西行も秀吉も愛でた桜絵巻!“ひと目千本”の吉野の桜を歩く

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吉野といえば桜、桜といえば吉野。全山を覆い尽くほどの桜で知られる奈良県吉野山。紀伊山地の北端に位置し、大峯信仰登山の根拠地でもあり、修験道の霊場の聖地とされる吉野山は、平安時代、すでに日本一の桜の名所として知られ、西行は言葉のかぎりを尽くし、芭蕉は言葉を失いました。修験道の開祖・役行者が桜の木に根本道場である金峯山寺蔵王堂の本尊・蔵王権現の姿を彫ったと伝えられることから、桜は御神木として守られてきました。 昔は「一枝を伐るものは一指を切る」「木一本首一つ、枝一本腕一本」のたとえのように厳しく伐採を戒める掟があったとか。江戸時代には大名や豪商が桜に木を寄進し、吉野詣での人々も献木したといわれています。そこには日本固有の宗教・修験道が息づき、2004年7月世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されています。さくら名所100選」でもあり、日本一の 桜の名所である「吉野千本桜」。桜の花と信仰が長い歳月をかけて作りあげた風景をじっくり歩いてみます。

吉野山には古来桜が多く、ソメイヨシノの原木であるシロヤマザクラと呼ばれる山桜を中心に約200種3万本の桜が密集しています。気品を漂わせつ儚げで可憐な山桜は、おのおの下千本、中千本、上千本、奥千本と呼ばれている4箇所に密集しています。山桜は先に葉が出て花が咲くため吉野の桜の素晴らしさはなんといっても遠景にあり、多くの桜が“一目に千本見える豪華さ”という意味で「一目千本」と讃えた古人に倣い、千本桜を遠くから眺めた時の見事さは、まさに絶景。遠い昔から、日本人が憧れ、愛してきた春爛漫の圧巻の桜絵巻を描いています。

山桜は例年4月初旬から末にかけて、山麓の下千本から中千本→上千本→山頂の奥千本へと順に、尾根から尾根へ 谷から谷へと山全体を埋め尽くしてゆきます。このような咲き方は吉野山の地形が、吉野川のほとりから大峰連山の北端に位置する吉野山に達するまで一すじに上がっている為で、下千本と奥千本は標高差約530mあり、標高が上がるにつれ開花時期がずれて、南北約8kmの吉野の尾根や谷をうめる薄紅色の桜が下から上にはいあがるように咲いていくので長く見頃が楽しめます。この地形は桜吹雪にも影響し、花びらが「谷から吹き上るように舞う」と、土地の人はいいます。※吉野山という山があるのではなく、吉野川の畔から標高858mの青根ヶ峰に至る全長8kmの尾根を指します。

吉野山は、秘められたさまざまな歴史の跡も色濃く留めています。役行者ゆかりの修験道聖地、山伏を頼りに追ってを逃れ、愛する静御前と悲しい別れをした源義経の悲話や軍記物語『太平記』に描かれた後醍醐天皇が演じた南朝哀史の歴史ドラマ跡、南朝の歴史に想いを寄せた松尾芭蕉の門人・各務支考は「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠みました。またこの地に庵を結び多くの歌を残した西行法師や西行に憧れて吉野山を訪れた芭蕉、本居宣長は「菅笠日記」に春の吉野山への旅を綴っていたりと多くの文人墨客が逍遥した文学の足跡などそうです。世界遺産にも指定されたスポットを身も心も桜色に染めて、古に思いを馳せながら歩きます。

マイカー規制があるため吉野山には車で向かうことは難しく、手前の近鉄吉野線吉野口駅に車を停めて吉野駅に向かいます。吉野駅の場所は下千本。電車は桜の真っただ中に到着し、いよいよ吉野の桜旅が始まります。吉野が史書に登場するのはイワレヒコが熊野から大和へ入る途中のこと。『古事記』や『日本書紀』では「井氷鹿」という尾のある人が出てきて吉野首の先祖といったり、岩を押し分けてでてきた人が吉野の国栖の先祖だといったりします。この後、イワレヒコは橿原の宮で即位して第一代神武天皇となります。日本の黎明期を告げる頃から吉野は歴史の舞台として踊り出たのです。

