往時の風情と歴史が息づく城下町!会津若松で旅情を感じる

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幕末の激動の歴史を刻む会津藩の城下町・会津若松市。一人でも二人でもグループでも、何度もリピートしたくなるほど旅を満喫できる町です。古くから城下町として栄え、由緒ある寺社や史跡が点在。名城・「鶴ヶ城」を皮切りに「白虎隊」ゆかりの「飯盛山」と山腹の観音堂「さざえ堂」、さらに「新選組」激闘の地である如来堂、「野口英世」など、歴史好きにはたまらないスポットやエピソードにあふれています。さらに地酒、そば、馬刺しなど名物があり、お酒や和食好きにはうれしい美食の地という一面も。会津若松の奥深い魅力に触れてみましょう。

会津の盛衰を刻んだ歴史舞台。桜の海に浮かぶ白壁と赤瓦の鶴ヶ城」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/?p=18691&preview=true

鶴ヶ城を語るときに欠かせないのは白虎隊。鶴ヶ城の北東約3kmの位置にある小高い山が飯森山で市街地を一望できる景勝地です。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、退却してきた白虎隊が、城下から立ち込める煙に包まれた鶴ヶ城を見て落城したと思い自刃した場所としても有名。白虎隊十九士の墓がある飯盛山へは会津若松駅から市内を巡る「まちなか周遊バス」が便利。時計回りの「あかべぇ」と半時計回りの「ハイカラさん」があり、1乗車210円、1日フリー乗車券600円です。写真はマスコットキャラクター「あかべぇ」のラッピング「あかべぇ」

飯森山に行く前にこの時期おすすめが飯守山入口交差点から歩くこと15分のところにある大河ドラマ『八重の桜』のオープニングで全国区になった「石部桜」です。中世に会津一帯を治めた葦名氏の重臣・石部治部大輔の屋敷の庭にあったと伝わる、樹齢約660年のエドヒガンザクラです。

スケールが大きく力強い桜で、樹高は約11m、胸高周囲0.5mから2.2mの10本ほどの幹から成り、堂々と広げた枝張りが20mにも及ぶ姿は圧巻です。江戸時代から名木として知られており、花が満開の時期には、藩主をはじめ多くの人が訪れずれた。また五代藩主松平容頌は、桜を保護するために周囲に柵をめぐらせており、その様子が幕末に描かれた城下絵図に描かれています。

飯盛山参道近道まで戻る。16歳から17歳の武家の男子で構成された会津藩の少年隊の一つが白虎隊。本来は会津藩によって組織された予備兵力でしたが、戊辰戦争に巻き込まれ、防衛拠点の守備に投入され、前線での戦闘に身を投じます。慶応4年(1868)8月22日、白虎隊士中二番隊42人は藩主松平容保の近衛兵として滝沢本陣に出陣。途中前線からの応援要請を受け、戸の口原へ向かいます。滝沢本陣は、目の前に旧白河街道が通り、参勤交代や領内視察などの際の藩主の休憩所であり、戊辰戦争では本陣が敷かれました。旧滝沢本陣には、藩主の使った御座の間、上級武士の使った御次の間が当時のまま残ります。柱や襖などには新政府軍による弾痕や刀傷が残されており、当時の壮絶な戦いの様子がうかがえます。

本参道を上る途中、会津の歴史を知る石部桜とともに会津二大老桜のひとつ「太夫桜」を鑑賞していきます。白虎隊記念館脇の斜面に立つ太夫桜は、樹齢300年、高さ約13m、周囲5.5mのエドヒガンザクラです。寛永3年(1626)が蒲生忠輝在城の頃、若松城下の堀江町にいたいつき太夫という名妓が花見のおり、この辺で凶徒のために殺害されました。弟の滝沢南岳院の南秀法師がこれを大変悲しみ、墓側に死を惜しんで植えられたもので、現在の樹は二代目と伝わる。

