戦国時代に美濃は、斎藤道三亡き後、織田氏によって統一されますがその後、東美濃は織田氏と武田氏の勢力争いの境界として幾度の戦火に巻き込まれました。その戦いの拠点となった山城が、「岩村城」「苗木城」「美濃金山城」です。岐阜県では、全国に通用するふるさとの自慢を『岐阜の宝もの』として認定しており、「岩村城跡と岩村城下町」「苗木城跡」「美濃金山城跡」が『ひがしみのの山城』として認定されています。なかでも幾重にも山が折り重なる岐阜県東部、中央西線中津川・恵那には、見応えのある有名な山城が2つあり一日でめぐることができます。戦国浪漫に包まれた険しい地形を利用して築かれた山城や、古い歴史が今も残る城下町を旅してみます。山城には山城ならではの魅力や面白さがあり、なぜこの場所に建てられたのか、城を攻略するにはどうしたらよいのか、当時を偲ぶ石垣を見ながら思いを馳せてみます。
2城とは中津川市にある苗木遠山氏が明治維新まで居住した苗木城と恵那市にある岩村遠山氏が築いた日本三大山城のひとつ(大和の高取城・備中の高松城)岩村城です。遠山氏は鎌倉幕府の有力御家人であった加藤景廉が文治元年(1185)美濃国遠山荘の地頭職を与えられ、その長男遠山景朝が岩村城を本拠として遠山姓を名乗ったことに始まります。景朝の長男景村を初代とする苗木遠山氏と三男景員を当主とした岩村遠山氏、次男景重の明智遠山氏(遠山三頭)など宗家の岩村遠山家を筆頭に美濃東部で遠山七頭が繁栄、土岐氏と並ぶ美濃の名族でした。
苗木城は、中津川市内を東西に流れる木曽川右岸、一段と高く聳える標高432mの高森山にあります。木曽川から山頂の天守跡までは、標高差約170m、急峻な地形を生かして大永6年(1526)苗木の北方6kmほどの植苗木の広恵寺城を拠点としていた苗木遠山氏の遠山一雲入道昌利が移り住み、見張りに適した高森山に築かれた山城です。その後、岩村遠山家から苗木遠山家に養子に入った遠山直廉が拡張し、直廉が死去した後は飯羽場遠山氏が養子となり苗木城主となりましたが、豊臣秀吉配下の森長可により落城します。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに先立ち徳川家康の指示で遠山友政が18年ぶりに奪還し、以後江戸時代を通じて12代にわたり遠山氏が城主として苗木藩1万石を治めました。苗木城は友政により現在の姿へと整備されたようで、石垣のほとんどは友政によるものと思われます。江戸時代末期まで1万石で城持ち大名だったのは遠山氏のみで、小藩ながらも戦国期の面影をとどめた近世城郭です。
苗木城跡へはJR中津川駅から北恵那交通バス苗木バス停で下車後約1km、徒歩約20分で「苗木遠山資料館」(入館料330円)に到着します。国推定史跡「苗木城跡」のふもとに、中世・戦国時代から明治時代初期にいたる、苗木領の歴史的な文化遺産を保存・公開を目的に設置されました。苗木遠山家の資料を中心に苗木領と苗木城にかかわる貴重な諸資料を展示し、苗木城の唯一残存する建築物である風吹門の柱と門扉が保管されています。
また幕末頃の苗木城の復元模型も展示されていて、当時の建物の様子や配置、縄張りなど城の様子がよくわかり、資料館を見学してから苗木城跡を訪れると、往時の雰囲気をより感じることができます。御城印もここで販売しています。
苗木城の城域は、主要部である内郭部分が約2万㎡、外郭部も含めると約35万㎡に達します。苗木城の特徴としては、岩山という地形に制約され、利用できる土地の確保が困難であったため、巨石等を利用した建物の構築方法(懸造)があったこと、また石垣には多種類の積み方が見られることです。天然の巨石と人工的な石積みの様々な技法を使った変化に富んだ城郭の姿が全国でも珍しいとのこと。事前の知識を得たら出発です。
資料館から苗木城跡に向かって歩くとA1駐車場向かいには、かつて表方の足軽が出勤した時に必ず立ち寄る足軽長屋(詰所)があります。足軽達はまずこの長屋に立ち寄り、その後城内のそれぞれの係り役所へと出向きました。ここには小頭部屋、稽古場など3・4棟の建物がありました。足軽長屋の南側隣地には「光耀山金厳寺龍王院」という領主遠山家の祈祷所がありました。この場所からは雄大な日本百名山の恵那山と巨岩をむき出した山頂の頂上に建つ天守跡を同時に眺められる撮影に最適なビュースポットです。山上の岩場を最大限に生かした石垣が特徴で、天然の巨石が人工の石積みに組み込まれていることにも驚きます。巨石が防御碧のように立ちはだかる箇所もあり、男性的で迫力満点です。
その昔、赤土の壁だった苗木城は『赤壁城』とも呼ばれ、幾度、白壁に塗っても木曽川の龍が嵐を起こして鋭い爪でガリガリと白壁を剥ぎとって赤土の壁に戻ってしまうという“赤壁城伝説”が残っています。伝説をモチーフにしたマンホール