ここから吉野山へは駅前から中千本行きのバスに乗り込む手段(2014年4月12日訪問時)と

昭和4年(1929)に開通した現存する日本最古のロープウェイ「吉野ロープウェイ」で近鉄吉野駅から徒歩2分のところにある吉野千本口駅から下千本尾根の吉野山駅への全長349m、徒歩では約20分かかる急坂を約3分の空中散歩を楽しむ手段もあります。窓にぶつかるほどの近さで行き過ぎる桜を見ていると、あっという間に到着します。下車後は中千本竹林院バス停まで約1.7km歩きます。

今回は吉野駅から七曲りと呼ばれるつづら折りの七曲坂一帯の下千本の華やかな桜絵巻を眺めながら徒歩で中千本を目指します。

赤い欄干が目を引く「大橋」を渡れば吉野山内。今から約700年前、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王が、鎌倉幕府倒幕にむけて吉野山で挙兵します。『太平記』によれば、6万人の幕府軍相手に、3千人の兵で1週間にわたってもちこたえたといいます。この大橋あたりは激戦になった場所で、今でも“攻めが辻”と呼ばれています。この激戦地には、敵の侵入をはばむ堀がつくられ、大橋の下にある窪みがです。お堀の上を安全に通るために大橋が架けられています。

 さらに歩くとかつては吉野山の関所であったという金峯山寺の総門(黒門)をくぐります。高麗門形式で城郭によく用いられています。昔は大名や公家といえども馬や駕籠から下り、槍も伏せて通ったという格式を誇っていた関所で、付近の坂道を関屋坂といいます。ちなみに金峯山とうのは吉野山から大峯山に至る峰続きを指し、修験道関係の寺院塔頭が軒を連ねており、それらの総門がこの黒門でした。昭和初年頃まで老桜があり、ロープウェイ山上駅から黒門付近の桜は関屋の桜と呼ばれていました。

黒門から竹林院バス停までは約1.6㎞。途中で「銅鳥居」が目に入ってきます。室町時代に再建された銅の鳥居で高さ約8m、日本三鳥居の一つ(あとは安芸の宮島・朱丹の大鳥居/大阪四天王子・石の鳥居)でもとは東大寺大仏鋳造の余った銅で建立したともいわれる。吉野山から山上ヶ岳までの間にある四つの門の一番目の門で弘法大師の筆と伝えられる「発心門」と書かれた扁額を掲げている。いわば修験道の入口にあたり、修験者はここで菩薩の心を発して俗界と訣別し、鳥居に手を触れ、「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と秘歌を唱えて入山します。

吉野駅からバスに乗っていれば、中千本口バス停からは、徒歩約5分の竹林院前の奥千本口行きバス乗場まで移動しバスを待ちます。バスで奥千本口バス停まで上るのには理由があります。最初に奥千本までバスで登り、あとは下りで見てまわる方が、全体を見渡しながら下ることになるし歩くのも楽だということです。やはり吉野山は山なのです、花見といえども山なのです。下り道で登ってくる人の「こんな急な坂とは思わなかった」という声が優越感を擽ります。

奥千本口バス停で降り、まずは「金峯神社」に向かいます。このあたりまで来ると辺りは一気に静寂さを増します。奥千本」とは、金峰神社と西行庵周辺の桜を指す言葉で、大きな群落こそありませんが、ひっそりと佇む桜は楚々として美しい。金峯神社の鳥居は修験者が通過する吉野山から山上ヶ岳までの間にある四つの門のうちの第二の門「修行門」であり、修験者はここから山中の荒行へと入っていきます。(この先山上ヶ岳まで等覚門、妙覚門の二門)

