青森県のへっちょ(へそ)と呼ばれる黒石には、「日本の道100選」にも選ばれた町なかに木のぬくもりを感じることができる雪国ならではの思いやりの道があります。「こみせ」、「雁木」とも呼ぶ雪よけの木造りアーケードといううれしい仕掛けがあり、庇の下を歩けます。重要伝統的建物群保存地区に選定されている「中町こみせ通り」は、古い酒蔵、商家といった築200年以上の歴史ある建物が軒を連ね、江戸時代の情緒があるほか、銭湯を改装したカフェなどがあり、新旧とりどりの温かな風景が残されている、津軽地方の素朴な町並みです。またご当地グルメ「黒石つゆやきそば」も有名です。弘前からひと足のばして、見ても楽しい、食べても美味しい、昔ながらの暮らしを大事にしつつ今という時代にもしっかり合った小さな歴史町・黒石を訪ねてみました。
JR弘前駅構内にある弘南鉄道弘南線弘前駅から黒石駅を目指します。青森県の最高峰「岩木山」を背景に、田んぼの中を走ることから「田んぼ鉄道」の愛称が付けられています。昭和2年(1927)開業で全長16.8km、駅数13駅、乗車時間35分です。車両は元東急7000系が使用されています。
現在の黒石の町の基礎が築かれたのは、後に黒石藩となる黒石津軽家が、明暦元年(1655)、弘前藩3代藩主・津軽信義が急死したため翌年の明暦2年(1656)、彼の子供である信政が4代藩主となり、先代の弟・十郎左衛門信英が後見役とされ、5000石を分知されて陣屋を築いたところまで遡ります。それ以前の黒石には、鎌倉時代末期から南北朝期にこの地を領した工藤氏が築いた黒石城がありました。戦国時代には目まぐるしく領主が代わり、城も修築されたこともありましたが、慶長15年(1610)城は取り壊され、弘前築城の資材にされました。信英は、まず街道を整備し、文治以前からあった町並みを基に新しい町割りを行いました。津軽の米どころという地の利を生かした酒造業をはじめ、雪除けの庇が連なるこみせ通りが、酒蔵、米屋、呉服屋、質屋、旅籠などが並び立つ活発な経済町に発展していき、これが現在の黒石の基礎となっています。
町並みを特徴づけているのが、道路から母屋を下げて建て、その分町家の軒先からひさしを長く張り出し、その下を通路として提供した“こみせ”です。今風に言えばアーケードですが、木のぬくもりを感じるられるところが魅力です。大雪が降った日でも町を行く人が難儀しないようにという、雪国に住む人の温かい思いやりにほかなりません。建物の戸には格子がはめられていて、そこから光を取り入れていて、外を歩く人からは、中が見えにくい。冬の間は外側の柱と柱の間にガラス戸をいれる場所もあり、こみせに雪が吹き込まないように「しとみ」という板を入れ、雪の侵入を防いでいます。
黒石観光案内所で「黒石まちなかマップ」をもらって出発です。町の中心“中町こみせ通り”までは歩いて10分ほど距離です。まずは「松の湯交流館」へ。長年銭湯だった「松の湯」は、こみせの松の木とともに長い間人々に深く愛され賑わい親しまれてきました。建物は半世紀、松の木は樹齢約350年。屋根を突き抜けた松の姿が印象的な元銭湯は、約25年前に終了し、平成27年(2015)に松の湯交流館として生まれ変わりました。
当時使われていた懐かしいロッカーや体重計、脱衣かごが賑わいを見せた面影を連想させます。女湯の浴槽をそのままに、ライオンの湯口や番台など元銭湯の意匠がそのまま残っている情報ブース「黒石インフメーション」でホットな観光情報を入手して、まちの散策にでかけます。
中村亀吉酒造は、もともとは米問屋でしたが大正2年(1913)この地区で当主中村亀吉により創業。こみせ通りを歩いていればすぐに目につく酒林は、直径1.1間(約2.1m)、重さ400貫目(約1500kg)は日本一と言われています。酒名は「玉垂」は、弘前本行寺の住職が座禅を組んでいた時に、岩からしたたり落ちる水滴の甘美さに心を打たれたという故事にちなんでいます。辛口の「亀吉」も人気商品で、当主だった中村亀吉の名前から名付けられました。長年に渡り酒造りの名工といわれる津軽杜氏によって大切に造り続けられています。昭和61(1986)NHK大河ドラマ「いのち」津軽ロケの際は、当家を舞台に撮影が行われました。