奥州会津飯盛山本参道と書かれた石柱のあるの鳥居をくぐりなだらかな坂道を上がります。

坂道を上がるとチイサナ池とその前に洞窟が見える場所に来ます。ここは「戸の口堰洞穴」と呼ばれ、猪苗代湖北西岸の戸の口から会津盆地へ水を引く用水堰で全長31kmに及ぶ。元和9年(1623)八田野村の肝煎八田内蔵之助が開墾のため私財を投じ寛永18年(1641)八田野村まで通水、その後天保3年(1832)に会津藩によって大改修を行い、この時に眼前の弁天洞穴(150m)を掘り同6年(1835)完成しました。戊辰戦争時、戸の口で敗れた白虎隊士中二番隊20名が飯森山に辿り着いた時に潜って利用した抜け道だといいます。この話は自決後蘇生し昭和まで生き延びた旧白虎隊士飯沼貞吉氏の回顧録によります。

戸の口堰疎水を渡り短い急な石段を上がると、白虎隊十九士の霊を祀る宇賀神社の前に特徴的な建物「さざえ堂」が現れます。江戸時代後期の寛政8年(1796)に建てらえたといわれる高さ16.5m、回廊の付いた六角三層の仏堂です。正式名称は「旧正宗寺三匝堂」といい正宗寺の住職であった僧郁堂が考案しました。郁堂和尚が、二重こよりの夢を見て、そこから着想を得たと信じられてきたとか、享保5年(1720)の洋書解禁により、秋田藩に伝わったレオナルド・ダ・ヴィンチが設計に関わったとされる、フランス・シャンポール城の二重螺旋階段のスケッチ画を郁堂和尚も目にしヒントになったという説があるとのこと。

二重螺旋スロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるつくりになっています。江戸初期、一般庶民に伊勢参りや西国三十三所めぐりが流行り、会津の人たちも、遠路はるばるお参りにでかけたが、会津藩祖・保科正之は多額の費用が領外へ流出することを案じて巡礼を禁止にしました。その代わり会津に巡礼地をつくり、域内各地に三十三観音ができていきました。

観音像は明治時代の神仏分離令により取り外され、現在は松平容敬が編纂した会津藩の道徳の教科書と言われる「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられています。

力強く波打つ彫刻に龍が巻き付くという造形のさざえ堂入口にから拝観します。正面から螺旋状に右回りで上り、頂上の太鼓橋を越えると左回りの下りスロープになっていて背面出口に通じるという上りと下りが別の通路になっている構造により、参拝者がすれ違うこと無く参拝できる世界的に珍しい建築様式です。その名の通り、さざえ貝に似た外観で横から見ると渦巻く通路の様子がよくわかる。

さざえ堂の奥から白虎隊墓所へと向かいます。参道を歩く事約1分、墓所のある山頂に到着です。鶴ヶ城に向いて1列に並ぶ19士の墓。名前の上に刻まれた「自刃」の文字が生々しい。当初は新政府軍の規制により埋葬もままならなかったが、明治2年(1869)になって墓が作られました。十九士の墓には絶えることのない線香の匂いが少年らの無念を語り継いでいます。秋篠宮紀子妃殿下の曾祖父の兄やソニー創始者井深大氏の祖父の弟がここに眠っています。

最後に墓所から少し先にある白虎隊士自刃の地跡へ。新政府軍の攻撃により「もはやこれまで」と覚悟した19人が飯盛山で自刃しました。今は自刃の地から見る鶴ヶ城はビルに埋もれ、戦火にまみれた当時を想像することは難しいです。写真は飯盛山から激戦にさらされる城を見る白虎隊の像。

河東町に復元された会津藩の教育の振興の中心となった「日進館」は、享和3年(1803)に設置され、江戸時代全国に300あった藩校の中でも規模、教育内容ともに随一といわれた藩校です。保科正之から続く松平家の時代に武士の掟がつくられ、白虎隊もここで「ならぬことはなりませぬ」の精神を学びました。