世界遺産の「金峯神社」は、吉野山の最も奥に位置し、大峰山に通じる道の途中、奥千本にひっそりと立つ古社です。金峯山とはここから大峯山にかけての総称で、古くから地下には金の鉱脈があると信じられ、鎌倉時代初頭の説話集『宇治拾遺物語』には、この山に登って金を採った男の物語が載っています。金鉱を守る「金山毘古命」を祭る吉野山の総地主神で、一名を金精明神ともいい古くから信仰を受けてきた延喜式内社です。黄金の守護神として信仰を集め、中世以降修験道の行場として知られ、『栄華物語』に藤原道長参拝の記録が残ります。

境内には、社殿の左の小径を少し下った所にある建物を隠れ堂といい、ここは大峯修行場の一つで、この塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になります。そこで神官の先導に従って“吉野なる深山の奥の隠れ塔本来空のすみかなり”と唱えながら境内を巡ります。文治元年(1185)11月、頼朝に追われた義経が身を隠し、追っ手に囲まれた際、屋根を蹴破って逃げたことからたという「義経隠れ塔/蹴抜けの塔とも言われています。

金峰神社から先は、大峯山を通って熊野本宮大社に至る厳しい修行の道「大峯奥駈道」で、その途中を右に折れ山道を登ること15分程で、奥千本に隠れるように佇む小さな庵西行庵」に出ます。『新古今和歌集』の代表的歌人の一人である西行が、吉野山の桜を愛し、俗塵を避け三年間幽居した場所と伝わり、3m四方、高さ3.3mの庵の中には西行像が安置されています。ここでは時に、周囲の谷に散った夥しい桜の花びらが風で吹き上げられ、辺りが桜吹雪に包まれるという幻想的な風景を見られることがあるといいます。西行はその情景をこう詠んでいます。「吉野山花吹き具して峯こゆる嵐は雲とよそに見ゆらん」

西行ほど吉野の桜に恋焦がれた歌人もいません。春めいてきたと聞けば、もう吉野の桜が気にかかり、わけもなく心が苦しくなり、「何となく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山」」と訴えています。彼は毎年のように吉野の桜のもとに推参し、『山家集』の「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」をはじめ、60首もの桜の歌を詠んでいます。                          「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねん」                                                                                        「あくがるる心はさても山桜散りなん後や身にかへるべき」                                   ついには                                                        「もろともに我をも具して散りぬ花うき世をいとふ心ある身ぞ」                                「願わくば 桜の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃」西行(山家集)と詠んだ歌は有名です。

とくとくと 落つる岩間の 苔清水 汲みほすまでも なきすみかかな」と西行が詠んだ苔清水も近くに残り、今も澄んだ湧き水が滴っています。西行に憧れた芭蕉は、2度も吉野を旅しました。西行の歌から名をとった西行庵の側にある「とくとくの清水」を「露とくとく心みに浮世すすがばや」と詠んでいます。

西行の歌碑や、西行を慕ってここを訪れた芭蕉の句碑がたつ。まだこの時期奥千本の桜はつぼみでした。

奥千本から道なりに下って行き、上千本に鎮まる静寂境「吉野水分神社」からが、義経伝説をもとに源氏と平氏の人間模様を描いた人気演目、歌舞伎の『義経千本桜』の舞台となる「上千本」です。

上千本に鎮まる静寂境「吉野水分神社」は、大和の式内社の水分神社の一社で、水の配分を司る天之水分大神を祀り、もとは吉野川畔とも青根ヶ峰山頂にあったとも伝えられます。大和の東西南北に祀られ、東の宇太と南に当たるここ吉野、あと葛城と都祁の4社だけなのです。また、「みくまり」が「みくばり」へ、さらに「みごもり」「みこもり」と転訛し、平安時代には子守明神とも呼ばれ、清少納言の『枕草子』にはこの名で登場しています。子授けの神として信仰を集めていて豊臣秀頼や本居宣長もここの申し子とか。江戸時代、伊勢に生まれた国学者の本居宣長はこの社に3度、最初は13歳、次が43歳、最後は70歳に詣でました。『菅笠日記』には43歳の時の旅の様子が記されています。それによれば宣長は、男児を望む父が吉野水分神社に参拝して授かった子であったと固く信じていたようです。

