
日本三大美林(天然林)のひとつに数えられる赤沢自然休養林は、長野県上松町西部の標高1050m~1557mに位置する樹齢300年の雄大な木曽檜の世界。「森林浴発祥の地」として知られ、林間の涼風に安らぎ夏、そして紅葉の彩られる秋と威風堂々の檜の大樹が、神秘の生命力を山に響かせています。尾張藩の保護のもと、三百余年にわたって大切に守られててきた赤沢自然休養林は、林内に8つの遊歩道コースが伸びる深閑の森です。小径をたどれば、渓流にはイワナやアマゴの姿、清々しい水音、鳥のさえずりや可憐な草花の出合えます。またかつて木曽谷で活躍していた森林鉄道が、当時の車両そのままに、檜の森を走っています。清冽な大地を歩き、生命の息吹を感じ、木曽の山と木と人、歴史と文化に触れることのできる森でヒノキに負けじと思いっきり身体を伸ばして心と体を癒します。
園内には8つの遊歩道や森林資料館、せせらぎの里など気軽に散策・観察・休憩ができる施設が整えられ、「21世紀に残したい日本の自然100選」「かおり風景100選」「森林浴の森日本百選」にもえらばれていています。写真は入口にある森林資料館
木曽ヒノキは、平安時代から広く知られ、安土桃山時代には伏見城などの城を建てる材料として利用されるようになりました。江戸時代になると各地で城下町が繁栄するようになり、木曽の山々から木々が大量に切り出され、使われるようになった結果、木曽の山は大変荒れ、木々も少なくなりました。そこで木曽の山を管理していた尾張藩は、寛文5年(1665)から木曽五木と呼ばれるヒノキ、アスナロ、サワラ、コウヤマキ、ネズコの5種類の木の伐採を禁止する林政改革を行い、『ヒノキ一本、首一つ』という厳しいおふれ「留山制度」を出して山の木を守り始め、その甲斐があって木曽の山々蘇りました。また現在に至るまで、伊勢神宮で20年に一度行われる式年遷宮の御神木を切り出す森であることからも、手厚く保護されています。
「赤沢自然休養林」と書かれた立札が迎える木曽・赤沢の自然へ分け入ると、そこに広がるのは日常の喧騒から遠く離れた清々しい静寂と木々あふれる世界。深い林の中では、沢の水音や小鳥のさえずり、ヒノキの間を抜ける風の音が聞こえてきます。深呼吸せずにはいられなくなって、澄んだ大気を思いっきり体に満たせば、爽やかな香りに体の細胞ごとリフレッシュされるような快感に包まれます。これが森林浴の効果でしょうか、心と身体に心地よいフィトンチッドの素晴らしさを体験します。フィトンチッドは、動くことのできない樹木が、外敵の攻撃や刺激から身を守るために発散する殺菌力の高い化学物質で、古くから殺菌作用や防虫効果があるとしてヒノキ風呂や神社仏閣を建てる材料として用いられてきました。赤沢自然休養林は、樹齢三百年を超える檜の天然林。世界的にも貴重な天然檜林は、青森ヒバ、秋田スギとともに日本三大美林のひとつに数えられ、森林浴発祥の地としても知られています。
森林鉄道の歴史は、明治44年(1969)の中央線開通にともなって建設が始まった大正2年(1913)まで遡り、最盛期には65線、総延長530kmに及び、木曽郡全体を網羅し、木材の運搬として活躍していました。勾配のきつい奥深い山の中まで入り込み、10両分にもなる材木を一度に運びました。火の粉をまき散らさないために煙突が大きく膨らんだ形に改良されたボールドウィン蒸気機関車は、やがてディーゼル機関車が登場し、昭和25年(1950)にはすべての機関車が切り替わります。その後木材輸送はトラック輸送に替り、全国最後であった森林鉄道が王滝・上松間で幕を閉じました。写真は森林鉄道記念碑
木曽五木にちなんだ5両の客車をつけ、小型ディーゼル車が軽快に牽いて走る赤沢森林鉄道は、昭和50年(1975)に姿を消した日本最後の木曽谷森林鉄道の一部を観光鉄道として昭和62年(1987)に保存運行し復活させました。カーブを曲がる時にプォーと汽笛を鳴らしてコトコト走る姿、コパクトにまとめられた運転席など、当時の面影を感じさせるレトロな雰囲気も人気のひとつです。
