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北に鳥海山、南に月山を望み、雄大な庄内平野の中央を流れる最上川の河口に開かれた街、酒田。酒田はかつて山形の物資集積地、北前船の中継基地として「西の堺、東の酒田」といわれるほど栄えた町。そんな酒田は「三十六人衆」と「北前船」を抜きに語れません。中世から貿易の中継地だったこの地で廻船問屋を営む商人たちが行事と町政を司る自治組織を形成し、港の繁栄と町人文化を支えた三十六人衆。そしてここ酒田は江戸期、河村瑞賢が整備した北前船の西廻り航路の重要な寄港地となりました。『荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~』として2017年日本遺産に認定され、豪商の町家や史跡などが数多く残り、繁栄当時の様子を今に伝える酒田の町を歩きます。

酒田の歴史は、遠く鎌倉幕府誕生の時代に遡ります。文治5年(1189)源頼朝の武力が奥州に及んで、三代百年の栄華を誇った平泉藤原氏が没落、藤原秀衛の妹・徳の前(徳尼公)が秋田から羽黒山の麓の立谷沢に移り、その後酒田に落ち延び、最上川南岸の袖の浦(現在の飯盛山)に尼庵(泉流庵)を結びました。その際付き従った遺臣36人の勤仕のもと藤原一門の菩提を弔いつつ生涯を過ごしたとされます。徳尼公没後、36人の遺臣は袖の浦で船問屋を営み、彼らの子孫がのちに「酒田三十六人衆」と呼ばれる大商人となり、自治組織を担ったといいます。永正年間(1504~1521)から慶長年間(1596~1615)にかけて、最上川左岸にあった街(向酒田)を、酒田三十六人衆が中心となって現在の右岸(当酒田)に移したといいます。最上川の洪水による流路の変化とともに船着き場としての条件が悪くなったためです。

江戸中期から明治30年代にかけて、現在の大阪と北海道を日本海経由で結ぶ多数の廻船(商船)がありました。単に荷物を運ぶ船ではなく、寄港地で商品を売買しながら航海する、いわば「動く総合商社」でした。千石船で1年に一往復しただけで、船頭の才覚によって千両(現代価値で1億に相当)の利益をあげたといいます。瀬戸内地方から見て日本海は北にあることから、この船は「北前船」と呼ばれました。寛文12年(1672)、幕命を受けた江戸の商人、河村瑞賢が、最上川流域に天領(幕府領)の年貢米を、河口の酒田港から大坂を経由して江戸に至る、西廻り航路を整備したことが酒田の繁栄のい契機となりました北前船は「上り」が日本海沿岸から関門海峡、瀬戸内海を通って大坂へ向かい、「下り」はこの逆です。これによって日本海沿岸の諸大名も、大坂まで米を直送するようになり、さまざまな物資の輸送ルートになりました。酒田には北前船の時代、年間3000艘もが入港したといい、最上川舟運を利用した内陸部の米や紅花、青苧などの商品作物を一手に扱い、飛躍的に発展しました。

写真は日和山公園に立つ河村瑞賢像。江戸時代前期に活躍した幕府の御用商人。貧農の子でしたが、江戸に出て人夫頭・材木商として資産を増やした後、土木家として幕府の公共事業に関わる。人口急増により米の需要が増した江戸に向け、年貢米を安全に届けるための航路を開きました。

そんな北前船の歴史を引き継ぐ施設ともいえる酒田の一番人気観光スポットが、ケヤキ並木が彩る酒田のシンボル「山居倉庫」です。明治26年(1893)に最上川と新井田川の中州に旧藩主酒井家によって建てられた山居倉庫は、江戸時代に米の積み出しで栄えた庄内で今も現役の米穀保管庫です。大正時代には、倉庫の前の船着場は、最上川の支流新井田川で、舟運の重要な拠点になっていました。NHK『おしん』のロケ地でもあります。倉庫と市街を結ぶ新井田川にかかる「山居橋」のたもとに着くと、左右にのこぎりの歯のような屋根が連なる黒い倉庫が見えます。橋の袂には屋形船みずきの乗船場があります。

並んでいる白壁・土蔵造りの全12棟のうち9棟が今も農業倉庫として使われ、残りは土産物が揃う酒田夢の倶楽の2棟と庄内米の歴史などを紹介する庄内米歴史資料館として利用されている。この倉庫は、室内の風通しをよくし、温度があがらないようにするために二重屋根になっているのが特徴で、木の梁や柱で支えられた倉庫内は奥行きがあり、合掌窓から入る陽光が心地よい空間です。