朱塗りの楼門をくぐると右手に本殿、正面に幣殿、左手に拝殿が配されています。これらは慶長9年(1604)豊臣秀頼により再建され、本殿・拝殿・弊殿・楼門・回廊からなる桃山時代の特色をもった美しい建物で、約2mの石垣の上に立つ本殿は三殿が一棟に連なる三間社流造りという珍しい形です。本殿には平安時代の貴婦人に模した玉依姫命の神像が安置されています(非公開)。社殿全体が国の重要文化財に指定されている神社は森厳とした雰囲気が漂います。

中庭にある大きな枝垂れ桜は「散らない桜」と称され1週間から10日も花をつけています。

尾根道下ると吉野山随一の眺めといわれる「花矢倉展望台(上千本)」に着きます。上千本の桜越しに眼下に広がる中千本、そして淡紅色に煙る山の向こうに吉野山のシンボル金峯山寺蔵王堂とその裾野に広がる下千本、吉野全山はもとより金剛、葛城、二上、高取などの連山を一望のもとに見下ろすことが出来、シロヤマザクラなどの古来種を中心に、200種3万本の桜が山一面に咲き誇る桜は絶景です。                                           風、雲、時。すべては吉野を流れてゆく。                                                        広々と、蒼々と、堂々と。吉野の山に金峯山寺はある。自然を敬い、自然に学ぶ、日本独自の精神世界を育んだ名刹。流れゆく時代を見守りながら、決して流されることのない美しい日本の姿がここにある。JR東海「うまし うるわし 奈良」より

この吉野随一の眺望の地で、義経の忠臣、佐藤忠信が追手をひとりで受けて戦った場所が花矢倉で、歌舞伎の「義経千本桜」で吉野花矢倉の角書きが付いています。言い伝えによれば、義経らが中院谷(首塚の奥の谷)に潜んでいることを吉野の僧徒らに感づかれて追手がかかると、忠信は主君を逃し、自ら義経の鎧兜を身に着けて、ひとりで応戦します。忠信は花矢倉から断崖絶壁の下の谷へ向かって、矢を雨の様に浴びせかけ、深い雪の中で血まみれになって戦ったとあります。そして敵方の豪僧、横川覚範を討ち取り近くの首塚に葬ったといいます。忠信の故事は、後に桜の季節にすりかえられ「義経千本桜」が生まれたのです。

この小さな丘には横川の覚範(実は平教経)の首塚という伝承があります。

この辺りの上下が上の千本で、俗に「瀧桜」といわれているところです。花の盛りに下の方から見上げると、あたかも満開の桜花の滝が一度にたぎり落ちるような壮観を呈するのでこの名前がつけられました。また中千本の竹林院を過ぎたあたりから見えてくる「布引の桜」はこのあたりから見下ろせます。

このあたりは川連法眼屋敷跡なのか?と思えど実は世尊寺跡で平忠盛寄進で日本三古鐘(奈良太郎、高野次郎、吉野三郎)の名鐘「三郎鐘」もあり、大晦日には中千本に位置する蔵王堂の鐘と上千本にある三郎鐘からも除夜の鐘が鳴り響き、おごそかな雰囲気の中、吉野山に新年の訪れを告げます。

こんな吉野の桜を満喫したいと中院谷へ桜に囲まれた小径を下っていきます。見上げると急斜面に咲く「高桜」が見られる滝桜展望地へ。

如意輪寺方面にさらに桜の散策路を歩きます。

如意輪寺は平安前期、延喜年間(901~923)に日蔵道賢上人によって創建されたと伝えられ、吉水神社と同じく金峯山寺の塔頭のひとつで、後醍醐天皇が勅願寺としました。延元4年(1339)後醍醐天皇の遺骸も如意輪寺裏山に京都の方向を向いて葬られ、塔尾陵と呼ばれています。天皇陵は山の南面に造られるのが慣わしですが、塔尾陵は北向きとされています。これは「玉骨はたとひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と言い残したと『太平記』に記す遺言に従ってのことです。江戸時代、御陵を配した松尾芭蕉は、荒廃した様をなげきつつ、周囲に生えるしのぶ草に掛けて、天皇を偲ぶ句「御廟年経て忍は何をしのぶ草」を詠んでいます。

