前回桜井市の「佛教傳来之地碑」から「崇神天皇陵」までの約8.5kmの山辺の道を歩きJR柳本駅から帰路についた後半、残りの半分長岳寺から「石上神宮」を目指す天理駅までの7.6kmを歩きます。
その前に前回山辺の道から逸れる(徒歩15分)ことから訪れられなかった定型化した最古の形式の大型前方後円墳として知られる「箸墓古墳」に寄るため一駅手前のJR巻向駅で下車します。「箸墓古墳」はホケノ山古墳とは違い、こちらはこんもりとした森が鎮座するような存在感のある大きさで、全長約280m、後円部の直径150m、高さ約30mという巨大前方後円墳です。手前に「箸中大池」と呼ばれる湖面を配した景観は美しく、定型化した大型前方後円墳としては最古式とみなされる。『日本書紀』の「崇神紀」には、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命として登場)が箸墓に葬られたことが記されている。三輪山の神・大物主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が、実は夫が白い蛇だったということを知り、驚いて尻もちをついたところ箸で陰部を突き刺してしまい死去したとされる。ゆえに「箸」墓と呼ばれるとか。昼間は人、夜は神が昼夜兼業で「大坂山」から石を手渡しで運んで造ったとの伝承が残ります。「大坂山」とは現在の二上山で、そこから箸墓まで直線距離で13km、最近の調査では大阪府柏原市の芝山というところから運ばれた石であることが判明したそうで、それだとさらに遠くなります。相当な動員力で一皇女の墓にしては立派すぎるとのことから、卑弥呼の墓ではないかという説も多いが、果たしてどうか。この場所に立ち、五感を研ぎ澄まして、ミステリアスな想像を膨らませてみるのも一興です。
改めてJR柳本駅から出発です。柳本駅を出てまっすぐ東へ歩くこと10分で左手に「黒塚古墳」が現れる。黒塚古墳は全長130mの前方後円墳で、1998年の発掘調査では、未踏窟の竪穴式石室から卑弥呼が魏より贈られた鏡ともいわれる三角縁神獣鏡33枚と画文帯神獣鏡1枚が出土しました。一つの古墳からの出土数としては全国最多で、邪馬台国の所在地論がからみ、一躍脚光を浴びたとのこと。築造は3世紀後半から4世紀前半ごろ、柳本古墳群に属する古墳で、大和政権の有力人物の墓とみられているらしい。当時の姿をほぼ良好に残していると言われており、周濠の池に映る姿は優美である。柳本は興福寺の荘官の楊本氏が治めていたが、その後黒塚古墳は中世、戦の砦城として楊本城となり、江戸時代には、大和柳本藩として織田信長の弟・長益の息子で織田尚長が初代藩主になり、黒塚古墳は柳本陣屋として利用されていました。
隣には天理市黒塚古墳展示館があり、ドラマ「鹿男あおによし」にも何度も出てきたところです。綾瀬はるか演じる藤原先生が熱く語った33枚の三角縁神獣鏡の一枚一枚の図柄が楽しめ、当時日本には知られていないラクダや、中国の神仙思想の影響を受けた崑崙山に住む、不老長生の神々「西王母」と「東王父」がはっきりと描かれたりしていて面白い。
そのまま国道を渡り長岳寺から「山の辺の道」後半のスタートです。出発地点の山の辺の道沿いに佇む高野山真言宗「釜ノ口山 長岳寺」は天長元年(824)淳和天皇の勅願で弘法大師空海が大和神社の神宮寺として創建されたと伝わる古刹。釜口山上にあるところから俗に釜口のお大師さんと呼び親しまれ、信仰を集めてきました。猫がいる(しかしこの寺は猫だらけです)大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道を行くと、二層になった門の上層が鐘を突く鐘楼になった珍しい建築様式で、我が国最古の美しい鐘楼門に突き当たります。平安時代の端正な杮葺きの鐘楼門は唯一の創建当初の遺構です。
12000坪の広くて静かな境内の中で、木立が包む放生池越しに見る紅葉の本堂は「日本の紅葉百選」に選ばれていて、池に鏡のように紅葉が映り込む景色に心が奪われます。