しかしながら今では、歴史的遺産よりも倉庫西側の欅並木のほうに人気があります。この並木は、本来強風や倉庫にかかる西日を防ぎ、冬の強い風から日光から蔵を守るために植えられたもので、倉庫の黒壁に映る木漏れ日が美しい。JR東日本「大人の休日倶楽部」舞妓篇で吉永小百合さんが歩いてポスターになった場所です。“旅先の歴史を知るいちばんの近道は、寄り道かもしれませんね”と吉永さんが山居倉庫の黒板塀とケヤキ並木が美しく調和する石畳の道を歩いています。

酒田の歴史は本間家の歴史といっても過言ではありません。三十六人衆の一人でもある本間家は、有名な酒田の大地主で、戦前まで現在の酒田市のおよそ半分の田畑を所有していた「日本一の地主」でした。基礎が築かれたのは本間家第3代四郎三郎光丘の時代。後に歌で「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と唄われる俗謡までになった酒田の豪商、本間家。その本間家中興の祖として知られる三代当主光丘は砂防林のクロマツの植林、新田開発、貧民救済事業など町の発展のために惜しみなく私財を投じ、その業績と美談は、いまだに語り継がれています。「本間家旧本邸」は、光丘が幕府巡検使一行の本陣として明和5年(1768)に建築し、庄内藩に献上したものです。その後本間家が拝領し本邸として使用、2000石旗本に相当する格式の長屋門構えの桟瓦葺平屋書院造り武家屋敷と、その奥にある商家造りがひとつ屋根の下にあるという珍しい構造になっています。家屋敷部分は本間家の人々が使うことはなく、隣接して一体となっている商家造りの部屋で質素に暮らしていたといいます。庭には諸国より北前船で運ばれた銘石が配置され、玄関先の「臥龍の松」は樹齢400年以上を誇ります。

本間家には本邸のほかに別荘(本間美術館本館と庭園)もあります。本館の京風木造建築の「清遠閣」は本間家の4代当主光道が文化10年(1813)に藩主が領内を巡視の折に迎えるために休憩施設として築造。その後、大正天皇を迎える迎賓館として一部2階建てに改築。手漉きのガラス窓や御座所のシャンデリアなど大正ロマンが偲ばれます。また鳥海山を借景とした庭園・鶴舞園は「見事」の一言です。昭和22年(1947)私立美術館として開館しています。

本間家旧本邸の並びには、井原西鶴の『日本永代蔵』に登場する酒田を代表する廻船問屋「旧鐙屋」があります。本間家とともに酒田三十六人衆の一人として酒田の発展につくした豪商 池田惣佐衛門が営む鐙屋は別格の廻船問屋。『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入、惣佐衛門という名をしらざるはなし」と紹介されるほどでした。玄関を入るとすぎ帳場があり、人形が当時の様子を再現、いまにもやり取りする声が聞こうそうです。奥台所には『日本永代蔵』の挿図を参考に、使用人が働く様子や商談成立後の祝い膳として出された料理が再現されています。メニューは「鯛の浜焼き・平目の刺身・野菜と蛸の煮物・なめこ汁・漬物・ご飯」とお酒が基本だったといいます。現在の家屋は弘化2年(1845)に再建されたものです。

酒田市内には、豪商たちのお店や邸宅だけでなく、商人たちが商談し、豪遊した料亭が残ります。そに歴史と伝統からも、往時の商人文化がうかがえます。まずは「相馬楼」へ。昔のガス灯を彷彿とさせるレトロな街灯が立つ、石畳の小路。ひときわ目を引くのが、江戸時代に賑わった料亭「相馬屋」を修復して平成12年、舞妓茶屋として開樓した建物「舞妓茶屋 相馬楼」の紅花色の塀と趣のある茅葺きの門です。現在残る建物は、明治27年(1894)の庄内地震で焼失した後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもの。