そんな後醍醐天皇の意思を継いだ南朝方の武将・楠正行が正平2年(1346)大阪四条畷の戦いの出陣前に「帰らじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をとどむる」と矢尻で刻んだ辞世の歌が堂扉に残ります。写真の楠公父子の石像は、太平記で有名な楠公父子(正成、正行)桜井の別れの石像です。

宝物殿前に咲く枝垂れ桜が圧巻です。

中千本の桜の遊歩道を尾根道へ上っていきます。「中千本」とは、お茶屋や旅館が軒を連ねる吉野山の尾根道と谷の向かいにある如意輪寺との間に広がる桜の群落です。吉野山でも最も桜が多いところで遊歩道も設けられていて、尾根道から眺めるだけでなく、中千本の中を歩いたり、腰を下ろして弁当を使いながらじっくり花見ができます。ここから谷を隔てた山の中腹に目をやると淡紅色の桜をまとって佇む吉野造りの如意輪寺報国殿の姿がまた美しい。

中千本の尾根道まで急坂を登りますが、途中最奥の小高い丘の上に「五郎平茶屋跡」があります。こもあたりが中千本の、そのまた中心となるところで、桜の木も最も多く、さながら花の雲に遊ぶ思いがする。この辺りの桜は日露戦争明治37~38年(1904~1905)の戦勝記念に増殖されたものです。この広場を五郎兵衛茶屋といいお花見を楽しむ人たちの酒盛りの場でもあります。

この広場の下をまわる道が山の中腹に見える、後醍醐天皇陵や如意輪寺への昔からの参道で、坂を下った先に近衛文麿の筆になる昭憲皇太后の万葉がなによる歌碑があります。“吉野山御陵近くなりぬらむ散りくる花もうらしめりたる”

中千本尾根道沿いにまずは「竹林院」へ。弘仁9年(818)弘法大師が入峯した時に建てた椿山寺に始まると言われ、金峯山寺四律院に数えられました。大和三庭園の一つ群芳園は豊臣秀吉が文禄3年(1594)吉野山観桜のおり千利休が作庭し細川幽斎が改修したもので約1000㎡(320坪)の広さがある池泉回遊式です。池畔には「天人桜」と言われるうす紅のしだれ彼岸桜で紅と白の中間の花が咲く。吉野山内では最も長寿の老木といわれています。小径を通って高台へ上れば吉野山の春景色を一望できます。

続いて「櫻本坊」へ。古代、吉野は「はじまりの地」という意味を持つ「えしぬ」と呼ばれ、飛鳥時代末には飛鳥から南に理想郷があるとされ、都の南、つまり吉野を理想郷としてとらえられていました。壬申の乱での天武天皇のこの地での挙兵などもそういう理由であったと考えられます。

大海人皇子(天武天皇)が夢に見た桜「夢見桜」があります。壬申の乱の前年天智天皇10年(671)、吉野離宮にとどまっていた大海人皇子は満開の桜の夢を見、目覚めて前方の山を見上げると、冬だというのに一本の桜が美しく咲いていたとのこと。役行者の高弟・角乗に夢判断を命じたところ、「桜は花の王であり、これは皇子が天皇になるという吉夢」と答える。翌年その言葉通り、皇子は壬申の乱に勝利し天武天皇に。桜の木の場所に寺を建立し「櫻本坊」と名付けたと伝わります。例年の見ごろは4月上旬。

勝手神社」は吉野山山上へのぼる尾根道と如意輪寺への分岐にある、吉野八社明神の1つで、金峯山の山の入口に在り、「山口神社」とも呼ばれる。後方の袖振山は、天智2年(672)壬申の乱の折、吉野で兵を挙げた大海人皇子(のちの天武天皇)が社前で琴を奏でられた時、天女が袖をひるがえして舞ったという吉兆の伝説で知られている。この故事が宮中で行われる「五節の舞」の起こりとされ、芸事にかかわりの深い神社となりました。境内は、文治元年(1185)の暮れ、雪の吉野山で義経と別れた静御前が追手に捕らえられ、ここ勝手神社の神前で法楽の舞いで居並ぶ荒法師達を感嘆させたとの話が伝わります。社殿は平成13年(2001)に焼失してしまいました。

