進入路を防御するため出丸と本丸からの挟み撃ちができるように工夫しています。
本丸下段には、明治45年に日露戦争戦没者慰霊として建立された霞神社が鎮座しています。
本丸の立つ石標
本丸には主だる虎口が2ヶ所あり、1カ所は東側の中の丸から引橋を渡って入る桝形虎口。
もう一カ所が南側に設けられた枡形虎口です。南側の虎口は、右の屈曲して本丸に出入りする構造で、もし敵がこの枡形に侵入すると、体の左側から城兵の攻撃を受けることになります。
本丸と中の丸を隔てる人工的に掘られた巨大な空堀(大堀切)。この堀はもともとここを通っていた鎌倉道を人力によりさらに深く掘り込んだもので、当時はもっと深かったもとが確認されています。唯一尾根続きのこの場所は、滝山城の弱点と考えられ、防御は厳重を要しました。架かる木橋は引き橋として、本丸が最終的な砦となっていました。橋の下の堀は大池の土手とつながり、一大防御線を考えた縄張りになっていました。
八王子エリアは甲斐(山梨県)との国境に近く、武田信玄との歴史的な舞台になった城も多い。永禄12年(1569)武田信玄による関東侵攻の際には滝山城は攻撃を受けました。この時の経験から北条氏照は、甲州との国境に近く、火縄銃を用いた新しい戦いに対応できるような城を築城しようと考え、天正12年(1587)から天正15年(1587)の間に本拠地を滝山城から八王子城に移しています。天正18年(1590)小田原合戦では、八王子城は家臣に守らせ、自身は小田原城の籠城も兄氏政ととも切腹。八王子城も攻略されました。
「戦国最後の山城合戦の舞台、関東屈指の山城「八王子城」へ」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/10478