江戸中期に甲州流築城術で大改修!茨城の続日本100名城土浦城

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筑波山と霞ヶ浦の自然に恵まれた土浦市は、上高津貝塚をはじめとする多くの遺跡群が物語るように遠い昔から人々が住んだ豊かな場所でした。霞ヶ浦の河口の地に土浦城が築かれたのは室町時代と思われ、戦国時代には戦の舞台となりましたが、江戸時代初期の慶長9年(1604)水戸街道が城下町を通る頃から城の整備や城下町が本格的に整備されました。江戸時代初期には、松平氏・西尾氏・朽木氏などの譜代小藩の藩庁でしたが、中期以降は譜代大名土屋氏が常陸国では水戸藩に次ぐ9万5千石で土浦藩藩主となっています。貞享2年(1685)松平信興時代甲州流軍学による築城術で大改修された縄張りを訪れます。写真の土浦市のデザインマンホールには常陸野のシンボルとして土浦市の西に望む名峰筑波山と日本第二位の広さを誇る霞ヶ浦に浮かぶ帆曳船がデザインされ、水と緑豊かな土浦市を抽象的に表現しています。

土浦城は室町時代中期永享年間(1429~1441)に常陸守護であった八田知家(鎌倉殿の十三人)の後裔の豪族小田氏に属する若泉三郎が築城したのが最初とされ、戦国時代に小田氏の家臣菅谷氏が居城とした小田氏の支城でした関ヶ原の戦い後に結城秀康が越前国に転封となり、藤井松平信一が入封し、その子信吉との時代におよそ現在の城の形を作ったと考えられています。土浦は度々水害に遭いながらも、水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えることから亀城の異名を持つ続日本100名城の城です。

元和3年(1617)に松平信吉が上野国高崎に転じ、西尾忠永が入封。その子忠照によって元和6年(1620)から7年かけて西櫓と東櫓を作り、元和8年(1622)には本丸の正門を櫓門に改め、これにより、本丸は水堀と柵つきの土塁、三つの櫓で守られるようになりました。西櫓は本丸土塁の西側にあり、木造本瓦葺き、二層二階入母屋造りで、3間×4間の小櫓です。

東櫓は本丸土塁の東側にあり、明治時代の火災により本丸館とともに焼失し平成10年(1998)に江戸時代の建築技術を継承しながら現代工法も取り入れて復元しました。木造本瓦葺き、二層二階入母屋造りで、4間×5間の櫓です。天守のなかった土浦城においては物見櫓や城の象徴としての役割を担っていました。

慶安2年(1649)西尾忠照が駿河国田中に移り、かわって朽木稙綱が入封し明暦2年(1656)に櫓門を現在の太鼓櫓門に改築しました。木造本瓦葺き、入母屋造りで本丸に残る櫓門としては、関東地方で唯一現存するものです。階上の床は板張りでその一部は揚げ蓋として開口でき、石落しとしての機能が備えられています。また階上には太鼓が置かれ、土浦城下に時を知らせていたことから太鼓櫓とも呼ばれていました。

楼門で使われていた太鼓は東櫓で展示されています。太鼓の側面には、土屋家の三石紋が描かれ、明和7年(1770)に制作されたことが判明しています。かつて「土浦に過ぎたるものは二つあり、刻の太鼓と関の鉄砲」という里謡がありました。「刻の太鼓」については江戸時代初期から廃藩までの約100年間、城下に時を知らせていたこと。「関の鉄砲」とは土浦藩士で炮術指南を務めた関家の「関流炮術」のことです。

また稙昌の代寛文4年(1664)に土塁上の塀を瓦葺きに改めました。本丸土塁上に建つ塀は、表(堀側)を塗り込めの大壁、裏(本丸側)を柱・貫の見える真壁にして漆塗で仕上げた土塀です。堀には石落しや鉄砲狭間・大筒狭間が設置されています。これらは防御施設であるとともに城を象徴する意匠でもありました。本丸土塁の構造形式は木造控柱付土塀、目板(板塀)瓦葺きで、櫓門から東櫓の土塁上に総延長49.3mが復元されています。

寛文9年(1669)に土屋数直が入封。土屋家は、元来甲斐武田家の家臣で、武田家滅亡後家康に仕え、数直の代に大名となり、後術の大河内松平信興の時代・天和2年(1682)から貞享4年(1687)を除き、これ以降江戸時代を通じて土浦城の城主は土屋家でした。写真は内堀越に見る東櫓