中千本でとりわけ日本史に縁の深い神社が世界遺産・吉水神社です。文治元年(1185)源頼朝に追われた源義経や静御前がここに潜居し、延元元年(1336)足利尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉水神社を行宮と定め南朝を開きました。境内にはその頃の後醍醐天皇が心情を詠んだ歌碑が立っています。「花にねてよしや吉野の吉水の枕の下に石走る音」吉水神社の下を流れる川のせせらぎに、寂寞たる思いを込めた歌です。

文禄3年(1594)豊臣秀吉が盛大な花見の宴を開いた時の本陣などたびたび歴史舞台に登場してきます。吉水神社は元は吉水院と称し役小角の創立と伝える吉野修験金峯山寺修験宗の僧坊でしたが、明治初期の神仏分離で現在は後醍醐天皇、楠木正成・宗信法印を祭る神社となっています。初期書院造りの傑作と言われる書院には12の部屋があります。室町時代の建築で書院の中で最も古い「義経潜居の間」や「弁慶思案の間」、「後醍醐天皇玉座の間」は豊臣秀吉の花見の際に改築されています。また「豊太閤花見の間」などがあります。

中千本一のビュースポットは太閤秀吉が文禄3年(1594)に徳川家康、伊達政宗ら総勢約5千人もの供ぞろえで盛大な花見の本陣を敷いたという「吉水神社」からの“一目千本”です。この宴が日本の花見の発祥とされているように、目の前に胸がすく山景色が広がります。秀吉はこの花見で大阪から桜を1000本取り寄せ吉野に植えたといいます。秀吉も一目千本の美しい景色に感動し「絶景じゃ!絶景じゃ!」と子供のようにはしゃいだそうです。またこの花見で秀吉は、「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りをけふ 見つるかな」と詠んでいます。また本居宣長が紀行文『菅笠日記』に吉水神社からの眺望を「此寺の内に、さざやかなる屋の、まへうちはれて、見わたしのけしきいとよきがある」と記しました。

吉水神社鳥居の向かいに多宝塔としだれ桜の東南院が。霊地霊山は霊地を開く時には中心となる伽藍を建て、そこから巽(東南)の方角に当たる所の寺を建て、一山の安泰と隆興を祈願することから金峰山寺建立時にその東南に役行者によって建てられたとされるのが東南院です。

桜見物もひと段落し参道を探訪。勝手神社からロープウエイ吉野山駅あたりまでが吉野山の中心。吉野葛の老舗「葛の元祖 八十吉」や2008年リニューアルした柿の葉寿司の「やっこ」などが軒を連ねています。嘉永4年(1851)創業の、吉野本葛の老舗・八十吉では、今も昔も凍てつく冬の寒さの中で、山中から掘り起こした葛根を砕き、清水を張った桶で攪拌するなど、自然工法でつくられた100%本葛の葛菓子、葛湯、葛餅、葛切り等を作っています。

併設の茶房“天人庵”ではオーダーを受けてからつくる葛切りと和三盆と葛でつくった珍しい生菓子、それにお抹茶つきのセット「吉野天人」をいただきます。吉野山の桜を見ながらテラス席でいただく吉野葛は、滑らかなのどごし、そのあとに続くしみじみ幸せな滋味。桜のようにあえかな味わいです。