二の丸と天守への分かれ道を天守方向へ進みます。正面には2階が「飼葉蔵」として使われていた風吹門がありました。大手門と呼ばれ城下から三の丸への出入り口で、門の南側に門番所が併置され、昼夜を問わず人の通行を監視していました。城主の在城の時は開門していましたが、江戸詰で留守の時は締め切られ、潜り戸が利用されていました。
苗木遠山資料館に保存されている風吹門
左手に聳える石垣が苗木城で最も大きな櫓「大矢倉」です。三の丸にあり、石垣を高く築き立て、二間(約4m)三間(約6m)程の3階建ての櫓跡で御鳩小屋とも呼ばれていました。一階は三方を石垣で囲われ倉庫として使われていました。2.3階の壁には矢狭間が設けられていて、北側の防御の役割がありました。巨石を包み込むように、ノミで削って直線的に加工された石が不規則で大小入り乱れて積まれた打込接ぎです。
左手に回り込むと北門で、城の入口にある風吹門からみて北側にあたる門であることからその名前がついています。城の外郭にあった土塀付きの門で門番はいませんでした。ここから先、東側に下ると四十八曲がりから木曽川に、また北側の道は家臣の屋敷群に行くことが出来ました(現在苗木さくら公園)。
北門の脇にある池は雨水が頼りの貯水池で馬の飲み水に利用されていました。
大門跡付近。苗木城の中で一番大きな大門は、2階建てで、三の丸と二の丸を仕切っていました。門の幅は二間半(約5m)で2階部分は物置に利用されていました。領主の参勤交代出立時など大きな行事以外は閉ざされ、左側にある潜り戸を通行していた。左手に見える切石できっちり積まれた石垣の上に建てられていたのが御朱印蔵で、将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていました。これらの収蔵品の虫干しは、年に一度必ず行われ、蔵への出入りには梯子が使用されていました。
錦蔵門から本丸にむかって登っていきます。本丸へ上る道を遮る形で建っていた錦蔵門は夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸に進むことができませんでした。年貢として納められた真綿が、門の2階に保管されていたことが名前の由来です。
錦蔵門を越えると道が左に180度折れ曲がる本丸へ上る坂道の下にあったので坂下門と呼ばれています。別名を久世門といい、これは三代友貞の奥方の実家で、苗木城改修の際に力添えをした徳川譜代の名家、久世家の名からきていると伝えられています。礎石と手前の石段が状態よく残されています。
坂下門から菱櫓門へと続きます。菱櫓門は地形に合わせて石垣を積んでいるので菱形になっていて、櫓も菱形に建っていました。
菱櫓門を抜けると道は大きく右に折れ、近くには千石井戸があり、今でも水が湧き出ています。苗木城内で一番高い場所に位置する井戸で、高所にもかかわらず、どんな日照りでも水が涸れることがなかったといい、千人の用を達するということから千石井戸と名付けられています。井戸の北側には懸造りの小屋が並んでいて、渋紙蔵、山方蔵、郡方蔵などがありました。右手西側には本丸口門があり、本丸と二の丸の境となる門で、総欅で建てらえていたことから欅門とも呼ばれていました。
天守台へ向かうつづら折りの坂の途中で振り返ると、大矢倉跡を見下ろすことができます。まさしく現代のマチュピチュのようです。
本丸口門の先、本丸の下段には武器蔵。大名遠山家が所蔵していた鉄砲や弓等の武器蔵で、八間(約16m)、三間(約6m)程の土蔵でした。建物の長さから別名八間蔵といい、礎石や縁石は当時のまま残されています。具足蔵は向かいの崖上にあり、二間三尺(約4.9m)三間(約6m)程の建物でした。ここには領主の具足や旗が保管され、別名旗蔵とも呼ばれていました。
武器蔵を過ぎれば玄関口という名のとおり、天守への正式なルートの玄関である玄関口門がありました。この門の先には土廊下の建物が続いていて、奥は小屋と繋がっていました。通常は鍵がかけられていて、ここから中に入ることは禁じられており、鍵は目付役が管理していました。
右手の回って上ればそこは本丸玄関。天守台より一段低い位置にあり、そのため玄関を入ると苗木城の特徴のひとつである懸造りの千畳敷を通り、回り込むようにして南東側から天守台へ入りました。玄関には玉石が敷かれていたことから、この石敷きはその玉石を利用して復元しています。玄関の右側にある巨岩には柱穴があり、この巨岩から外へはみ出す形で建物が建てられていました。