驚くほど澄んだ水が流れる赤沢渓流に沿い、ヒノキの巨木の間を縫って走りゆく終点の丸山渡まで1.1km、往復20分のミニ鉄道旅は、壁を取り払った客車に座れば、美しい渓谷をゆっくりと眺め、爽やかな風が身体を吹き抜け、まるで森と一体になったかのような爽快な森林浴が楽しめます。写真は赤沢休養林の名所呑曇(どんどん)渕の清流を見て走る森林鉄道。
終点の丸山渡では機関車を車両の最後尾に付け替えて、折り返し運転します。線路幅762mmは新幹線の約半分で車両も小さく、客車も1両15人乗りです。終点では、そこで降りて歩きだす人も多い。歩きだしたくなるくらい、森の空気が爽やかで気持ちがよい。
まずは森林センターで園内の散策マップを手に入れます。広さ728haの園内には「ふれあいの道」「駒鳥コース」「冷沢コース」「中立コース」「向山コース」「上赤沢コース」「渓流コース」「姫宮コース」といった約40分~2時間の8つの散策コースが表記されていて、体力やメンバーによってコースを選ぶことができます。今回は、森林鉄道沿いに整備されたメインコース「ふれあいの道」で森林鉄道の終着駅「丸山渡停車駅」までの距離2.8㎞、約1時間を歩きます。駐車場前(標高1080m)の赤沢橋を渡ったところからスタートです。ここは「渓流コース」(距離1.5km、約40分)、「向山コース」(距離2km、約1時間)の出発地点でもあります。
渓流を石でせき止めて作った渓流広場。夏休みには渓流プールが造られ子供たちの歓声が森に響く別天地に。
ふれあいの道は全線が舗装と木橋で整備されていて、誰もが気軽に森林浴を楽しむことができます。このコースのみ往復となっていて渓流を遡り、丸山渡停車駅まで向かいます。
赤沢の渓流沿いに木橋が渡され、清々しい水音に癒されながら軽快に森林浴を楽しみます。木曽ヒノキの天然林の間を流れる非常に透明度の高い美しい渓流で休養林一帯では道川と呼ばれています。
阿寺山地の阿寺山の西斜面を源流とする木曽川の支流小川は、源流域では赤沢と呼ばれています。休養林を抜けた赤沢は黒沢など幾つかの沢と合流し小川となって木曽川に注ぎます。写真は渓流の休憩地・呑曇(どんどん)渕といい、大きな一枚板の岩の上を勢いよくどんどんとリズミカルに音を発して流れ落ちる様子と、雲が渕に映えて美しいことからこの字があてられたとのことです。このあたりが園内で一番空気がきれいとされ、水しぶきが発生するマイナスイオンには乳酸をとる効果があるので疲労をとってくれます。
呑曇(どんどん)渕から230mほどで丸山渡停車場に到着します。ここがふれあいの道のゴール地点で、森林鉄道に乗って来ることもできますが、ここから乗車することはできません。往復するのもよいですが、行きは森林鉄道、帰路はふれあい道というのがベストプランでしょう。歩き足りない方は、丸山渡停車場から冷沢コースで椹窪にいくことができます。
ふれあい道を戻り丸葉橋で分岐し、駒鳥コースを歩きます。距離2.7km、1時間10分の駒鳥コースは、昭和60年(1985)の「伊勢神宮御神木伐採跡地」から渓流の休憩地「呑曇渕」へ。渓流沿いをギリギリを走る森林鉄道が通りすぎるのを待って線路を渡り、ひのき大樹、さわら大樹が屹立する椹窪を経由して「床堰」まで戻ってくる赤沢の代表的な風景を巡るメインコースです。このコースはふれあいの道とは打って変わって木の根が網状に絡みあった道で、いかにも森林の中を歩いているという気持ちが味わえるコースです。
駒鳥コースのひのき大樹(樹高32m、胸高直径84cm、材積7.48㎡)と椹窪のさわら大樹は、この園地でも1、2位を争う巨木です。椹窪は、木曽ヒノキ美林が楽しめる冷沢コース(距離3.3km・1時間50分)と御嶽山の展望が楽しめる上赤沢コース(距離2.2km・1時間20分)との合流地点でもあります。
ふれあい道の「床堰」に戻ってきました。昔は山の中から木材を運び出すのは多くの労働力がいる大変なことだした。水量の少ない沢においては簡易的なダム(堰)を作り水面を上昇させ、木材を浮かばせて少ない労働力で運び出す工夫がされていました。特に、沢の上流部に作られる簡素な堰が「床堰」と呼ばれました。
散策後は、園内唯一の食事処「せせらぎの里 赤沢」で、名物のそばや、豚汁などを味わうことが出来ます。
