現代人と同じように、桜を愛してきた歴史上の人物たち。なかでも県歌『信濃の国』で「朝日将軍」とうたわれる武将・源義仲、通称「朝日将軍 木曽義仲」ゆかりの地・長野県木曽には、彼が残した伝説の桜が咲き誇ります。木曽は義仲が幼少期を過ごした地であり、旗揚げの地でもあります。目の前の桜を眺めながら秘められたストーリーに思いを馳せる、そんな桜の楽しみ方があってもいいのではないかと木曽義仲の足跡を追いながら、美しき木曽路から天下に名をあげた朝日将軍ゆかりの地に咲く桜樹を巡ってみることにしました。
日本の屋根と言われる山岳地帯を通って江戸と京を結ぶ中山道。木曽路はその中山道の一部であり、「是より南 木曽路」の碑の立つ贄川宿から馬籠宿まで十一宿が連なる木曽街道には、桜にまつわる古い伝説が残されています。
木曽義仲が少年期を過ごしたことでも知られる木曽町日義「宮ノ越宿」には、義仲や巴御前にまつわる史跡が点在します。まずは平成4年7月に建てられた施設「義仲館」にて激動の生涯をたどってみます。平安時代の武将・木曽義仲は、武家の棟梁である源氏の一族に生まれたが幼い頃に同族間の争いで父を亡くし、都を追われて信濃国木曽谷へ逃れたのです。そして治承4年(1180)以仁王が発した平氏打倒の令旨に応じてこの地で挙兵しました。
武家屋敷風の館で源氏の家紋“笹竜胆”の紋の幕をくぐると、義仲・巴御前の銅像が迎えてくれます。館内には各種の古文書や文献が展示され、悲運の武将と言われる義仲の短くとも壮絶な生涯を分かりやすく解説し、また北陸から京都周辺の義仲ゆかりの地も写真で紹介しています。木曽で挙兵し、圧倒的な強さで上洛を果たした木曽義仲は、日の出の勢いから朝日将軍と呼ばれます。しかしながら栄華を誇る間もなくわずか31歳で源義経に討たれました。木曽の山中を京へ駆け上がって行った青春を思うと、周囲の景色もいっそう趣が深くなります。
「義仲館」から長閑な集落の道を辿って600m、山吹山の麓を流れる木曽川の深い淵を「巴ヶ淵」といいます。義仲と巴が水遊びをした所と伝えられ、芭蕉十哲のひとり許六の筆による碑が建っています。この淵に住む竜神が巴に化身して義仲を守り続けたという伝説の地です。
「義仲館」の斜め向かいにあるのが、仁安3年(1168)義仲が病没した母・小枝(さえ)御前を弔うために建立した一族の菩提寺「日照山 徳音寺」です。山号の日照山は朝日将軍木曽義仲に因んだ号です。鐘楼門に向かう参道の両側にはヒガンザクラがこぼれるように咲き乱れ参道を覆っています。
鐘楼門は木曽義仲24代の孫木曽玄蕃尉義陳の発願により、享保8年(1723)尾張藩犬山城主成瀬隼人正正幸の母堂により寄進されたもので、楼上の鐘の音は「徳音寺の晩鐘」と呼ばれ木曽八景のひとつに数えられています。
幼少期を信濃権守・中原兼遠の元で過ごした義仲は兼遠の息子・兼平・兼光、娘・巴と共に養育され、生涯を共にする深い絆が生まれました。境内の本堂前にはそんな少女時代の巴御前の騎馬像があり、幼少期に野山を駆け巡った姿が思い浮かびます。
また本堂左手には武将姿の義仲の木像と位牌が安置された霊屋があります。
裏手の墓所には、義仲の墓を中心に右側に母・小枝御前、今井四郎兼平と左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓が並びます。
桜舞う菩提寺「徳音寺」で義仲の墓前に手を合わせたら「木曽福島宿」に向かいます。「入鉄砲に出女」とは江戸時代の関所の厳しい取り締まりを指す言葉ですが、東海道の箱根と新居、中山道の碓氷と並び天下四大関所のひとつと数えられた福島関所とその関守である山村代官の陣屋が置かれ、中山道の守りの要衡として栄えたのが「木曽福島宿」です。
その福島宿で桜見物をするなら、永享6年(1434)木曽家12代信道公が先祖義仲公菩提のため、鎌倉建長寺5世の円覚大華を迎え、荒廃していた旧寺を改建した「萬松山 興禅寺」がおすすめです。今なお木曽氏・山村氏の菩提寺であり、樹齢300年を越える木曽ヒノキの古木が混じる興禅寺山を背に諸堂が整然と配置された臨済宗妙心寺の禅宗寺院として落ち着いた雰囲気を保っています。
写真正面奥の門は、治承4年(1180)源行家が以仁王の勅使として平家追討の令旨をこの門を通り観音堂において義仲に伝えたことから勅使門と称しています。
東福寺の方丈庭園で有名な現代作庭家の巨匠・重森三玲により昭和37年(1962)に設計されたのが庫裏前の「看雲庭」です。禅宗庭園として一木一草を用いない東洋一の広さを誇る枯山水の石庭で、雲海の美をテーマにしたモノトーンの見事な景観を見せています。やはり木曽は山岳地帯なので、石庭の漆喰の雲紋は雲海の雲の動きを表し、雲上に浮かぶ山を表現しています。白砂で地紋を描き、向かって左に7石、右に5石、左の向こう側に3石と7・5・3石という構成です。
