桜に蕎麦に温泉も!甲州塩山に武田信玄ゆかりの名刹をめぐる。

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山梨県甲州市塩山はかつて独立した塩山市だった地域で、現在は甲州市の西部・中部を占める歴史とフルーツの街です。「塩の山」に由来し、「四方から見える山」の意で「しほうのやま」が「しほのやま」に転じたといいます。しお平安時代の『古今和歌集』には、おめでたい歌として「志ほの山(塩ノ山) 差出の磯に住む千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく」と詠まれ宮廷歌人の憧れの地となったと言われ、差出の磯ともに歌枕として知られます。武田信玄ゆかりの史跡や自然に恵まれた塩山で桜を愛でながら武田家の夢香る聖地、戦国の名将信玄公が生きた塩山を巡ります。

甲府から電車に乗り塩山に向かいます。JR中央線の塩山駅が中心的な玄関口。この時期は『美しの郷 祈りの道 塩山』と題して周遊バスが走っています。春のルートは「古刹回廊」で塩山駅南口から恵林寺-放光寺-慈雲寺と周り塩山南口に戻ってくる周遊バスです。一回300円、一日券は1000円です。※現在運行なし路線バス西沢渓谷入口行きに乗車

周遊バスなので手前の恵林寺から訪れていきます。鎌倉時代の元徳2年(1330)甲斐国の守護職だった二階堂貞藤が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢想疎石を招き開山し、二階堂氏邸を禅院としたのが始まりです。応仁の乱で荒廃しますが、武田信玄により再興されました。名刹「乾徳山 恵林寺」は武田信玄の菩提寺として知られ、明王殿には信玄と等身大の不動明王が安置されています。信玄をはじめ武田氏縁の武具甲冑、軍配団扇、高さ4mの軍旗等400点以上の品々が宝物館に展示されています。国道140号から少し入った恵林寺の南の入口に建つ総門(通称:黒門)前にはソメイヨシノが咲き誇ります。

桜並木の参道を進むと見えてくるのが四脚門(通称:赤門)です。

四脚門は慶長11年(1606)徳川家康の再建と伝えられるもので、再建時の姿を唯一の遺構で、国の重要文化財に指定されています。 構造はシンプルで、ひときわ目を惹く赤が、その意匠を気高く浮かび上がらせ、恵林寺の山号である「乾徳山」の額を門の上に堂々と掲げています。

赤門をくぐればさらに桜並木を抜けて三門につきます。

恵林寺三門には「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」というフレーズが書かれています。 武田家が滅亡しても恭順しなかった恵林寺は、織田勢によって火攻めにあいました。この「三門」の場所に立て籠もった快川国師は、今際の際に冒頭の一句を大喝一声して多くの僧侶たちの動揺を鎮めて、端座しつつ皆で運命に身をゆだねたといいます。「三門」と称するのは、涅槃に入るための三解脱門、すなわち空門・無相門・無願門の意を託して表しているからです。構造は一間一戸、楼門形式であり、小規模ながら相対的に溢れる重厚・荘厳さは、桃山文化の建築物の面影を示しています。三門前ではヒガンザクラが咲き誇り、信玄公もこれと似た風景を眺めたのかと想像するのも楽しいものです。

三門をくぐって正面に見えるのが甲州市指定文化財の「開山堂」です。

夢窓疎石(むそうそせき)、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が堂内に安置されています。中央の木彫寄木造り 夢窓国師坐像は、像高72cm、胴部は木造ながら頭部のみ塑像、玉眼入りという非常に珍しいもので、全体が布着せ胡粉地に彩色を施しています。

本堂に向かいます。

門をくぐれば右手に庫裡、左手が方丈(本堂)で奥に続いています。。庫裡は禅寺のなかでもめずらしい日本有数の大庫裡で、徳川家康によって再建された壮大な伽藍は、明治38年(1905)の大火によって焼失、現在の本堂も庫裡も明治末期に再建されたものです。方丈正面から左手に枯山水庭園の区画になり、見事な枝ぶりを持つ古い松がそびえています。

庫裡から300円の拝観料を払って方丈庭園の渡り廊下を通ると、「うぐいす廊下」があります。

日本の古来の建築物に見られる、人が床の板の上を歩く事によりきしみ音が鳴る様につくられた仕組みを、うぐいす張りといいます。外部侵入者の危険探知の為に設けられたのがはじまり。廊下を歩くと、うぐいすの鳴くような音?が聞こえてきます。