天守展望台は、天守跡の岩を削り造られた柱穴を利用し、往時の構造を復元した展望台です。天守台は石垣というより岩そのものの岩山のため、かつての天守と同じ巨石を利用し、支えの一部が外に張り出した長い柱と貫で床を支える懸造といわれる建築様式です。苗木城の天守は二つの巨岩にまたがる形で作られ、三層となっていました。地階部分は「天守縁下」と呼ばれ、板縁を入れて二間(4m)、二間半(5m)程の広さで、岩の南西側隅にありました。一階の「玉蔵」は、建物の床面積が三間四方(6m×6m)程で、ここには地階と2階に通じる階段がありました。2階部分は巨岩の上にあり、四間半(9m)、5間半(11m)程の大きさでした。現在設けられている木造構造物は、この2階部分の床面を想定し復元したものです。
とにかくすばらしいのが360度の視界が一望できる絶景の眺めです。麓から見る城山は一見すると険しさを感じないのどかさですが、城跡に辿り着きひときわ高く築かれた天守台に登ると、はるか下にエメラルドグリーンに輝く木曽川が悠々と流れて深い谷を造り、周囲から隔絶していることがわかります。借景となるのは名峰・恵那山で眺めているだけで心が洗われます。
城からの眺望が抜群によいのは、城の立地に関係しています。苗木城はかつての信濃と美濃の国境付近にあり、東西には信濃の木曽谷へと続く中山道が、南北には付知川に沿って飛騨街道が通い、二つの街道が苗木城付近で合流する要衝でした。城からの視界が開けているのは周囲を見渡すためであり、また木曽川の水運は中山道と共に重要でした。
天守台跡の南下にある馬洗岩が目にとまります。かつて苗木城が攻められ、水の手を切られた時に、この岩の上に馬を乗せて水に見せかけた米で洗って水が豊富であると敵を欺いたと言い伝えらる周囲45m程の巨大な花崗岩質の自然石です。
さらに本丸からみて西側に、巨岩の上に三層の懸造りの矢倉が建てられていました。笠置山に向かって設置された物見矢倉・笠置矢倉で城山大橋、笠置山の絶景を望みます。
苗木城のもう一つの魅力が、岩盤と融合した迫力ある石垣です。苗木城は全山が巨岩からなり、石材が豊富です。そもそも中津川は奇岩の地で、日本有数の景勝地である恵那峡も奇岩が多いことでしられています。岩盤に石垣を貼り付けたり差し込んだりと実に風変りで、ゴツゴツとした岩盤に巨石が荒々しく埋め込まれているかと思えば。統一サイズに加工された石が丁寧に積み上げられていたりします。自然の岩盤と人工的な石垣との異色のコラボレーションは芸術の域でかなりのインパクト。じっくり観察すると、石垣の積み方や加工のバリエーションが豊かなことに気づきます。なるべく郭の敷地面積を確保するため、石垣は岩盤に密着し、石垣の裏側はほとんど岩盤です。
本丸を下って二の丸へ。領主遠山家の住居や家臣が集まる部屋がありました。
苗木城には、弓の稽古場としての的場が本丸と二の丸の2カ所に設けられていました。二の丸のこの的場は、領主居間の南側の一段低い所にあり、長さ30m、幅7m~8m程で、剣や槍、鉄砲の稽古も行われていました。残っている的の土塁は長さ3m、高さ1m程で、右側が石垣、左側と奥は土塀で囲われていました。
埋め門は見取り図には載っていません。
戻りは三の丸の駆門から竹門を通り四十八曲がりで下ります。
中津川駅までは約3.5km、徒歩約1時間の距離です。大矢倉を囲んで北門からと駆門からの合流地点にあるのが竹門跡。苗木城には竹門という名の門が2カ所あり、いずれも外郭にある二脚門でした。往時は竹で戸を据え付けてあり、門番はおらず開けっぱなだったといいます。領主は竹門から藩士は北門から城にに入ったとのこと。
大名の参勤交代でも用いられた三の丸から城山麓の大手門に至る木曽川からの登城道です。距離は約600m、標高差約150mを一挙に登る急峻な道で、本丸まで道がくねくねと48回折れ曲がる急な坂道であることから城坂四十八曲がり道と呼ばれています。参勤交代時には駆門から四十八曲がりを下り、木曽川を渡し舟で渡りました。お殿様も中山道までの4km余りを歩いたとのことです。
木曽川の支流にかかるのが旧北恵那鉄道 上地橋梁跡です。昭和53年(1978)に廃線になった北恵那鉄道線の廃線跡で美しい石積みの橋脚と鉄橋が目の前に現れ、今なお力強い佇まいです。
木曽川に沿って進み、中間地点で木曽川に架かる玉蔵橋が見えてきます。時間が合えば玉蔵橋バス停から中津川駅に戻ることもできます。全行程3時間ほどで午前中に苗木城を見学すれば午後は岩村城にバトンタッチです。
「“山城密集地帯”東美濃の城リレー!女城主の堅固な岩村城」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/15097