松平信興時代の貞享2年(1685)に甲州流軍学術による築城術で大改修され、現在の縄張りが完成しました。これは、天和3年(1683)に浪人となっていた戦国期に武田信玄に仕えた山本勘助の子孫山本晴方を召し抱え土浦城府普請総奉行に任命したものです。大手口・搦手口は武田流築城術により普請されています。写真は内堀越に見る西櫓

また貞享2年(1685)兵庫口と不破口を作り門を建て、貞享3年(1686)にかけて本丸の東側にある霞門を改築し、水戸口の虎口を改良して二重丸馬出虎口としています。霞門は櫓門とともに江戸時代から残る土浦城の建造物で、木造桟瓦葺き薬医門形式です。『土浦城記』には、本丸北側の亀井郭に通じる門を「加数味之門」と表現しています。

土浦城ははJR土浦駅西口から土浦駅前通りを歩くこと10分で土浦まちかど蔵「大徳」「野村」に到着します。江戸時代より土浦の商業の中心地として栄えた中城通りに位置します。旧水戸街道の宿場町として発展したこの界隈には、江戸情緒を残す建物が集積し、歴史的な雰囲気を醸し出しています。「大徳」は天明5年(1785)に創業された商家・呉服商「大徳」の天保13年(1831)建造の元蔵等4棟を改修し、観光情報を提供するアンテナショップとして利用されていて、ここで土浦城の資料をいただきます。大徳と向かい合う「野村」は、江戸後期から明治初期に建造された砂糖商の蔵で市民交流の場として開放されています。

まちかど蔵「野村」の脇の琴平小路を進み琴平神社参道を通って裁判所に当たったところが搦手門跡になります。境内では沼尻墨僊が享和3年(1803)に開いた寺子屋「時習塾」がありました。沼尻墨僊は漢詩・書道。絵画をよくし、天文学や地理学に明るく「地球万国図説」を著し安政2年(1855)には傘式地球儀の名で知られる「大與地球儀」を制作・出版しています。

 

裁判所(外丸跡)にそって進むと土浦城の正面入口になる二之門(現在は旧前川口門を移築)です。高麗門形式である前川口門は江戸時代末期に建造された門で、当時は武家屋敷であった本丸北側多計郭と町家との間を仕切る役割の門でした。

因みにまちかど蔵の前の水戸街道の街並みを進むと土浦小学校(大関高安の母校)の門の前に「大手門跡」の石碑が立ちます。大手門は外側が単層の門、内側が二層の櫓門による枡形門で、ここが土浦城の正面玄関で町屋敷と城内との境目でした。

二の丸門をくぐったさきには二の丸跡が広がっていて、ここには米蔵や厩、武具蔵等のほか、馬場としても利用されました。

二の丸の先に見えてきたのが水堀に囲まれた本丸で、土浦城は本丸の周囲を二の丸が囲み、さらにその周囲を外丸や多計郭などが囲む輪郭式平城です。

櫓門を抜けた先の本丸は広い平地が広がり、かつては藩主の生活・政務の中心の場であった本丸御殿が建っていました。

亀城公園に隣接し、土浦城二の丸に建てられた土浦市立博物館があります。観覧券は土浦城東櫓の入場券との共通券(200円)になっています。エントランスホールにはかつて霞ヶ浦の水運で活躍した高瀬舟の復元模型が展示されています。高瀬舟の最大の特徴は水深の浅い場所(高瀬)でも航行できるように底が平らに設計されている点でした。江戸の大都市化に伴い、利根川や霞ケ浦沿いの町では江戸が消費する大量の仏師を運ぶために水運が盛んになります。土浦では享保12年(1727)藩の援助によって川口川岸が整備され、桜川流域や霞ケ浦沿岸の村々から醤油・穀物・薪炭・木材などを集めて江戸に送られ、帰りには塩・酒・小間物・呉服などが土浦に運ばれてきました。江戸時代には、この高瀬舟が、江戸との間を、土浦→霞ケ浦→牛堀(潮来市)→利根川→関宿→江戸川→隅田川→江戸と約52里(約200km)約2日をかけて行き来していました。