うぐいす廊下を抜けると奥の明王殿には、武田信玄公が比叡山より大僧正の位を受けた際、記念像として京都より仏師の斎藤康清を招き、31歳だった生前に対面で摸刻させたという、等身大の不動明王が安置されており、「武田生不動」として尊崇されています。(※撮影禁止)また1573年、53歳で亡くなった信玄公はここに眠っています。 そして徳川幕府の側用人だった柳沢吉保公の墓所もあります。正室・定子の墓石も並んでいます。自らの出自が信玄公と同じ甲斐源氏の一族、武川衆であることを強く自負していた吉保公の想いをくんで、柳沢家の大和郡山への転封にあたり、吉保公夫妻の墓所のみ、恵林寺に設けられています。写真は柳沢吉保公霊廟で木造彩色 柳沢吉保坐像が納められています。正徳元年81711)に制作され、恵林寺に奉納されました。

国指定名勝の庭園は池泉回遊式庭園で、今日、恵林寺の庭園は、京都嵯峨野の天龍寺、嵐山の西芳寺(苔寺)庭園とともに、夢窓疎石の代表的な築庭庭園として有名です。700年近い歴史を経たその姿は、四季折々に違った情景をみせ、池を中心に築山、滝、石などが配され、自然の小宇宙を想像させます。夢窓国師の庭は見るための庭ではなく、坐禅を行うための庭といわれています。庭の正面、滝左手の荒々しい石組みは夢窓国師が修行した乾徳山の頂上を模しています。また滝の流れる音は、一定のリズムがあり、かつ不規則性もあるからこそ無音よりも雑念が湧きません。昔から「樹下石上」といい、禅僧は山に入って坐禅を組みました。風が吹き、木々は揺れ、川の水音が聞こえる坐禅に適した環境を、山に行かずに体験できる庭を造ったのです。

因みに心字池の中ほどの島は亀を、その上に植えられた松は鶴を表し鶴亀蓬莱島といい江戸時代に造られたとのこと。また滝の奥の築山は明治38年(1905)の大火後、再建するときに向こうに民家が見えたので土盛りをして直したといい、時代ごとの流行を取り入れたお庭です。BSNHK「村雨さんと日本庭園たしなみ巡り」で取材されていました。

甲州市の塩山地域には「セギ」と呼ばれる用水路があります。この一帯は昔から水の便が悪かったことから、笛吹川の水を引き込む水路網を水が淀みなく流れるように等高線に沿って実にうまく設計されて造られました。まず北から南に流れる笛吹川から取水して、東に向かう主流を造り、その主流から南に向かう分流を何本も引き、網の目のように張り巡らせて、笛吹川から離れた場所にも水を分配しました。笛吹川からの給水は平安時代に遡るとされ、江戸時代には既に整備されていたようです。恵林寺の日本庭園にもセギの水を引き込んでいます。夢窓礎石が恵林寺の開山を機にこの地のセギがつくられたという説もあります。恵林寺からセギ沿いの古道を300mほど歩いて放光寺に向かいます。

武田信玄の時代には、武田家の祈願所となっていたのが「高橋山 放光寺」です。元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた新羅三郎義光の孫にあたり、義清の四男である甲斐源氏の安田遠江守義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立したもので、花の寺として有名です。総門には正方形の「梵字で書かれた不動曼荼羅」が掲げられていて、ソメイヨシノが彩りを与えています。

参道を進むと仁王門が現れ奥に本堂が現れます。天正10年(1582)、武田氏滅亡のおり、隣の恵林寺と前後して織田贅の兵火を受け焼失。現在の建物はその後のもので、仁王門(写真)、愛染堂は天正年間(1573~1592)7に再建。庫裡は慶長年間(1596~1615)、本堂は柳沢吉保の援助を受け保田若狭守宗雪が寛文年間(1661~1673)に再建しました。安置されている金剛力士像は、鬢だけを剃り残してもとどりを結いあげている姿は全国に例がない。作者については寺伝に「南京彫工淨朝」と記され、鎌倉時代初頭に奈良を本拠とした奈良仏師の成朝と考えられています。京都を離れて奈良に下り、興福寺の復興に努めた大仏師です。

本堂は桁行9間、梁間6間、一重入母屋造、銅板葺で、禅宗の方丈型です。平面は南北に2列、東西に3列の6室からなり、南側に広縁、東西両側に入側を設けています。南面の中央は、板敷、その奥が仏間です。仏間は来迎柱前面に須弥壇が設けられ、本尊を祀る厨子が安置されています。建物の周囲に切目縁を囲し、正面に擬宝珠高欄をつけています。

