
NIKKEIプラス1「1日で散策満喫 魅力的な城下町(平成31年(2019)2月16日)」で3位の山陰を代表する旧城下町・松江。そのシンボルの松江城が平成27年(2015)7月、天守としては63年ぶりにそれまで重要文化財でしたが、国宝に指定されました。これで姫路、松本、犬山、彦根城の天守に加え五城目であり、全国に現存する12天守のなかで姫路城に次ぐ面積を誇ります。今回の国宝指定の決め手となったのは、松江城創建時に奉納されたと言われる「慶長十六」と墨書された2枚の祈祷札が平成24年5月、二の丸にある松江神社から見つかったことです。天守地階の柱の釘跡などが一致し、この祈祷札にある松江城が「慶長16年(1611)」に完成したという事実を裏付けました。国宝松江城を中心に城下町風情の残る町並みや堀川を周遊する観覧船、さらに伝統の出雲そばに和菓子など、その魅力にたっぷりと浸ります。
関ヶ原の合戦後に出雲・隠岐の2国24万石を拝領した堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が遠江国浜松12万石から入部し、出雲富田藩を立藩しました。しかしながら慶長9年(1609)忠氏が27歳で早世し、後を継いだ忠晴がまだ5歳の幼児だったため、祖父にあたる吉晴が後見人になり、事実上の藩主となりました。松江城は、月山富田城が山城で不便と感じていた松江開府の祖・堀尾吉晴が松江に地の利を見出し、吉晴とその孫で松江藩2代藩主堀尾忠晴の手により5年の歳月をかけて慶長16年(1611)に完成した城です。築城後は堀尾氏2代、京極氏1代、松平氏10代の居城となりました。天守は城山公園として整備された敷地のほぼ中央、宍道湖の東北部、かつて亀田山と呼ばれた標高約28mの高台に、高さ約30mで、外観は四重五階、地下1階、正面の南面には玄関となる附櫓、最上階には望楼が設けられた複合式望楼型天守がそびえます。黒色の下見板張りと白い漆喰塗込めの壁面、本瓦葺きの屋根で装飾を省いた実践本意の造りながら、松江城は「京(みやこ)づくり」という屋根の端がよく反り上がり、また千鳥が羽を広げたように見える入母屋破風が設けられていることから千鳥城とも呼ばれ、品のよい優美な姿が印象的です。
城を囲む掘の一部は、築城当時の姿を今に残します。城と掘がそのまま現存する城下町は全国でも珍しく、松江城を囲む内掘から外堀へ全長約3.7kmを約50分、小舟で巡る「堀川めぐり」が人気です。遊覧船に乗ってのんびりと外堀から松江城を見上げられます。
石垣の上にそびえるのは、平成13年に約125年ぶりに復元された南櫓と中櫓です。
大手前広場に立つ松江城と城下町の基礎を築いた堀尾吉晴像。羽柴秀吉に仕え、知勇兼備の才を認められ、関ヶ原の戦では東軍に属し出雲・隠岐二国を拝領します。温厚な人柄から「仏の茂助」とも称されました。松江の地名の名付け親でもあります。松江城を築いた際、近隣の白潟と末次の二つの郷を統合して名付けられました。松に囲まれた「江(水辺・川)」の地形であることや中国の風光明媚な「淞江」に似ていることが由来とされています。
大手前から城内に足を踏み入れるとまず、「馬溜」と呼ばれる広場があり、最初に目の前にそびえ立つのが高さ約13mの石垣と櫓です。かつて二の丸には6棟の櫓が建っていたといい、現在は復元された3棟の櫓が見れます。その迫力だけで十分に城の規模が伺えます。
途中二の丸下の広場や「松江神社」に立ち寄ります。松江神社は徳川家康の孫にあたる松平家初代藩主・直正や堀尾吉晴を祀ります。
その下段には、明治36年(1903)に松江市が松江市工芸品陳列所として建てた「興雲閣」があります。明治天皇の行幸のために建てられたもので、のちに皇太子嘉仁親王(大正天皇)の迎賓館としての役割を果たしました。円柱のある洋風建築に入母屋の屋根がのった和洋折衷の美しい建物です。
大手門跡を入った左手の階段を上ると右前方が一気に視界が開け、堂々たる黒塗りの天守が現れます。
