忠臣蔵の世界を身近に!播州赤穂に四十七士ゆかりの地を散策

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日本人の心の琴線に触れ、愛され続ける忠臣蔵。時代が変わっても、人々は師走になると仇討ちの心を巡らせます。なかでも四十七士ゆかりの地としてひときわ人気の場所が兵庫県赤穗です。赤穗城址を中心に、今もさまざまな忠臣蔵ゆかりの史跡が点在する市内は見所がいっぱい。当時の時代に思いをはせ、四十七士のふるさ赤穂の静かな街並みをぶらり散歩にでかけます。

赤穗城は赤穗浪士による仇討ちを描いた「忠臣蔵」で知られる赤穗藩の城です。「忠臣蔵」は元禄14年(1701)3月14日、勅使接待約の赤穂藩三代藩主浅野内匠頭長矩が突然高家筆頭の吉良上野介義央に江戸城松之廊下で刃傷し、5代将軍徳川綱吉の命で即日切腹、領地没収の上、お家断絶。その恥辱をそそぐためその家臣たちが浪人したのちも四十七人が結束して、翌15年12月14日夜から15日にかけて、吉良邸を襲撃、吉良上野介を討ちとります。元禄16年(1703)2月4日の赤穗浪士切腹に至る一連の「赤穂事件」というもので日本三大仇討の一つとされています。後年寛永元年(1748)一連のできごとを元にした浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が大阪竹本座で上演され大ヒットし、評判となってから「忠臣蔵」と呼ばれています。時代や場所、登場人物名は巧妙に変えてあったものの、人々は50年近く前の事件を想い熱狂しました。「仮名手本」といえば文字通り「カナの手本」ということで、それは「いろは」のことで「いろは」は四十七文字です。これで最終的に討入りしたとされる四十七士を暗示しているらしい。そんなことを考えながら西宮から約120km、山陽自動車で赤穂ICおりればもう赤穂市街です。

まずは「赤穂城址」を目指します。名実ともに徳川幕府の天下が決定した後(元和偃武)に築かれた城です。正保2年(1645)に初代赤穗藩主浅野長直が常陸国笠間から石高53500石で入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶案元年(1648)から13年の歳月をかけて寛文元年(1661)に完成した城郭。本丸を二の丸が囲む輪郭式、二の丸と三の丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城で、赤穂のシンボルであり、加里屋城、大鷹城とも呼ばれ「日本100名城」に選ばれているのもうなずけます。

現在赤穂城のシンボルとなっているのが、昭和30年(1955)に復元した三の丸大手隅櫓と三の丸大手門の高麗門です。高麗門を抜けると大きな枡形があり、三の丸へ。

居城当初から城内には大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があり、現在屋敷跡は大石神社境内になっていますが、道路に面して大石良雄邸長屋門が残されており、数少ない江戸時代建築の一つです。大手門西側の一画に大石3代の家老屋敷であった大石内蔵助邸は享保14年(1729)に火災で焼失しましたが正面長屋門だけは難を逃れました。元禄14年(1701)の刃傷事件を知らせる早水・萱野の早籠が叩いたのがこの重厚な門です。間口約26.8m、奥行約4.8mの建物で、右廻り二つ巴の大石家家紋屋根瓦が元禄の昔を偲ばせる。江戸から赤穂まで、通常なら17日かかる行程155里(約620Km)を、不眠不休の早駕籠でわずか4日半で到着したといわれる命がけの旅だったのです。

本来は三之丸から本丸にいたる主要ルート上に設けられた、枡形構造をもつ厳重な切妻式櫓門であった二之丸門をくぐって二の丸に入ります。文久2年(1862)には、この付近で赤穗藩国家老の森主税が、藩政改革を唱える藩士たちに暗殺された文久事件がありました。明治25年(1892)千曲川の洪水による災害復旧と流路変更のため一帯の石垣が約230mにわたって持ち出されてしまいました。