銘文によると建久2年(1191)に開基である安田遠江守義定が奉納し、その後数度改鋳され、武田信玄の時代には甲府躑躅ヶ崎の館の陣鐘として用いられていましたが、天正10年(1582)武田氏滅亡にともない当寺に返されたと伝わります。総高105cm、口径56cm

駐車場の周りには桜と花桃が競演して見事です。

恵林寺近くに佇む「蕎麦 そば丸」で、蕎麦打ち歴30年の店主が打つ絶品の二八蕎麦をいただく。新潟県から移築した古民家を改装し、玄関にある米俵を載せた大八車に店主の想いが表れている農家風店舗は、玄関が訪れる人を温かく迎え入れてくれます。

旧家の柱や梁を巧みにリユースした風情ある店内は、天井が高く開放的で、間接照明で明かりは落とされていてとても居心地が良い。

そんな店内で供される店主が打つ二八そばは、蕎麦を八ヶ岳山麓信州富士見町の蕎麦生産農家から直接仕入れ、幻の蟻巣石の臼でゆっくり丁寧に挽き、丹精込めて打たれています。 細打ち二八そばを富士山の竹で編んだざるにもり、わさびは信州安曇野産、返しの効いたもり汁と店主のいこだわりがつまった逸品です。

近くにある松尾神社は、祭神として大山咋命をはじめとする六柱を祀ることから六所明神とも呼ばれている地元松尾の郷社です。境内には、日本武尊が武蔵へ向かう途中にここで休んだという「褥塚」があります。本殿裏手の土塁はかつて恵林寺の裏まで続いていたといわれ、恵林寺を開基した二階堂氏の屋敷跡とも伝えられています。

この近くには2軒のワイナリー「機山洋酒工業」と「五味葡萄酒」があります。

放光寺から周遊バスに乗り慈雲寺バス停で降ります。バス停から歩いて5分のところに「天龍山 慈雲寺」があります。大菩薩嶺山麓の標高570mに位置し、南北朝時代の歴応年間(1338~1342)に夢想疎石によって開創したと伝えられる臨済宗妙心寺派の寺院です。身装疎石は甲斐・平塩寺で修行した臨済僧で近くでは恵林寺を創建しています。

地域教育発祥の地ともいわれ、江戸時代末期、当時の住職である白巌和尚により寺内に私塾(寺子屋)が設けられ近隣の子供たちに開かれました。この寺子屋に樋口一葉の父・則義が通っていたことから境内には幸田露伴が碑文を書いた一葉の文学碑があり、山門の傍には一葉の胸像もあります。

慈雲寺といえば推定樹齢300年超えのイトザクラ。幹の目通り3.2m、樹高15.0m、枝張りは東西20m、南北18mの巨大な糸桜で、元禄4年(1691)の堂宇再建時に植えられたものと伝わることから、樹齢おうおそ330年と推定されています。

本堂を覆うように咲く姿で知られ、多くのカメラマンが訪れています。

慈雲寺にイトザクラは花色が非常に濃く、また枝ぶりも大きく、枝垂れた枝の先端は地面にまでたっしています。見上げれば花のシャワーを浴びるがごとく東西南北に枝から桜色の花を糸を垂らすかのような姿は雅やかです。

境内は立派な白壁で囲まれており、菜の花の黄色と白壁越しにみるイトザクラは黄色と白色とピンクの競演が目にも鮮やかにコラボレーションしています。

慈雲寺バス停から塩山駅南口まで戻ります。徒歩10分のところにあるのが塩山温泉郷です。塩ノ山(標高556m)の東南麓に位置し、後亀山天皇の康暦2年(1380)に向嶽寺を開いた抜隊得勝が発見したと伝わります。向嶽寺の門前には16軒の湯宿があり、青梅街道街道沿いの宿場町でもあり大菩薩峠を越えて訪れる湯治客も多く入浴客は年間1万人を超えていました。明治時代になり温泉の経営は民間にうつり、現在5件の温泉宿が営業しています。武田信玄の隠し湯とも伝わり、やわらかな肌触りの美肌の湯として親しまれています。写真は塩山駅北口の武田信玄像

泉質は弱アルカリ性単純硫黄冷鉱泉、泉温23.8度で源泉は「元湯 慶友館」の隣にあります。日帰り温泉施設はありませんが、日帰り入浴を受け付けている旅館があります。訪れたのは「宏池荘」で塩山温泉で唯一露天風呂を持ち、公衆浴場としても営業している宿です。※閉業

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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