全国に残る12棟の天守のうち総面積が2番目に大きく、どっしりと大地に腰を据えた重厚感がありながら、千鳥が羽を広げたような入母屋破風の屋根が優美で、「千鳥城」という別名も納得です。松江城天守は白壁を極力減らして黒い下見板の板壁で覆った、質実で無骨な“日本一黒い天守”といえます。外壁に雨覆板と呼ばれる防水用の壁・下見板張りが施されるのは見かけの美より機能性にすぐれた実践本位の造りを優先したからで、松江を愛した明治の文豪ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、その雄姿を「壮大を龍のよう」と称えています。最上層の屋根に取り付けられた、木造銅板貼りとしては国内最大級の高さ2m強の鯱も存在感を放っていますし、入口には敵が侵入しにくいように防御を固めるため鉄延板貼りの大扉をもつ附櫓が取り付けられ、さらに天守内部に入ると2段構えの升形の小広場が備えられています。付属する付櫓が見学の出入口になっています。
一方で、正面南側から見ると5重に天守に見えますが、実は3重目と思われる部分は、出窓のように突出したフェイクの屋根です。3階の明かり採りとして正面側張出部の大きな入母屋屋根の出窓だけはあえて塗籠の白壁とし、中央に安土桃山時代以降、城郭建築に用いられるようになった寺院様式の華頭窓を付けて飾り、その一点豪華主義で外観に風格を与えています。また装飾版「懸魚」に繊細美が上品な華やぎを添えています。
入口を入った地階(穴蔵の間)は、籠城用の生活物資を貯蔵するための倉庫で、ほぼ中央には、籠城に備えて水を確保するための深さ約24mの井戸が設けられています。全国に現存する12天守のうち、天守内に井戸があるのは松江城だけです。
また老朽化によって付け替えられた鯱が展示されています。天守屋根上の鯱は、雨をもたらす防火の守り神として設置されます。荘重な造りの松江城天守の最上層の屋根の鯱鉾は、木造では日本一の大きさです。
地階の奥の柱に打ち付けられていた、慶長16年(1611)の天守完成を示す祈祷札2枚が国宝に指定される証明になりました。井戸の両脇、本来の取り付けられていた通し柱にレプリカが展示されているのでチェックしてみてください。写真右奥の柱に取り付けられた木札です。「慶長十六暦正月吉祥日」という文字が書かれています。
天守の内部の各階には石落や鉄砲狭間など敵を攻撃するための仕掛けが随所にあり、外部からは発見しにくい構造になっているのも興味深いです。特に松江城天守の付櫓に設けられた石落は、全国一の最高性能の石落です。床面より高い位置に石落の開口部を設け、その上に座った銃手は、天守直下に取り付いた敵を石落の開口部から狙撃できました。また石落の下部にできた腰壁には正面を狙う鉄砲狭間が切られていて、正面と下方を同時に射撃できる類のない稀な石落です。
また城兵の射撃場「石打棚」を随所に設け、破風内部の空間は監視・射撃場として活用しています。
松江城の天守の構造はとても独創的で、地階と1階、1階と2階、2階と3階、3階と4階というように2階ごとに「通し柱」で貫いて天守を一体化して支え、均一荷重をかける「互入式通し柱」という工法を使っています。また林立する柱には、一般的には継ぎ目のない巨木が建材として好まれますが、築城当時、森林資源の枯渇で太い柱材が十分に得られず、細い柱をかすがいと鉄輪を使って厚い板で包んで補強した「包板」と呼ばれる弾力性の高い寄せ木が柱に使用されたものがあります。これは日本初の集成材の柱であり、日本の建築史上特筆すべき最先端技術といえ、これも松江城天守独特のものです。一階の柱なかには10cmほどのハート形の木目が見られる柱もあるので探してみるのも一興です。思いを込めてなでると良縁や幸運を呼び込むとのことです。
現存天守特有の狭くて急な木造階段を上り、最上階の天狗の間に到着します。交互に配した2階分の通し柱で天守の荷重を支えています。
ここまで上ってきてよかったと思わせる眺めに出会え、360度のパノラマで松江の城下町を一望できます。望楼の南からは瓦越しに嫁ヶ島が浮かぶ宍道湖が望め、一城の主になったような気分が味わえます。廻縁(外に出廊下)がないのに高欄(手摺)があるのも松江城天守ならではです。
