霊泉寺温泉は長野県上田市の郊外にある鹿教湯温泉・大塩温泉とともに環境省指定国民保養温泉地の丸子温泉郷を形成しています。近くには全国的にも知られた別所温泉がありますが、霊泉寺温泉はほとんど知られておらず、観光客もあまり見かけません。3つの温泉地の中で湯治の風情が残るひなびた温泉街に信州ならではの温泉と蕎麦を求めて信州上田・丸子温泉郷に向かうことにしました。
霊泉寺温泉の発見は、開湯伝説によれば平安時代の安和元年(968)戸隠の鬼女“紅葉”を激戦の末に退治し、戦いに疲れ果てた平維茂が、この地で世にも不思議な音楽、五彩の虹に魅かれて近寄ってみると、それはほとばしる温泉でした。そこで維茂が傷ついた体を湯で癒したところ、たちまち元気を回復し早速、弘法大師空海に命じて白山大権現と金剛山霊泉寺を建立したと伝わります。
霊泉寺の建立は13世紀後半という説もありますが、美ヶ原の北の裾、三方を山に囲まれた古刹霊泉寺の寺湯として、その後数百年間にわたって温泉は存在してきました。細々と生きながらえてきた出湯だけに古い時代の素朴さが残っています。本当に穴場のような存在なのです。
旧丸子町の中心市街地から車で15分、国道254号から鹿教湯温泉に向かう途中左折し、千曲川の支流・霊泉寺川沿いの山あいの細道を走ること2kmで、赤い欄干が印象的な橋「寺前橋」が見える。橋の向こうに文豪武者小路実篤が逗留の地(中屋旅館)としてこよなく愛した霊泉寺温泉があります。
温泉街の入口には曹洞宗の古刹霊泉寺があり、その横が駐車場になってます。境内には樹齢七百年を越える大欅があり天然記念物として温泉街のシンボル的存在です。明治38年(1905)に火災によって焼失するまでは58棟の伽藍を持っていた大寺院だったといいます。創建は安和元年(968)でその後、弘安元年(1278)平朝臣繁有を開基に霊峰源興禅師を開山として臨済宗建長寺の末寺として再建され、その後、天正二年(157)に武田信玄の助力により高井郡谷厳寺魯庵俊誉禅師を中興の開山として復興、曹洞宗の寺となりました。また本堂西側には阿弥陀堂があり、本尊の阿弥陀如来は鎌倉末期の作といわれ県宝に指定されているとのこと。
霊泉寺の参道には道しるべとなるお地蔵さまが点々と建てられていて、参詣する人々はお地蔵さまにお参りしながら霊泉寺へと辿り着き、参拝した後温泉で体を休めたのでしょう。江戸時代に入ると、温泉は寺湯ではなくなり、一般の湯治客は泊まれる宿もできてきて、近郷在住から集まる湯治客で賑わったといいます。現在では6軒の温泉宿が並ぶ静かな温泉地です。
温泉街までの道中には「稚児ヶ淵」という、昔霊泉寺にいたお稚児さんがこの池の淵で知り合い、夢中になった娘が池の中から手招きをするのを見て池に飛び込んでしまったことから、この名前が付いた青々と底知れぬ水をたたえている場所もある。
さて今回は「日本秘湯を守る会」の「和泉屋」さんにおじゃますることにした。「和泉屋」は昔ながらの湯治場のような雰囲気を残す鉄筋建ての建物で、2Fから渡り廊下を進んでいくと浴場に到着する。今回露天風呂は使用できなかったが、たっぷりの湯が心地よい天然石造りの大浴場の浴槽に身をまかせると心身ともに寛いだ気持ちになる。泉質はアルカリ性単純温泉で泉温は42度・pH8.9、お湯は無色透明のにおいのないぬるめの湯は体をよく温める。
さて信州のだいご味は温泉と信州蕎麦ということでここから3km程、鹿教湯温泉方面に国道254を走って道沿いの分かりやすい立地にある「手打ち蕎道 十割蕎麦 奈賀井」に向かう。正月2日で開いているいるのかと思いながらであったが、心配ご無用でたくさんの車が止まっていました。
上田市柳町のそば店「おお西」から暖簾分けされたお店で、更科・挽きぐるみ・囲舎そば、発芽田舎、発芽粗挽きそば等すべて同じ品揃えでメニューをだしている。キノコ栽培の作業所を改装した太い梁が印象的な店内には、籠を使った照明や戦中から使われている薬箱など貴重な品々がさりげなく置かれています。広々とした店内に一枚板の長テーブル席と一段上がった4人座卓席が6卓が、暖かい照明にてらされて落ち着きと安らぎを与えてくれる雰囲気です。看板や1枚テーブルもご主人の手づくりです。
妻と二人とも挽きぐるみ850円を頼むことにした。この店はすべての蕎麦が十割で打たれており香りが良い。十割なのにコシがありながら固くなく、蕎麦の長さもしっかりあり、喉越しがよい。口に含んだときに蕎麦の香りと甘味が膨らむ。そばつゆが麺に負けないよう返しがきいた濃いめのつゆであった。そばつゆとそば打ちの水は和田峠近くで湧き出る黒曜の水を使用、硬度20の超軟水の天然水を使用しているので、そば本来の旨味を引き出しています。
そば湯もしっかり味わえ、量もあり大満足でした。