酒田は江戸時代から「北前船」の寄港地として繁栄し、「西の堺、東の酒田」と謳われてきました。船を下りた船乗りが羽を伸ばす遊所も3ヵ所あり、中でも今町(現在の日吉町付近)は格式を誇り、豪商や豪農、船主などが商談や接待に使う高級料亭が並んでいました。宴席に花を添えるのが、踊りや歌、三味線など、大正から昭和初期にかけての最盛期には、芸妓は100人を超えていました。しかし、戦後、時代の変化とともに徐々に芸妓も減っていき、このままでは料亭文化の灯が消えてしまうと、平成2年に酒田の経済界が中心となり、「舞娘さん制度」を創設し伝統ある料亭文化の灯がつながりました。写真は玄関に入ると目を奪われる豪華な松竹梅、扇、鼓をデザインした金箔のレリーフ。

館内を案内図に従って見学します。お客さま同士が鉢合わせしないよう、配慮されているため、間取りが複雑なのが特徴。かつては密談にも使われた部屋。紅花で染めた畳が美しい。山形の“紅花”は北前船で上方に運ばれ、京で口紅や友禅染めなどの材料となり、江戸時代には同重量の金と同じ額で取引されるほどの高級品でした。

手入れが行き届いた中庭。コケの緑と欄干の赤が引き立て合う。

演舞が行われるのが2階の大広間。かつて酒田の商人たちが宮廷晩餐会を模して宴会を催し、「不敬である」と問題になった「相馬屋事件」の舞台です。今では、JR東日本「大人の休日倶楽部」舞妓篇のCMでは「相馬楼」で酒田甚句“ほんまに酒田はよい湊、繁盛じゃおまへんか”とのシーンにあわせて『荘内なのに京ことば、その謎をどうしても知りたくなりました、考えぬいて。』と流れています。演目は「庄内おばこ」と、季節の踊り、「酒田甚句」の3演目。お祭りの際にも踊りながら唄われる民謡「酒田甚句」では、“船はどんどんえらい景気 今町船場町興屋の浜 毎晩お客はどんどんシャンシャン”と湊町の繁栄ぶりが唄われています。

石畳が続く舞娘坂を日和山方面へ上ると下日枝神社の裏参道へ。裏参道の鳥居は瓦が載った珍しい造り。てっぺんに三角形の屋根がある独特な形の「山王鳥居」で合掌鳥居とも呼ばれます。西郷隆盛が書いた神額が掲げられています。

下日枝神社は通称「下の山王さん」と呼ばれ、酒田産土神、酒田まつり(山王祭)の主神です。現在の社殿は天明4年(1784)に本間光丘によって建立されました。このとき光丘は日和山や港に至る参道を作り、ここを拠点に砂防林の植林を始めます。風砂の被害に悩まされていた酒田の人々のために光丘は私財を投じてこの地に松林を定着させました。

山王の社の豊かな緑に囲まれた随身門、社殿などいずれも素晴らしい規模と細工を誇ります。現在の随身門は天明7年(1787)本間光丘建立のものが明治27年(1968)に発生した酒田大地震で倒壊後、8年かけて明治35年(1902)に本間光輝が再建した建物で、入母屋、桟瓦葺、三間一戸、八脚楼門二層総欅材、上層部には東郷平八郎揮毫「至誠通神」の扁額が掲げられ、下層部には太玉命と戸屋根命の神像が安置されています。門の中央で柏手を打つとこだまが返る「鳴き天井」で、反響の大小により神意を伺ったともいいます。

最上川河口近くの日和山公園は、かつて北前船の船乗りが出港前に日和を見た公園。今も酒田港や最上川河口を一望できます。日和山六角灯台は、対岸の最上川左岸河口の宮野浦に明治28年(1895)に置かれ、その後北岸の大浜に築され、さらに昭和33年(1958)高砂に近代灯台が完成するとともに現在地に移築保存された木造灯台としては最古のひとつといわれる洋風灯台です。棟梁は佐藤泰太郎といわれています。

また公園には文化10年(1813)に設置された常夜灯や船頭たちが使った方角石を見ることができます。写真の常夜灯は、高さ約3m、文化10年(1813)酒田港に出入りした船頭衆と廻船問屋衆が船の安全を祈願して寄進し、灯台として日和山の高台に建てられました。もともと方角石のある東屋の所に立っていました。天保後期の「塞道絵幕(大壽和里大祭事)ー酒井候御安堵祝宴ー」にも描かれています。金毘羅大権現、天照皇大神宮、龍王宮と刻まれ、西廻り航路紀州・羽州加茂・羽州酒田や高田屋嘉兵衛、酒田の廻船問屋である鐙屋・根上・柿崎などの文字が見えます。

