信州須坂にふた筋の神秘の滝が轟音を響かせる米子大瀑布

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深田久弥の「日本百名山」のひとつ四阿山(標高2333m)の山塊から染み出した一滴が水を集め、沢となり、やがて断崖絶壁を轟音とともに落下する滝があります。日本の滝百選にも選ばれている落差85mの不動の滝と75mの権現滝の2条の滝に代表される米子大瀑布です。迫ってくるような感覚に陥る豪快な四阿山の北の懸崖に、二つの滝が一直線に落ちています。周遊道をしばらく歩けば、まるで吸い込まれてしまいそうな壮大な自然を全身に感じることができます。NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像のロケ地として使われたことで一躍有名になったこの名勝地を紅葉のシーズンに訪れます。

信州と上州の国境にある四阿山とそれに連なる根子岳、浦倉岳山、奇妙山は、200万年前の火山の外輪山だといい、直径3kmもある火口を持つ火山は、やがて外輪山の一部がなくなりました。そんな外輪山から、かつての火口へと落下しているのが、米子大瀑布です。山岳地図を見ると、確かに米子大瀑布を四阿山をはじめとする連峰が取り囲んでいます。

米子大瀑布への入口は、菅平スキー場に向かう国道406号から米子川沿いの林道を登っていったところにあります。

渓谷沿いの森は、ミズナラやブナ、カツラといった落葉広葉樹におおわれています。普通車が50台停めることのできる駐車場(標高1300m)があります。

駐車場から瀑布へは、滝とそに周辺をめぐる一周約2時間ほどの遊歩道が整備されていて、道標もしっかりあり気持ちのよい渓谷の道です。

熊野権現橋を渡りると道は二手に分れ、左手は米子鉱山跡地に向かいますが、ここは直進で滝を目指します。

米子川の渓流の涼やかな音を聞きながら進むと途中に雨宿岩という大きな岩が現れます。その昔、米子を訪れた修験者がここで雨を凌いだと言われる大きな自然石です。

すぐ先の米子川に架かる奥万橋の吊橋を渡ります。一人づつゆっくりと渡ります。

さらに上って行くと不動橋から上流に不動滝を望むことができる清水不動に着きます。ここまで約20分の行程です。

そこから10分ほど歩くと両滝の間に建立されている米子不動尊奥之院本堂(標高1400m)で、現在のお堂は文化7年(1810)に再建されたものです。開山は行基菩薩で、養老2年(718)不動滝(大滝)の麓に一宇の堂を建立し、瀧澤山家原院如来寺と称しました。当寺の本尊である不動明王立像は、嵯峨天皇がお持ちであった一本の欅から三体の不動明王を弘法大師空海に刻ませた一刀三礼の御作と言い伝えられ、関東管領職に就いた際に足利宗家から拝領した上杉謙信公の護持仏でもあります。第四次川中島合戦の帰途、謙信道の途中にあった瀧澤山家原院如来寺に、重臣柿崎景家、甘糟景時、直江実綱の手により本尊として安置され、謙信公より米子瀧山威徳院不動寺と改名し現在に至っています。残る二つの不動明王立像がある千葉成田の不動尊、新潟菅谷の不動尊と並び日本三大不動尊のひとつに数えられています。

奥之院から右手に森の中をしばらく進むとパッと視界が開け、断崖絶壁が目に飛び込んできます。そこに轟音を立てながら断崖を落下する一筋の滝が、落差85mの不動滝(標高1450m)です。以前は道が滝壺まで続き、まじかでその飛沫を浴びることができたが、今は修験者だけのようです。古から修験者の「みそぎの滝」として知られ、今でも滝に打たれ身を清める白装束姿の行者を見ることができます。それでもやわらかに広がり、まるでレースのカーテンのように霧状になびく滝は、荘厳で美しく女滝と呼ばれています。。

地質学的には、この断崖は、マグマが冷えて固まるときにできる「柱状節理」で、不動滝の奥手、少し黒くなった岩には、雪解けの季節から梅雨明けくらいまで見れる“幻の滝”黒滝(落差90m)が現れます。

後ろ髪を引かれる思いで不動滝を後にし、3分ほどで権現滝へ。ここも一般車は滝壺まで行くことはできないので、観瀑台から木立を通して見ます。水量が多く、轟音とともに豪快で直線的に滝壺へ落ちていく様から男滝と呼ばれています。木陰から望む、紅や黄色に染まった紅葉と滝は絶好の撮影スポットです。

権現橋からは権現滝から流れてきた沢のひとつが落葉広葉樹の緑と白い流れのコントラストが美しい。

大黒橋を渡ると広く開けた休憩に適したスペースがあり、川のせせらぎを聞きながら暫し足を休めます。

やがて見晴らしのいい原っぱに出ます。そこには「日本滝百選・米子大瀑布」の標柱(標高1430m)が立っていて、振り返ると権現滝、不動滝の二滝が同時に見え、水墨画のように落下しています。古来より不動滝は別名「白龍の滝」、権現滝は別名「黒龍の滝」、ふたつを総称して「双龍の滝」と呼ばれています。

歩道を回り込めば川の反対側の米子大瀑布を正面に望む台地に出る。かつて硫黄などを産出する米子鉱山があり、硫黄の需要が増大した第二次世界大戦時の全盛期には周辺に1500人の鉱山従業員とその家族が暮らし、診療所や共同浴場、学校などもありました。断崖の迫力を感じながらふたつの滝を同時に眺められるビューポイントです。

この地で硫黄の採掘が始められたのは、江戸時代前期からとも言われますが、享保年間(1716~1735)、米子村の竹前権兵衛・小八郎兄弟は、幕府に良質な硫黄を売り、その資金を用いて新潟県新発田市紫雲寺地区の一大干拓事業を行い、同所に米子新田を拓きました。明治になり、須坂硫黄会社、信濃硫黄株式会社などが採掘を行い、昭和9年には中外鉱業株式会社に引き継がれ、昭和35年(1960)の閉山まで、硫黄を中心に蝋石、ダイアスボアーなどを産出しました。

当時は米子鉱山から現在の須坂駅まで全長14kmを超える物資運搬用の索道(リフト)も架けられ、硫黄が搬出されました。鉱山の集落っへは、この索道を使って須坂から多くの物資が運ばれていました。

ここからは下り道、しばらくして傍らに「日本の滝百選」の標柱(標高1480m)が立つあずまやのある大展望台から米子大瀑布に別れを告げ、30分ほどかけて駐車場まで下っていきます。

帰路に米子不動尊里堂(本坊)にも参拝していきます。正しくは米子瀧山威徳院不動寺といい上杉謙信公の護持仏であった不動明王を本尊とし、謙信公が所有したとされる軍神「毘沙門天」があしらわれた軍配が発見され、注目を集めています。『開運』のパワースポットとして紹介されています。

 

 

 

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