高橋家住宅は、代々理右衛門を名乗る黒石藩御用達の商家で、米穀、味噌や醤油、塩などの製造および販売などをしていましたが、主に米穀を扱ったことから屋号を「米屋」といいます。宝暦13年(1763)ごろの築270年の建物は、昭和48年(1973)重要文化財に指定された建物は、津軽地方の典型的な商家構造で、切り妻造り妻入で、前面にこみせ、出入口には吊り上げ式大戸、しとみ戸や戸障子、通り土間などがよく保存されています。「月見の間」からは中秋の名月の時に窓の中央に満月が見えるように設計されています。
創業文化3年(1806)の鳴海醸造店は、南八甲田の伏流水から湧き出た敷地内の井戸水、豊かな田園から厳選された酒米、伝統の技によって生まれた黒石を代表する酒蔵です。当主は代々鳴海文四郎を襲名し、江戸時代、屋号は「稲村屋」とし銘酒・菊乃井などを販売しています。「菊乃井」の名は2代目が菊の花を愛し、菊の芳香を酒に取り入れるべく搾りの際に槽口に菊の枝を置いたことに由来します。
鳴海酒造店の庭園は、※大石武学流の作風を伝える日本庭園のひとつで、明治20年(1887)に3代目文四郎の求めに応じて、大石武学流の4代目宗家のひとり小幡亭樹と、その弟子・池田湖月によって作庭されました。居間の沓脱石から飛び石がV字型に配置され、一方は池に面した礼拝石、他方は右手の離れつくばいへと延びています。造園史上の意義は深く、同時代に属する類型の中でも特に意匠または構造面の大石武学流の特徴となる造形を良くのこしています。
昨今ご当地焼きそばが注目を集めています。各地様々な特徴があるが、その中で黒石市は焼きそばの町として知られ、「黒石やきそば」の麺はダントツに太い。平打ちの極太麺はしっかりとした食感で、具は少なめの男の骨太の焼きそばというイメージです。うどんの乾麺になじんできた食生活から、うどんの醤油炒めが長らく当地の「焼きそば」だったため、戦後ウスターソースで焼きそばを作るようになったときも、うどん用カッターで製麺した太平麺が採用されました。
その黒石やきそばには「つゆやきそば」というジャンルが存在します。これは黒石やきそばに和風だしや中華スープをかけたものが「つゆやきそば」となり、全国的にも珍しい食文化です。発祥は昭和30年代後半、学校帰りの中高生用に、冷たくなった焼きそばにそばつゆをかけたのがきっかけという説が有力です。そのそばつゆをかけた「美満寿」は閉店しましたが、復活したつゆやきそばは今や黒石の名物となっています。醤油とソースの味のバランスが命の料理で、最初は「ソースと醤油が混ざってどうなのか」と思うのですが、食べてみるとその不思議な味わいに、徐々にひきつけられます。今回大きなブームになる前から、つゆやきそばを提供している数少ない店のひとつ「すずのや」でいただきました。だしの効いたスープとソースの酸味とが絶妙なバランスで、スタンダードな味とのこと。揚げ玉とネギも必須のアイテムでいい仕事をしています。
※大石武学流の庭園は、江戸時代末期から明治・昭和期にかけて、冬期間に地域の人々の生活を保障することを目的に豪農が造成したという青森県津軽地方独特の庭園文化です。発祥は三説あり、野本道元の流れとするもの、藤原忠長の流れとするもの、津軽藩主9代寧親の命によるものです。大石武学流には宗家と呼ばれる、流儀の真髄を極め、更新を指導して流儀を伝承する存在がいて、現在まで継承されています。まお宗家としての活動が明確に確認されているのは、明治期の高橋亭山以降になります。
黒石市には鳴海氏庭園以外にも黒石の大地主で貴族議員も務めた政治家・実業家である加藤宇兵衛の別邸、いわば迎賓館として築かれた大石武学流の庭園「金平成園」があります。宇兵衛の求めに応じ、明治25年(1892)に高橋亭山が着手し、小幡亭樹と池田湖月らが跡を継ぎ、明治35年(1902)に完成しました。庭園の名称は「万民に金が行き渡り、平和な世になるように」という宇兵衛の願いから「金平成園」となりましたが、加藤家の屋号・「澤屋成之助」かえあ「澤成園」とも呼ばれています。
敷地が約1700坪ある園内には3つの池を囲んで、守護石、遠山石、野夜灯などが設置され、初期の大石武学流庭園を理解する上で貴重な庭園の一つとされています。津軽地方独特の築庭流儀を見て回るのも面白いですよ。12月~3月は閉園