5年にわたる築城工事の中で3年を費やしたという立派な石垣。石垣の隅は長短の石を交互に積み重ねた算木積みです。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの英文の紀行文『知られぬ日本の面影』で「この陰湿な城には因縁話がある」と、松江城の天守が建設されるとき、基礎の石垣が何度も崩れたため、城下一の美女が連れ去られ、人柱として供された伝説を書いています。娘の怨念により、3代目城主堀尾忠晴は、後継者がないまま寛永10年(1633)33歳で亡くなり、無嗣改易となります。因みにその後釜として美作津山藩主・森忠政の出雲・石見・隠岐の3か国への加増転封の話が浮上するも寛永11年(1634)忠政が京都で急死したため立ち消えとなっています。結局、堀尾家に代わって若狭小浜藩より京極忠高が入部します。京極家は戦国時代に守護代尼子家に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになりますが、3年後の寛永14年(1637)、忠高は死去し末期養子も認められず、改易となっています。
近世の城下町は、城を中心として「侍屋敷(侍町・武家地)」「町家(町人地)」「寺町」の3つが外側に向けて並ぶ。城下町全体を軍事的・経済的・政治的な中心地とするため、城の近くから家格が高い順に侍屋敷を並べ、城下を通る街道の両側に町家を建て、城下町の端に寺町を計画的に配置しました。松江城下町も中世から栄えた町場を取り込み、造成した城下町には家臣を集住させました。城山公園を後にして北惣門橋を渡った先の松江歴史館あたりが、家老屋敷跡。歴史館から惣門橋通りに沿って4家の重臣屋敷があり、家老職の朝日家長屋や筆頭家老の大橋家に伝来する利休茶室が復元されています。
宇賀橋からお堀沿いに進むと武家屋敷風の建物が並び、老松の並木が続く散策路が整備された通りに出ます。ここが黒板塀の侍屋敷と掘端に連なる老松が見せる風景が美しく「日本の道100選」に選ばれている情緒あふれるお堀端の通り「塩見縄手通り」です。塩見縄手は松江城の北側、堀川沿いにある閑静なエリアで、「縄手」とは縄のように一筋に延びた道のことをいい、江戸時代には駕籠が通れる程度の道幅しかありませんでした。かつて500~1000石の上・中級武士の屋敷が建ち並んでいた場所で、500mほどの通りの中ほどに松江藩中老へ栄進した塩見小兵衛の屋敷があったことからこの辺りを塩見縄手と呼ぶようになりました。
松江藩の中級武士が入れ替わり住んだ「武家屋敷」をはじめ、出雲の名家・田部家伝来の茶道具や楽山焼、布志名焼の名品などが見られる「田部美術館」が建ち並びます。
またこの通りには、「怪談」の著者でアイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が明治23年(1890)、英語教師として松江市内の尋常中学校に赴任し、翌年武家の娘であった小泉セツと結婚して塩見縄手の武家屋敷でくらした美しい庭にある「小泉八雲旧居」とそこに隣接する「小泉八雲記念館」があります。明治24年(1891)の約五ヵ月間、セツ夫人と新婚生活を送った武家屋敷です。八雲にとって松江での3番目の住まい。庭のある侍の屋敷に住みたいと希望する八雲に、旧松江藩士・根岸家が貸したものです。八雲は目が悪く、書が読みやすいように、書斎の机を高くしました。屋敷の三方向を囲む美しい庭と縁側が、とりわけ八雲のお気に入りでした。窓の外には庭が広がり、庭の苔むした石灯籠、緑の築山、池の蛙や亀を愛し、縁側に腰かけ、夫婦がいたわりあうような山場の声に耳を澄ませたといいます。著書『知られぬ日本の面影』では「私はすでに自分の住居が少々気に入りすぎてしまった。毎日学校のつとめを終えて帰って来て、教師用の制服を着心地のいい和服に着替えた後、私は庭を見下ろす縁側の日陰にくつろぐ」と、この家のことが記されています。2025年秋NHK連続テレビ小説「ばけばけ」はこの夫妻がモデルの物語でした。
小泉八雲記念館では、日本の文化・精神性を見出した八雲の生涯や思考の特色をグラフィックや映像で紹介。遺愛品や初版本、直筆原稿などの展示のほか、八雲が再話した山陰地方の怪談を聞けるコーナーもあります。
小泉八雲記念館の向かい側にある公園に設置されている小泉八雲像。