庫裏西側の斜面を利用した池泉観賞式庭園が「万松庭」です。江戸中期金森宗和の作庭で、中心に池を設け、築山は松を主体に植込みを作り静かな雰囲気を醸し出しています。「看雲亭」とは全く対照的な庭で、石庭の力強さに対して温和な心の安らぎを感じさせてくれます。江戸と現代の対照的な趣を楽しむことができますよ。
枯山水の看雲庭とともに参拝者の目を楽しませるのが、観音堂の傍らに大きく枝を伸ばす義仲公お手植えと伝えられるシダレザクラです。昭和2年(1927)の火災で焼失し、現在の桜は根から芽吹いて成長したため、2代目とされています。推定樹齢90年、幹周り221cm、樹高6.5m、濃い紅の花を満開に咲き誇る姿は空から桜が降ってくるようで、「興禅寺の時雨桜」と呼ばれます。
種田山頭火が興禅寺に来た時に詠んだ句「たまたま 詣でて木曽は 花まつり」の句碑があります。
境内の東北隅にあるのが、義仲が巴御前に託した遺髪が埋められているという「木曽義仲公の墓」です。寿永3年(1184)1月21日粟津ヶ原で源義経らの軍勢に敗れて、31才でこの世を去りましたが、その時僅か護衛13騎、その中に巴の姿があり、「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり、汝はこれより木曽に去るべし」と遺髪を巴御前に託したのです。写真中央の宝篋印塔が義仲公の墓です。
ここにも山頭火の句「さくら ちりをへたるところ 旭将軍の墓」の句碑があります。
「須原宿」は木曽谷の中でも一番早く開けた宿場町で江戸末期の大火後、復興された街並みが残ります。ここにも木曽家ゆかりの「浄戒山 定勝寺」があります。木曽町福島の興禅寺、長福寺とともに木曽三大寺のひとつです。室町時代後期、嘉慶年間(1387~1388)に木曽氏11代親豊が祖先の菩提を弔うために開創したと伝わります。
桜の名所としても知られ、禅寺の山門前を彩る淡い紅色のシダレザクラが、天から降り注ぐように咲き誇ります。幹周り225cm、樹高12mと、幹自体は細身ですが枝ぶりは素晴らしく、荘厳な寺を背景に雅な花姿にカメラを向ける人も多くいます。
山門へ続く参道は格段の段差が小さくしてあり、山門を潜って振り返ると檜皮葺の山門がよくわかり、屋根のカーブがとても優雅です。桃山風の豪壮な建築様式となっていて、山門・本堂・庫裏が国の重要文化財となっています。
木曽の小京都を思わせる荘厳な佇まいに手入れの行き届いた庭園も風情があります。目の前の大きな木は百日紅の木で夏に真っ赤な花を咲かせます。
中山道69次の32番目の宿場町で善光寺街道との追分の宿であった「洗馬宿」付近にも木曽義仲ゆかりの桜があります。朝日村西洗馬の青壷山光輪寺は奈良時代に行基が開基した古薬師を起源とし、中興は木曽義仲とされます。
山手にあった古薬師堂を義仲が光輪寺近くの地に移した際にお手植えされたと伝わるソメイヨシノの2代目です。初代は明治34年(1901)に枯死し、樹齢100年の老木は茅葺屋根の薬師堂の傍らに枝を広げ、素朴ながら華やかで県外から多数のカメラマンが訪れます。
木曽地域以外にも義仲の伝説は残ります。それは挙兵の際、自前の兵を持たない義仲が兵を集めるため信濃国中を回ったからです。上田市街地から丸子へ向かい、依田川一帯を眼下に望む場所に、「岩谷堂観音」があります。その200段ほどの階段を登る途中に、義仲が戦勝祈願に訪れた際に自ら植えたとも、馬を繋いだとも伝わる樹齢800年のエドヒガンザクラ「義仲桜」があります。
約200段の石段を登ると一番上に見えるのが馬大門です。木曽義仲が、戦勝祈願で訪れ、馬で脇参道を駆け上がったので、見えている大門を「馬大門」と呼ばれるようになったといいます。
岩屋堂観音は、平安時代初期の承和元年(834)、天台宗の高僧・慈覚大師が信濃巡礼の折に一本の柳の木から三体の観音像を彫刻します。その時に柳の胴の部分で作った像をここにおさめたのが開基と伝わります。山名の龍洞山は「柳」と「胴」に通じています。
本堂には、聖観世音菩薩が安置されていますが、当初は「奥の院」と呼ばれている本堂裏の洞窟の中に安置されていました。江戸時代の中頃、安永6年(1778)の朱塗りの御堂が建立され、現在はここに安置されています。その朱塗りの観音堂は、切り立つ岩山の中腹に食い込むように立っているのが特徴で、その迫力に圧倒されます。しかしながらその朱塗りの建物には真っ白な彫り物、彩色の美しい蟇股と平安の頃を思い出させるように優雅で気品があり、いつまで見ていても見飽きることがないほどに美しい佇まいです。
こうした桜が大切に保存されていることからも木曽義仲が信州でどれほど愛されているかがわかります。朝日将軍と称された木曽義仲の足跡を追いながら美しき木曽路から天下に名をあげた武将に思いを巡らす旅でした。