我が国独特の山岳信仰をもとに、日本古来の神道や、外来の仏教、道教、陰陽道などが融合して成立発展したとされる修験道を開き、金峯山寺を開山したのが、飛鳥時代・天智天皇の頃(662~671)に登場する役行者(諡号神変大菩薩)です。修験信仰は神道の神と仏教(特に密教)の仏との融合が特徴であり、それを象徴するものこそ役行者が感得した金剛蔵王権現です。吉野山から24km南の金峯山山上ヶ岳で役行者は一千日修行に入り、ご本尊の出現を願いました。この祈りに対し、まず釈迦如来が、続いて千手観世音菩薩、弥勒菩薩が出現されましたが、いずれも有り難い仏尊ながら、願うは、悪魔を降伏する、濁世・乱世の衆生を救う、もっと力強い姿だとして更に念じたところ、釈迦・観音・弥勒の三尊が権化し、金剛蔵王権現という、目は怒りに満ち、牙をはみ、怒髪天を衝く猛々しい降魔調伏の仏尊が行者の願いに応えて出現したのです。このお姿を山桜に刻んで、山上の霊峰・大峰山(山上ヶ岳)とその麓の山下・吉野山にお堂を建ててお祀りしたのが金峯山寺の始まりであり、奈良時代以降、修験信仰の根本道場として名を高め、吉野・大峯の地には山林修行者が数多く入山したとのこと。金剛蔵王権現は毎年3月の東大寺修二会(お水取り)で、1万3700余座の神の名簿である「神名帳」の最初に読み上げられます。

蔵王堂の正面の石の柵に囲まれた中に植えられている四本の桜「四本桜」は、元弘3年(1333)北条方に攻められた大塔宮護良親王(後醍醐天皇の第2皇子)が吉野城落城寸前にこの桜の前で最後の酒宴を催したといわれる桜です。柵の中に青銅の灯籠がありますが、これは文明3年(1471)に妙久禅尼という尼さんが寄進した室町時代の秀作です。鮮やかな五色幕は法要や祭礼が営まれる時に掛けられます。

吉野山の尾根上にひときわ高くそびえる「金剛峯寺 蔵王堂」は、修験道の聖地・吉野山を象徴する世界遺産。役行者によって白鳳年間に 開かれた修験道の根本道場・金峯山寺の本堂で高さ34m、四方36mの重層入母屋造り・桧皮葺の大伽藍は周囲を圧する威容と優雅、重厚と軽快が不思議な調和を見せます。室町時代の天正20年(1592)に豊臣秀吉らにより再建され、木造古建築では東大寺大仏殿に次ぐ規模で安土桃山時代を代表する壮麗なもの。現在修理中の仁王門と蔵王堂は背中合わせ。つまり下界からお参りする人には仁王門が迎え、山上ヶ岳から巡礼してきた人には蔵王堂が迎えてくれるのです。堂内には高い天井を支える神代杉、欅、檜、松、梨、ツツジなどの自然の大木をそのまま柱として68本使われ、原始林の風韻を湛え、山の精を敬い、大自然の霊気の中で修行する修験道の心が満ちています。中でもツツジの木といわれる大柱は必見です。名仏や名宝が並ぶ堂内ではただ身も引き締まりますが、幡や灯明には桜紋が施されてゆかしい華やぎも醸しています。

堂内に本尊として祀られている巨大な三体の金剛蔵王権現像は、蔵王堂再建以来、秘仏とされてきた日本最大の秘仏です。三体が並び、中央が高さ約7mの釈迦如来(過去)、右側が高さ約6mの千手観世音菩薩(現在)、左側が高さ約6mの弥勒菩薩(未来)の化身で、過去、現在、未来の衆生の救済を表しています。そのお姿は他の仏像と比べても珍しく、姿が青く、金色の目を光らせ、口から赤い炎を吐くという恐ろしい様相をしています。右手の三鈷で天魔を砕き、左手の刀印で煩悩を断ち切る。左足は地下の悪魔を押さえ、右足で天地の悪魔を払う姿です。諸々の悪を調伏する忿怒の表情の中に深い慈悲もたたえる仏様です。