赤穗城は、東を流れる熊見川(現在の千種川)が形成した三角州の先端にあり、かつては二の丸の南側半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面していて海を強く意識した海城でした。二の丸南側の水手門には船入があり、船が出入りできるようになっていました。同じく二の丸の東南隅には潮見櫓と呼ばれる海上監視を目的とした二重櫓も建っていたとのこと。門前には船着きの雁木と波よけの突堤が城壁から突き出しています。時代的にも戦を意識して築城されたものでないのでのどかな印象が漂うのも特徴です。発掘調査により復元された水手門から荷揚げされた米などの物資は、門の内側にある米蔵・番所に納められていました。

城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2847m、面積は63711㎡に及んでいます。綱張りは、近藤正純、山鹿素行の指導のもと小幡景憲が開いた甲州流軍学によるもので、くまなく側面から攻撃できる工夫が見所になっています。本丸は五稜郭が崩れたような塁線がカクカクと折れ曲がるいびつな多角形になっていて、敵に対して多方向から射撃ができます。複雑に折れ曲がる城壁や堀に注目すれば出っ張り(横矢出隅)た凹み(横矢入隅)などを巧みに取り入れています。

本丸には櫓台のように突出した「横矢枡形」がいくつもあり、東北隅、西北隅、厩口門南に櫓状の突出部があります。実際に二重櫓が建っていたのは東北隅だけでした。写真は浅野家時代には厩口門、森家時代には台所門と呼ばれていた本丸門と同規模であった高麗門形式の木造、切妻造、本瓦葺の門です。厩口門からみた東北隅櫓台。

門に向かって左の石垣は局面を描き、さらに横矢枡形を設けるなどその縄張りは大きな見所となっています。

本丸の正面玄関となる本丸門は長方形の枡形を備えた巨大な枡形門で、発掘調査や絵図をもとに平成4年~8年(1992~1996)に復元されています。

赤穗城には高さ約9mのも及ぶ天守台がありますが、肝心の建物「天守」が一度も築かれなかった城です。その理由は三十の堀に囲まれ、三の丸まで総石垣造りという規模の大きさは、5万石の赤穗藩には過度なほど広大で、築城はもちろん維持するにも莫大な金がかかり、財政難に陥った藩は天守を築くことができなかったといいます。その一方、財政難ではなく、江戸城の天守が焼失した後、諸藩も幕府に遠慮して天守の新規建造や再建を控えるようになり、赤穗藩もそれに倣ったという説もあります。

写真は天守台からの眺望です。本丸跡には本丸御殿の間取りが平面表示されていて、江戸時代の部屋の構造や規模がよくわかります。本丸はほとんど本丸御殿が占めていたようです。

本丸には庭園があり、表御殿南面の大池泉、中奥坪庭の小池泉、本丸北西隅の池泉が発掘され、庭園の景観が再現されています。とりわけ見事な大池泉は、浅野家時代に造られた池泉を、その後城主になった森家が改修したとのことです。東西37・5m、南北25mの規模となり、藩主の居間から石段が掛けられ池泉周辺には塀が設置されていました。中島・入江・岬・護岸汀線は直線と曲線を組み合わせ、池の底に割石・砂利石・瓦が敷き詰められています。

左手に見える門は刎橋門跡です。本丸の南面、藩邸の裏手にあたる門で、非常門とも不浄門とも伝えられる。ここから二之丸へ開閉式の刎橋が架けられていました。

また本丸庭園とともに二の丸庭園が「旧赤穗城庭園」として国の名勝に指定されています。大石頼母助屋敷南面から二之丸西仕切門まで広がる大きな池泉を中心とした庭園です。

大石内蔵助の屋敷跡に大石神社の境内があります。ここを訪れずに忠臣蔵は語れません。大手門西側の一画に間口28間(約42m)、奥行45間5尺(約90m)、畳敷308畳の大石3代が57年にわたり住んだ家老屋敷でした。大石内蔵助邸は討ち入り姿の47義士石像が並ぶ表参道を進めば、大石神社本殿に着きます。

大正元年(1912)大石内蔵助良雄はじめ47義士と萱野三平を合祀して主神として創建され、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変で亡くなった森蘭丸ら七代の武将を合わせてお祀りしています。大願成就・願いが叶う神様として御利益があるとのこと。