公園の入口から階段で降りると日本海沿岸をかたどった池があり、北前船(千石船)・日和丸が浮かんでいます。実際の大きさの二分の一縮尺で再現したものですが、真っ白な帆が青空にたなびく様子には勇ましさを感じます。米を1千石(重さ150t)積むことができるので千石船と呼ばれました。4月になると池の回りに400本もの桜が咲き競い、千石船の美しさが一層際立ちます。

また『おくのほそ道』で酒田を訪れた松尾芭蕉をはじめ、多くの文人墨客に碑も点在していて、園内の全長1.2kmにわたる散歩道には29基の文学碑が建てられ、ちょっとした文学散歩も楽しめます。芭蕉は元禄2年(1689)6月13日(陰暦7月29日)に鶴ヶ岡の内川河岸で乗船して酒田港へ下り、藩医で酒田俳壇の中心人物、伊藤玄順(俳号不玉)宅を宿とし、滞在中の歌仙興行の折、園内の歌碑にある「暑き日を海に入れたり最上川)と詠んでいます。本間家旧本邸や旧鐙屋など、多くの廻船問屋が並んでいた本町通りには、伊藤不玉宅跡や不玉の弟子近江屋三郎兵衛宅跡があります。

日和山の南東は、かつて台町と呼ばれ、往時には料亭も数多く並んでいました。今も料亭文化華やかりし時代の面影を残す建物が、観光施設として活用されています。そのひとつが、日和山公園のすぐ近くにある「日和山小幡楼」です。前身は明治9年(1876)に創業した「割烹小幡」で、眺望の良さから「瞰海楼」と呼ばれ、政財界の大物に愛されました。木造2階建ての和館は、庄内地震の被害を免れた貴重な建物。隣接する洋館は、大正11年(1922)にフランス料理店として開業し、平成10年の閉店後、映画『おくりびと』のロケ地となりました。

 

改修工事を経て、令和3年に飲食施設としてオープン。和館1階の「ヒヨリベーカリー&カフェ」の店内に入ると、焼き立てパンのいい香りが漂ってきます。写真はカフェスペース

2階の交流スペースからは酒田港が一望でき、洋館はレストランとして営業しています。

日和山小幡楼を出て前の桜小路の坂を下っておくと左手に山王くらぶの建物が目に飛び込んできます。「山王くらぶ」は、明治28年(1895)に開業した料亭「宇八樓」という竹久夢二も逗留した酒田を代表する規模と格式をもった元料亭。いくつかの経緯を経て平成20年(2008)に酒田市の歴史や文化を伝える山王くらぶとして開館しました。本市で一、二を誇った老舗料亭にふさわしく、各部屋ごとに違う組子細工の建具と障子の意匠、床の間などの銘木をふんだんに使い、細微まで凝りに凝った料亭建築の粋が見事です。北前の笑顔船がもたらした往時の繁栄と富を実感できる豪壮な建物です。

また日本三大つるし飾り(柳川のさげもん・稲取のつるし飾り)のひとつである酒田傘福を常設展示しています。特に2階にある「傘福の間」はその名の通り、これでもかといわんばかりに多くの傘福が吊るされていて、圧倒されます。酒田傘福は、家族の健康や商売繁盛、豊漁などの願いを込め、天蓋幕を張った番傘に、着物の端切れなどで作った農作物や魚、動植物などを吊るして、色とりどりに飾ったものです。なかでも宝づくしの傘福は祇園祭の賑わいを酒田にも取り入れたいと本間光丘が京都の人形師に作らせた山王祭の山車・亀笠鉾に由来しています。傘福がまとう優美さにも、北前船が運んだ京都の文化が息づいています。

天井から吊るされた鮮やかな傘福。飾り1つ1つにさまざまな意味や願いが込められています。

酒田の豪商は、寺社仏閣の守護にも力を注ぎました。浄土真宗の古刹「浄福寺」です。本間光丘が、寛政12年(1800)に寄進したのが、浄福寺 唐門です。京都の東本願寺大谷祖廟を模して、「四脚向唐門」という建築様式の総ケヤキ造の流麗な門です。

京都や近江の大工を呼び寄せて造らせた透かし彫りのある門扉、獅子や象などの繊細な彫り物などは、目を見張るばかりの流麗さです。

酒田駅に戻ります。

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