この時期、普段は蔵王堂内陣の奥深く、巨大な厨子の中に安置され、日本最大の秘仏とされる本尊・金剛蔵王権現3体を特別に拝観できます。希望すれば金剛蔵王権現と一対一で向き合うことができます。蔵王堂の中に三方を仕切りで囲む半畳ほど「発露の間」を作り、その中に座って金剛蔵王権現の前に坐し、心中を打ち明け懺悔します。対坐時間は10分とされています。(写真撮影禁止)                                                          青が、荒ぶる                                                        この像に、ある荒々しいその姿は、乱れた世から人々を救うための仮のお姿。本来は、柔和な仏さまであり、全身を染める青は慈悲の表れ。厳しいお顔もじっと見つめれば不思議と親しみが湧いてくる。JR東海「うまし うるわし 奈良」より写真はネットより転掲

延元元年(1336)京から吉野に移った後醍醐天皇は、蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とし、寺号を金輪王寺と改めます。「南朝」の始まりで、後醍醐天皇はここで生涯を終えますが、以後、南朝天皇は3代続きます。江戸時代、金輪王寺は徳川家康によって実城寺に戻され、明治の廃仏毀釈で廃寺に。その後に昭和38年(1963)後醍醐天皇をはじめ南朝四天皇を祀るために南朝妙法殿が建立されました。

金峰山寺「仁王門」は棟の高さ20.3mの重層入母屋造りの山門で仰ぎ見ればその壮大さに圧倒されます。蔵王堂の北に位置し、京都、奈良から訪れる人を迎えるようにどっしりと建つ。南北朝時代の創建で現在のものは延元3年(1338)頃に再建されたものといい金峯山寺で現存する最古の建造物です。峻嶮な山岳に建つ巨大な楼門ですが平成30年に着手し令和10年度の完成を目指し大修理中でした。門内の左右に安置する2体の金剛力士像(仁王像)は、高さ約5mで奈良東大寺の仁王像に次ぎ大きさを誇ります。阿形像は延元3年(1338)、吽形像は翌4年(1339)に南都の大仏師康成によって造立されました。

下千本」は近鉄吉野駅付近からロープウェイ吉野山駅にかけての山腹の桜の群落をいいます。総門(黒門)をくぐって尾根道を下り、昭憲皇太后御野立跡の碑が立つ場所を訪れます。明治天皇の后・昭憲皇太后が眺望を称したこの場所付近から一目千本と称えられた下千本が一望できます。『これはこれはとばかり花の吉野山』と江戸時代の俳人・安原貞室が詠んだのもこのあたりの眺望だと考えられています。

あとは「七曲り」と呼ばれるつづら折りの坂を下りながら下千本の群落の中を通って吉野駅に到着します。江戸前期の儒学者・貝原益軒はその著書『和州巡覧記』の中で、七曲りで村の子どもたちが売る桜苗を買って、鍬を使って自ら植えたと記しています。

途中、珍しい桜が赤い鳥居に目立つ「幣掛神社」を発見。大輪の一重と花弁6~8枚の花が同時に咲く淡い紅色の桜で別名ヒトエヤエ(一重八重)という「御車返しの桜」でした。

帰路も吉野駅から近鉄吉野線で吉野口駅まで戻ります。吉野口駅近くに柿の葉寿司をたべさせるお店があります。吉野の名物「柿の葉ずし」は新鮮な鯖や鮭を塩漬けにし、まりやかな寿司飯と一緒に柿の葉にくるんだ柿の葉寿司は古くから吉野に伝わる郷土食。吉野には役行者を侮って蛙の姿にされた男が、僧侶たちの読経で人間に戻ったという伝説があり、金峯山寺では毎年t月7日、この伝説にもとづいた「蛙飛び行事」を催しています。吉野地方ではこの蛙飛び行事の際、各家庭で柿の葉寿司を作って祝ってきたのです。

このお店のお寿司も塩味と甘みのバランスが絶妙で、いくつも食べれてしまいます。

歴史と文化が薫る奈良には、吉野山のほかにも素晴らしい桜の名所がいくつもあります。古刹とともに花を楽しめたり、古代のロマンを感じながら眺めたり。もっと古都・奈良の桜を愉しみます。『いざ、いざ、奈良』へ                     「いざいざ奈良へ。奈良のイチ推し心ときめく絶景の桜名所めぐり」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/15543

 

 

 

 

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