「ならぬことはならぬ」この言葉はかつて会津藩の子供たちが礼儀・道徳を学ぶために掲げていた藩士心得「什の掟」の一節。その教えは形を変えながら、いまも会津の人々に脈々と受け継がれています。質実剛健の心を育む武士の町へ。強くて美しい日本に会いにでかけませんか。大人の休日倶楽部福島県「松平家の歴史編」で吉永小百合さんが“会津藩の面影が残る城下町、会津若松。清く、正しく、たくましく、武士の道はいまもまっすぐのびていました。”と弓道を体験されていました。写真は吉永さんが子供たちと挨拶しあった日進館・南門

昼食を兼ねて古い蔵や商家を生かした店が連なる城下町のメインストリート・七日町通り(旧越後街道)へ。藩政時代には、城下の西の玄関として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねていました。蒲生氏郷のもう一つの功績が、この地にさまざまな産業を根づかせたことです。楽市楽座で賑わう安土や岐阜の市街をまねて造られた町には、会津漆器や酒造りがそうで、かつて毎月7の付く日に市が立ったことから名付けられた七日町周辺には伝統を受け継ぐ店が多い。どちらも盆地特有の湿潤な会津の気候風土が適していたからこそ発展したといいます。七日町通りはJR七日町駅前から東に延びる約800mの通りことで、土蔵や洋館が並ぶ町並みはそこはかとなく大正ロマンの香りが漂い、みやげ屋やカフェが軒を連ねます。武家屋敷や町家が並ぶほかの城下町とは一味違う歴史散歩が楽しめます。駅から七日町通りを10分ほど歩き、大町四つ角を右手に曲がると野口英世青春通り。医聖と呼ばれた野口英世が青春時代を過ごした通りです。

ルネサンス様式を取り入れたレトロな建物は、会津漆器を扱う白木屋で、江戸・享保年間から漆器の製造販売を手掛けています。大正3年に竣工した店は、まるで博物館のような佇まい。洋風の外観でありながら土蔵造りであるのも面白い。1階には売り場のほか、資料館もあり会津塗について学べます。雰囲気のある2階の売り場では、珍しい漆塗りの御朱印帳がありました。なんと7700円

漆器や桐といった会津の伝統工芸品以外にも味噌田楽やソースカツ丼、カレー焼きそばなど会津ならではのご当地グルメが食べられる店も多い。会津の味噌の歴史は、貞享2年(1685)編纂の『会津風土記』の「甲賀町覚書」によれば、町内家業28種類が挙げられていて、その中に「味噌屋6軒」と記されていて、これが会津の味噌販売業の始まりとされています。ちなみに甲賀町というのは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命で会津に移封されたとき、近江・日野から連れて来た職人や商人たちの住む町としてつくられ、「日野町」と呼ばれていたそうです。300年以上の伝統を誇る会津の味噌の特色は、いわゆる「赤味噌」です。会津の味噌は、大豆と米糀と塩を原料としていますが、時大豆をたっぷりと米糀の割合が少なく、そして塩と地元のきれいな湧き水を仕込んで、厳しい冬を寝かせます。じっくりと熟成が進むほどに、会津伝統の「赤味噌」へと仕上がっていきます。熟成期間が長いと色は赤く、味の濃い辛い味噌ができる。これが一般に赤味噌と呼ばれ、会津味噌の主流です。

天保5年(1834)創業の味噌専門店・満田屋では、味噌や会津高田梅の梅干しなどのお土産のほか、味噌蔵を改造した店内の一角に、郷土料理の味噌田楽の店を設けています。

丸餅、コンニャク、里芋、身欠きニシン、豆腐生揚げなどに、伝統的な味噌をベースに山椒やじゅうねん(エゴマ)、柚子など薬味を利かせた味噌ダレをたっぷりつけ、囲炉裏の炭火で1本ずつ焼き上げる。柚子や山椒などの風味がついたタレも素材を引き立て、次の一本が待ち遠しい。味噌の焼ける香ばしいにおいが店内に流れる贅沢な一時です。

春の到来とともに見どころもグルメも話題満載の会津若松は花見に行くだけではもったいない。

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