明智光秀ゆかりの大津市坂本「西教寺」で真白猿と出会う

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比叡山の東麓、琵琶湖の南西がんに面した大津市坂本は、古くから水運の要衝として、また比叡山延暦寺の門前町として栄えてきました。戦国時代には歴史の舞台となったこの町には、明智光秀の菩提寺「戒光山 西教寺」があります。写真は西教寺寺門「三羽雀」

日吉大社から山際に沿う道「山の辺の道」を北に約1.5km、15分ほど行くと琵琶湖を望む高台に立つ西教寺に着きます。比叡山延暦寺と日吉大社の門前町坂本の北西部に位置する「西教寺」は、全国に400余りの末寺を有する天台真盛宗の総本山で、天台宗は延暦寺(山門)、三井寺(寺門)、西教寺(盛門)の三派に分離、今日に至っています。7世紀の初めに聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建し、推古天皇の26年(618)に大窪山の号、天智天皇8年(669)に西教寺の号を下賜されたと伝わります。その後慈恵大師良源上人(元三大師)、恵心僧都(源信)らが10世紀に入山し栄えました。文明18年(1486)には中興の祖で宗祖でもある真盛上人が入堂し、堂塔と教法を再興したのが真盛宗の始まりです。

元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後の復興に大いに力を注いだのが、焼き討ち直後に坂本城主となった明智光秀です。西教寺の檀徒となり、城門や陣鐘を寄進し、仮本堂も建立しました。総門は坂本城城門を移築したものです。

総門を入ると全くの静寂の世界です。大木が参道の両側から枝を伸ばし、紅葉の時季は150mほど続く紅葉のトンネルになります。左右に塔頭寺院が並ぶ緩やかな坂道を上ると、突き当りに勅使門、左手手前の階段の先に宗祖大師殿があります。

総門から参道を上ると正面に勅使門があります。

坂本城遺構の総門から参道を上ると正面に勅使門があり、その手前を左に進むと宗祖大師殿境内にはいります。宗祖大師殿の正面、東面して建つ四脚門の唐門は、両側に折曲がりの築地塀が延びています。屋根は檜皮葺、入母屋造・前後軒唐破風付。組物は三斗組と簡素ですが、虹梁上に配された龍や獅子など多彩な彫刻、彫物欄間や板欄間、精緻な飾金具などいずれも華やかな造形です。唐門を額縁にして見る琵琶湖の眺望は素晴らしくフォトジェニックな一枚になりますよ。

勅使門の左手にある石段を上ると本堂境内で、広い境内には様々な史跡や建物があり古くから愛されてきたお寺の風格があります。総欅造の本堂は、江戸時代元文4年(1739)に落成。入母屋造、本瓦葺で、正面の欄間や須弥壇はしべて欅の素木造で、江戸初期の特色を表す豪華な装飾が施されています。

正面上部に透彫がある桟唐戸、両端は蔀戸となっています。軒先には愛らしい表情をした猿の置物(護猿)がおかれてています。正面中央に向拝を設けて軒先蟇股には、猿、鳥、兎、馬などの彫刻が施され、側面は蔀戸・桟唐戸・花頭窓付板壁となっています。内陣には本尊丈六の阿弥陀如来が安置されています。

左手の外陣には、鉦を叩こうとする猿の像があります。真盛の室町時代に暴徒が攻め込んできた徳政一揆の際に、日吉大社の使者である「手白の猿(ましら)」が身代わりに本堂で鉦をたたき、真盛と寺を救ったという伝説によるものです。日吉大社の使者である猿をお堂や門の屋根に配していますので探してみましょう。

本堂と客殿などの伽藍は回廊で結ばれています。桃山御殿と別称される客殿は、もとは豊臣秀吉の伏見城の旧殿で、慶長3年(1598)に、大谷刑部吉継の母・山中長俊内室が寄進したもの。二列に配置された室の襖や壁には狩野派の絵が描かれていて、ガラス越しに拝観できます。また客殿には小堀遠州作の庭園があります。裏山の急傾斜の山畔部を巧みに利用し、丸刈角刈の小刈込を駆使した鑑賞で、庭園の中央にある池泉は、琵琶の姿を取り入れた瓢型になっています。Netflix『イクサガミ』第六話幻刀斎(阿部寛)が彩八(清原果那)を追い詰める緊迫のシーンのロケが行われました。

また奥に入ると天正10年(1582)にこの世を去った明智光秀は、内室の煕子ら一族の墓とともに祀られています。

右隣りに細い急な長い石段を上がった先には真盛上人の御廟があります。宝形造、天井は格天井とし風格を出しています。正面は長く伸ばした向拝が設けられ、笈形大瓶束が向拝の虹梁を支えています。正面の扉には桟唐戸で花若狭の透彫gさ施され、左右には花頭窓、側面前方は蔀戸としています。蟇股や柱には、穏やかな表情を浮かべる猿や唐草など精微な彫刻が施されていて、内部には五輪塔をお祀りしています。

明智光秀の「幻の城」と呼ばれる坂本城の石垣が発見され、ますます目が離せない大津市坂本です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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