本堂の須弥壇には、仁平元(1151)年に作られた阿弥陀三尊像が安置されています。中尊に阿弥陀如来と両脇侍の観世音菩薩と勢至菩薩の三尊です。堂々とした姿や美しく写実的な表現は鎌倉時代の作風の先駆けとして、運慶、快慶に代表される慶派にも大きな影響を与えています。仏像の目に水晶の板をはめ込む技法である玉眼を使用した仏像としては日本最古の仏像です。また紅葉の時期ご開帳されるのが、江戸時代初期の作で、狩野山楽筆とされる「大地獄絵図」です。九幅の絵からなり、全てを合わせると高さ3.5m幅11mにおよぶ大作です。三途の河、八大地獄、十王裁判図などが画面いっぱいに描かれ、圧巻です。絵解き説法といって、この絵を使って長岳寺の僧侶は人々に説法をおこなっていたのです。
長岳寺の池をめぐる道がそのまま山の辺の道へつつながります。山手にさしかかると果樹園の彼方に二上山が望め、道沿いに柿本人麻呂の歌碑「あしひきの山川の瀬の響るなへに 弓月が嶽に雲立ち渡る」が立つ。歌に詠まれた弓月が嶽とは、巻向山の峰のひとつです。
このあたりから衾田陵までかつて衾道と呼ばれた葬送の道で、柿やみかんの樹々ごしに龍王山が浮かび、妻の亡骸を葬るため歩いた柿本人麻呂の悲しみが伝わってくるようです。「衾道を引手の山に妹を置きて 山路を行けば生けりともなし」と万葉歌碑がぽつんと佇んでいます。この万葉歌で詠まれた「引手の山」が、この歌碑から仰ぎ見る青垣の山々では一番高い龍王山です。
小坊主の石像が目印の「念佛寺」の突き当たりを右手にとり、墓地の中を進むと五社神社あたりで「衾田陵」へ続く道へと分かれる。念仏寺の墓地の後方の小山も古墳。墓の上に墓が建てられている珍しい光景です。
「衾田陵」は継体天皇の皇后手白香皇女の墓とされ、全長234mの巨大前方後円墳で、宮内庁が管理する西殿塚古墳。付近に広がる大和古墳群には4世紀の大古墳が集中していますが、その中でも最大規模とのことです。横からだと古墳ならではの稜線が見て取れます。こんもりとした小山はたいてい間違いなく古墳群です。
山辺の道に戻り水路が現れたあたりから見られるのが、萱生・竹之内地区の「環濠集落」です。中世の戦乱時、外敵を防ぐため村の周囲に用水路を兼ねた水濠を巡らせて自衛した名残です。奈良盆地には多く、標高100mのここは奈良県で最も高所にある環濠集落で、集落の西側に環濠の一部が残ります。
山辺の道もこのあたりは細く、乙木集落の北端、突き当たりに奈良では珍しい茅葺きの拝殿が美しい「夜都伎神社」があります。別名「春日神社」と呼ばれ、御祭神は奈良の春日大社と同じ四神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・姫大神)を祀っています。古くは春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当地に勧請したものです。春日大社からは古くなった若宮社殿と鳥居を60年毎に夜都伎神社に下賜して使用させる伝統があり、応永13年(1406)には春日大社の第四殿を下賜されています。神社東方には、武甕槌命が鹿島から春日へと向かう際に立ち寄り、神鹿が休んだ足跡と伝えられる「鹿の足石」があります。両脇に狛犬がちょこんと鎮座していて、なんともほのぼのとした神社でハイキングの休憩場所としてちょうどいいポイントである。
左手から神社を周るように上っていくと坂の途中に天理観光農園があり、「Cafe わわ」で昼御飯をとる。穏やかな田園風景を過ぎ、石畳を上った先には、かつて江戸時代にはその規模の大きさと伽藍の壮麗さから「西の日光」と呼ばれた、「内山永久寺跡」がある。永久2年(1114)鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世院主頼実が創建したと伝わる。坊舎50、堂宇20余りを数えた幻の大寺院で、太平記によると、延元元年、建武3年(1336)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠した萱の御所があったといいます。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、寺域にはかつての浄土式庭園の跡である本堂池が残るだけです。