出雲そばに舌鼓を打つのも忘れません。寛永15年(1638)に松江城主となり、信州松本藩からやってきた松平直政(結城秀康三男)が、そば職人を連れて来たのが始まりといわれます。お昼は出雲そばと決めていたので、そのままお堀沿いを歩き松江の名店「ふなつ」に向かいます。西日本の出雲地方で近年噂される在来種のそばが奥出雲町の「横田小そば」です。昔からのそば処で松江藩を経て幕府へ献上されていた歴史があります。その横田小そば復活の立役者が、松江市内で昭和46年(1971)から暖簾を下げる「中国山地蕎麦工房ふなつ」です。店内は民芸調の落ち着いた店内で11時開店ながら12時には売り切れてしまう超人気店です。
「松江にふなつあり」と絶大な評価を得ている名店で「ふなつのそばは、太くて濃い味がする」と常連客を魅了する、そばの見た目の野武士のような武骨さと、十割のコシの強い香り立つその味の深さに舌を巻き、旨いという感嘆さえ忘れてそばをすする。これぞ出雲国風土記いにしえの味、オロチの味と勝手な空想を巡らせる。
使うそば粉は、横田小そば、信濃、常陸品種で、すべて奥出雲産を使用し、これら玄そばを十割で打ち、噛めば噛むほど甘みが増す太めのそばに仕上げています。出雲そばと言えば「割子そば」、江戸時代、松平家7代藩主の松平治郷(不昧公)も、小さな四角い桐箱にそばを入れて鷹狩りに持参していたと言われます。野外で蕎麦を食べるために用いられた容器を割子と呼び、やがて三段重ねの朱塗りの丸い器に盛る、現在の割子そばに進展したとのこと。器に直接つゆを注いでいただきます。殻付きのクセのある玄そばの挽きぐるみのそばのつゆとして、鰹ではなく鯖節を使用しています。おすすめは、散らしそば、とろろそば、うずら卵そばの3種の味が楽しめる3段割子そば「千鳥割子」です。
松江城下町は、堀尾吉晴が大規模な土木工事を施し、河川を取り入んだ都市を設計したため川と橋が多い。内堀と外堀を、河川でつなぐように開削し、四十間堀川や京橋川、北堀川などは外堀を兼ね、中堀を含めた三重の堀で城の防衛線としていました。江戸中期にはこれらが水路として利用され、宍道湖に通じる舟運が隆盛を極めました。屋根付きの小さな遊覧船で堀と川をゆったり周遊できるのが、「ぐるっと松江堀川めぐり」です。乗船場は四十間堀川にあるふれあい広場乗船場・大手前広場乗船場・カラコロ広場乗船場の三カ所、乗り降り自由の一周約50分の船旅です。今回は城山西駐車場に車を停めていたのでふれあい広場乗船場からスタートします。
全長約8m、幅約2mの小さな船で、堀から見上げる非日常の目線は、発見の連続で、城や城下町がまるで違って見えます。城山西堀川を南に下っていきます。城の裏手にあたり、未完成と思われるゾーンで石垣がなく、自然豊かなゾーンで亀や水鳥のバンが出迎えてくれます。写真は亀田橋
県庁からさらに南へ進み緑樹橋、花園橋と進み、幅ぎりぎりの水路・うべや橋をくぐります。遊覧船コース内には、屋根を下げ、身をかがめて通過する橋が4ヵ所あり、船頭さんの名調子に従って、顔をテーブル(冬場はこたつ)にこすりつけるほどかがみ込むのも楽しいものです。
京橋川に入り東へ向かい、カラコロ広場乗船場に向かいます。このあたりは市街地区になり、今の松江の風景を見ることになります。カラコロ広場乗船場から先は、米子川に入り甲部橋、新米子橋と屋根が下がる橋が続き、北上していきます。写真は新米子橋
最後の屋根が下がる橋・普門院橋で北田川に入れば歴史区になり、松江城を北堀橋越しに見ることが出来るフォトスポットです。
途中城山内堀川に入り、大手前広場乗船場前にてUターンします。船上から至近距離で見上げる石垣はひときわ高く格別です。堀越しでは気付けない石工職人の技もみることができました。
塩見縄手を右手に見ながらふれあい広場乗船場に戻ってきました。
「一国一城令」が命じられる元和元年(1615)までの慶長年間は、関ヶ原の戦いによる大名勢力図の塗り替えにより、新たに移った大名は領国支配の拠点となる城を一斉に築き始めます。慶長5年(1600)に出雲国に入部した堀尾氏も領地を支配するための拠点を整備しました。中核をなす松江城は、外海(日本海)と内海(宍道湖・中海)をつなぐ水運の結節点に位置します。国境に近い要地などには、4つの支城(富田城・亀嵩城・三刀屋城・瀬戸山城)を設けました。緊張の続く慶長時代には、本城松江城のほかに軍事拠点として支城が必要でした。月山富田城に向かいます。