近くには土屋藩校「郁文館」正門があります。郁文館は文武両道修練の場として第7代藩主土屋英直によって土浦城内につくられ、天保10年(1839)土屋寅直の時代に現在の地に移されました。「郁文」とは『論語』からの引用で、学問や教育の盛んな様を意味します。

土浦城は霞ケ浦に注ぐ桜川の自然地形を利用し、全体に土塁と堀をめぐらしていました。城の南門の前には「枡形」(角馬出)が、北門の前にはS字形の馬出が築かれ、城下町は曲がりくねった道が多く、敵の侵入を防ぎ、くい止める工夫がされていました。また城門の近くには、軍備の空間を確保するもの、また神仏の力により城下町の守りの役目をはたすものとも考えられ寺がおかれていました。

江戸時代土浦城を取り囲む土塁近くにたつ寺院をめぐります。土浦城防御にため松平信吉が設置した西門(田中口)近くの郭内に建つ神龍寺は天文元年(1532)当時の領主である土浦城主菅谷勝貞が開基となりの創建。寛文9年(1669)初代土浦藩主土屋数直の菩提寺となり隆盛しています。

北門(真鍋口)は、土浦城の北端で水戸街道北側の出入口でもあります。慶長8年(1603)門の前に半円形の馬出が設置され、貞享3年(1686)にさらに馬出が追加されたため、全国的にも類を見ないS字形と馬出となりました。

北門近くの郭内に建つ浄真寺は、慶長6年(1601)土浦城主・藤井松平信一の開基により創建。現在の本堂は安政2年(1855)に再建され、入母屋瓦葺、梁間6間、平入正面向拝付、外壁は真壁造り、白壁漆喰仕上げの浄土宗建築で寺門には三つ葉葵が掲げられています。境内背後の土盛は土浦城の土塁とされ外郭にのこされているものとしては最大規模で形状も良好です。

勝軍木(ぬるで)郭南東に位置する瀧泉寺は応永13年(1406)の創建とされる土浦藩土屋家の菩提寺で、17世紀後半に書かれた『土浦城記』を執筆したのが住職の祐鏡でした。

享保12年(17279に大町が築かれるまで南門(高津口)が土浦城の南端でした。土浦城と水戸街道の整備に伴い、慶長18年(1613)に川(横に走る太い道路)には簀子橋が架けられ、正面に南門、脇に番所が置かれるとともに、川の向こう側には「枡形」が整備されました。貞享2年(1685)に大改修され角馬出となりました。

道路沿いに建つ東光寺は、慶長12年(1607)に心庵春伝によって開山されたと伝わる曹洞宗の寺院です。境内にある朱塗りの建物が元文4年(1739)建立された瑠璃光殿と呼ばれる薬師堂で、入母屋、桟瓦葺、桁行3間梁間3間、外壁は朱色に塗られ、正面に花頭窓、壁四周の欄間部には建物の方位に合わせて欅の板に十二支の透かし彫りがあり、四方隅の唐獅子、妻虹梁天邪鬼の彫刻とともにこの建物の特徴となっています。堂前には芭蕉句碑「八九間空で雨降る柳かな」が建立されています。本堂裏の墓地南東隅の一段高くなったところが土浦城南門の土塁の遺構の一部です。

城下町には江戸と水戸とを結ぶ水戸街道が南北に通っていました。水戸街道は、江戸幕府の重要な街道の一つで、五街道である日光街道中付属の街道で、開通は慶長9年(1604)土浦藩主松平信吉の時代です。日本橋を起点に千住宿で日光街道と分かれ、水戸までおよそ30里の道程。土浦城下を南から東(霞ケ浦)側を回って北に向かっていました。土浦宿は日本橋より18里半(約74km)12番目の宿で、大名の宿泊所となる本陣が二カ所設けられたほか、たくさんの旅籠がありました。土浦宿をはじめ水戸街道の宿場は、公用の通行のために常に人足25人と馬25匹をそろえておくことが義務づけられていました。街道沿いには町家が並び、穀物問屋、肥料問屋、小間物問屋、古着屋、金物屋、料理屋などが軒を連ね、多くの人が行き交い、賑わいました。

枡形や馬出といった城の主要な防御施設は城下から城内へ入る所に設けられるのが一般的であり、土浦城のように水戸街道という主要街道に大規模な防御施設を設置している例は全国でも大変珍しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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