鏡池には後醍醐天皇が吉野へ向かう途中、追手にさとられないように馬の首を落としたところ、その首が馬魚(ワタカ)になったという伝説があります。ワタカは日本特産の鯉科の魚で、体は細長くて平たく、頭は小さく眼が大きく、体色は銀白色で背部が緑青色、別名「馬魚」とも言われています。また堤の桜は見事で池畔には芭蕉の句碑が残ります。「うち山やとざましらずの花ざかり」
長岳寺から山辺の道を歩くこと5.5Km(110分)で、最終目的地「石上神宮」に到着です。石上神宮と聞くと、山岸涼子氏の「日出処の天子」を思い出してしまいますが『古事記』や『日本書紀』にも記される、勇壮な神話に彩られた大和でも屈指の古社です。武門の棟梁であった古代豪族物部氏の総氏神で、大和朝廷の武器庫だったといわれています。ちなみに武士を「もののふ」と読むのは物部氏からきています。
「石上 布留の神杉 神さぶる 恋をもわれは 更にするかも」と万葉集にうたわれた鬱蒼とした杉の古木に境内は覆われ、神さびた雰囲気が漂う。参道の入口に建つ大鳥居は昭和3年(1928)の昭和天皇の御大典を記念して建立されました。
境内に入ると、東天紅や烏骨鶏など約30羽の色とりどりの鶏が放し飼いされ、人懐っこく迎えてくれます。鶏は古く『古事記』『日本書紀』にも登場し、暁に時を告げる鳥として神聖視され、神様の使いとされています。神鶏の鳴き声は魔除けとなり、聴くとご利益があるといいます。
祭神は建御雷神が葦原中国平定の際に帯びていた神剣・布都御魂に宿る神霊「布都御魂大神」を主神とします。『古事記』によると「東方にすばらしく美しい土地がある」と神武天皇が東征の折、熊野山中で毒にあたり壊滅寸前の危機に陥った際に、高倉下を通して高天原から天皇の元に降ろさ、「韴霊」の霊威によって蘇生したと記される故事による、抗う邪神を平らげたといわれる神剣です。大和平定後、この天剣は石上神宮のご祭神として祀られることになります。日本最古級の神社であり石上神宮は、三祭神の内二祭神がご神剣で、もう一つは、須佐之男命が、ヤマタノオロチを退治したと伝わる霊剣、「天十握剣」です。また独特な形をした名高き宝剣、「七支刀」も伝世のご神宝。4世紀に百済王より倭王に贈られたとされる鉄剣で、「この刀は出でては百兵を避けることが出来る」などと解読された銘文が刻まれている。(これは美の巨人で放映されていた)
内を奥へ進むと左手に大きな楼門が見えてきます。棟木から鎌倉時代末期の文保2年(1318)に建立されたことが判明しており、国の重要文化財に指定されています。明治時代以前は、上層に鐘が吊るされ楼鐘門とも呼ばれていました。左右に回廊が続き、塗り替えられた朱色が、周囲の緑の中でほときわ鮮やかです。
楼門前石段上の小高い丘にある摂社出雲建雄神社の拝殿は、保延3年(1137)に建立された最古の割拝殿とされ、これは内山永久寺の鎮守住吉社の拝殿を移築したものです。鎌倉時代の建造物で、中央には馬道と呼ばれる通路が設けられており、このような形式の拝殿を「割拝殿」と呼ぶ。いまでは跡形もなく廃絶してしまった内山永久寺もかつての隆盛を伝える貴重な遺構として国宝に指定されています。
楼門をくぐると目の前に現れるのが、永保元年(1081)第72代白河天皇によって寄進された宮中の神嘉殿であった国宝の拝殿です。その規模は正面七間・側面四間と大きく、神社の拝殿ですが、仏堂風のしなやかな鎌倉建築の建物です。
ここまでが5.6kmにコースで、最後に残り天理駅までは2Kmの距離を歩けば7.6Kmのの終着地点です。天理駅を目指す道沿いには、ビルにも瓦屋根がのり、欄干が付けられた建物が点在し、その中に堂々たる木造建築の天理教の本部が見える。ハッピ姿の信者たちによって本部はもちろん町の中さえいつも清掃されて清々しい。天理市が宗教都市であることを実感します。宗教の名前が市となっているのは日本でここだけです。独特の建物が醸す雰囲気に圧倒されながら商店街を抜け天理駅に到着です。
古代の官道として悠久の歴史を刻んできた山辺の道は、一方で「万葉の路」「恋の路」の貌を併せ持ちます。恋人を求めて涙にくれながら走った影媛、近江へと向かう額田王が三輪山に語りかけ、心を残したのもこの道です。古典を引用した歌碑がそこかしこに散見されますが、その多くは万葉の恋の歌です。歌碑を辿りながら山辺の道を歩くと万葉人が胸躍らせた想いが甦ります。