上松町から赤沢へ続く林道は、かつての木曽森林鉄道(昭和50年(1975)廃止にの小川線)の路線を転用したものです。赤沢自然休養林の散策コースのひとつ、赤沢の渓流を辿る渓流コース(1.5km・40分)から赤沢左岸を辿る姫宮コース(3.5km・2時間)は、麝香沢という沢の合流地点に鎮座する姫宮神社までのコースです。※木道老朽化で通行不可。「姫宮」に関する伝承によれば、後白河法皇の第三皇子・以仁王(高倉宮)は平家追討の令旨を出したものの平氏の追われ木曽谷に落ち延びました。姫宮は以仁王が、木曽谷に潜伏していると聞いて密かに木曽谷を目指すが、上松で平家に見つかっていまいます。姫宮は小川の上流へ逃げますが、持っていた麝香袋の匂いで見つかってしまい、深い淵に身を投げて果てます。小川には「麝香沢」「姫渕」などの地名が残り、麝香沢近くに姫宮神社(高倉八幡社)が祀られています。
赤沢自然休養林に向かうは道の途中、姫宮神社の手前、車で通ると素通りしてしまいますが「五枚修羅」という見どころがあります。そこでは延長数十メートルにも及ぶ広大な花崗岩の岩盤の上を、水が豪快に流れている落差5mのナメ滝です。修羅というのは、かつて山の伐採木を運び出すために滑り台として設置した丸太組みを指す言葉です。この場所に発達する規則的な岩の割目(節理)が、まるで丸太組みの層を重ねたように見えることから名付けられたとのこと。
県道473号線を上松方面に向かい、「旅のやどりの寝覚の床・・・」と県歌『信濃の国』にも歌われる『木曽八景』のひとつ「寝覚の床」に立ち寄ります。木曽八景は尾張藩の書物奉行をしていた松平君山が木曽路を訪れて選んだとも言われる優れた風景評価のひとつで、木曽川沿いの一帯、南北約1kmのエリアに白々とした大岩・奇岩が並びたち、その底に翠緑の水をたたえる木曽の名勝です。かつて木曽川を流れる満々の水、渦を巻く激流、はじき飛ぶ礫が歴史を刻むように磨いた木曽川の造形。この名の由来は、晩年をこの地で過ごした浦島太郎の伝説に由来します。現世に戻り、諸国をさまよった浦島太郎はいつしか上松に住みつき、そしてここでお土産の玉手箱を開いてまるで夢から覚めたように、いっぺんに300歳の老人になってしまいます。床岩の上に祀られた「浦島堂」は、その不思議な翁の姿を語り継いでいます。
ねざめ停は平成29年(2017)にオープンしたドライブインで寝覚の床を眼下に眺める絶景テラス席があり、絶景を楽しみながら食事や買い物が楽しめます。
国道19号を塩尻方面に向かうと『木曽八景』のひとつとしても知られる「木曽の棧」があります。全長129里、六十九宿を連ねる中山道のうちの十一宿を数える木曽街道にあって、中山道随一の難所といわれ、かつては危ういものの代名詞として古くから歌枕に詠まれた場所であるとともに、県歌『信濃の国』に歌い込まれて」いて、寝覚めの床とともに木曽路の旅情をあたためたことでその名が高い。赤い橋と深い渓谷、エメラルドグリーンの木曽川とのコントラストが美しい。しかしながら歴史的k地のある石積みは対岸や赤い橋の上から眺めます。
木曽川の険しい絶壁の岩の間に丸太と板を組み、藤つるで編んだ綱でゆわえて数百メートルに渡って架けられた桟橋でした。正保4年(1647)に通行人の松明で焼失し、尾張藩は翌慶安元年(1648)に長さ56間(102m)中央に8間(14.5m)の木橋をかけた石積みを完成しました。このことが、今も大岩壁と石垣に銘記されています。その後2度にわたる改修で木橋下の空間はすべて石積みになり、残されていた木道も明治44年(1911)の国鉄中央線工事のため取り除かれました。現在石垣積みの部分は、国道19号線の下になり、街道の面影をとどめるに至っています。
赤い橋を渡った対岸には、「棧や いのちをからむ 蔦かづら」と詠われたひっそりと佇む芭蕉の句碑があります。貞享5年、多数の美濃の門人に見送られて、姥捨山(更科)の秋の月を見ようという目的で『更科紀行』の旅に出ます。傍らには、「かけはしや あぶない処に やまつつし」「棧や 水へととかす 五月雨」「むかしたれ 雲のゆききの あとつけて わたしそめけん 木曽のかけはし」と正岡子規の詠んだ俳句と短歌の句碑も建立されています。