約4000坪の境内にある義士ゆかりの遺品を展示する義士宝物殿前では、羽織を着て早駕籠に乗り、使者の気持ちになって撮影ができ、忠臣蔵と書かれた大きな太鼓の看板と合わせて撮影すればベストショット。

 刃傷事件の凶報を知らせるため、家来の早水藤左衛門と萱野三平が江戸から早駕籠を飛ばして赤穗に到着。その時に一息ついたと伝えられるのがこの「息継ぎ井戸」です。四角い石で囲まれた井戸枠が残っていますが、実は赤穗では上水道のくみ出し場を井戸と呼んでいて、江戸の神田上水、広島の福山上水とともに日本三大上水道のひとつです。

江戸初期、赤穗の城下町一帯は海から陸地になったばかりで、どこを掘っても海水が湧き出るため、まず上水道の設備が必要でした。そこで浅野家がまだ常陸の笠間にいたころの1616年、当時の領主だった姫路城主池田輝政の家臣、赤穗代官垂水半左衛門勝重が7km上流の千種川から水を引いて排水路を設け拡張、改修を重ねつつ城下町の町家各戸へ給水するという全国的にも珍しい上水道を敷設しました。浅野家がそれを拡張しました。当時築かれた上水道は残っていませんが、土管の一部は土中に埋まっているとのことです。

息継ぎ井戸のすぐそばに浅野家の菩提寺「花岳寺」があります。正保2年(1645)、赤穂初代藩主浅野長直が建立。本山を永平寺とする禅宗・曹洞宗の寺院。高麗門形式の山門は素朴で武骨な武家門の風格を備え、広庭には、江戸へ立つ大石内蔵助が名残を惜しんだという「大石なごりの松」が残ります。写真の山門から見える松が二代目・大石なごりの松です。

浅野家の菩提寺としては、東京・港区の泉岳寺が知られていますが、花岳寺にも「義士墓所」があり、こちらは四十七の遺髪が埋葬されていると伝わる。浅野内匠頭、大石親子の墓を守るようにコの字型に並んだ義士の墓は、今も変わらぬ忠誠心を表しているかのようです。墓所が建てられたのは四十七士の三十七回忌にあたる元文4年(1739)で、この時点では四十七士の中で唯一切腹していない寺坂吉右衛門がまだ存命だったが後年に寺坂の墓も建てられました。各お墓に刻まれた戒名には切腹したという意味の「刃」の文字が含まれているが、寺坂だけにはないのです。

本堂は二重屋根、扇垂木、伽藍造り、天井には赤穗最大の画人・法橋義信が描いた「竹に虎」が描かれています。義士宝物殿には50余点の品が展示され、中でも大石内蔵助が吉良上野介にとどめを刺したという長さ9寸5分(約29cm)の短刀「観音妙理剣」が真新しい輝きを放っているのにドキっとします。

市内には四十七士のうち、大石の参謀役だった菅谷半之丞宅跡など21人の屋敷跡が判明していて、忠臣蔵の世界を身近に感じながら城下町を後にします。昼食は坂越の大粒で濃厚な牡蠣を使った名物「牡蠣のお好み焼き」のお店「みなとや」でいただきます。ソテーした赤穗の海で育ったプリプリな牡蠣に関西風のふわふわの生地、ちょっと甘めのソースが絶妙にマッチして絶品です。牡蠣の容量を選べるのがうれしい。

城下町の散策も終わり日本百景に選ばれている瀬戸内海に面する岬、赤穂御崎に向かいます。平成12年に新しく源泉が掘られリフレッシュされてカルシウムなどの成分が増え健康回復や美肌効果もパワーアップした「よみがえりの湯」の名の赤穂温泉街に入ってすぐのところに、古くから航海安全や大漁を祈願して人々から信仰を集めてきた伊和都比売神社が鎮座します。

平安朝の延喜式神名帳に名を残す古社である「伊和都比売神社」はそもそも大園と呼ぶ、海上の八丁岩の上に祀られていたものを、天和3年(1683)、浅野家初代城主・浅野内匠頭長直が現在の地に建立したものです。本堂、鳥居、そして海に向かって下りる階段が一直線で結ばれており、海の神様が行き来しやすい造りになっている。かつては、日本海軍の勇将・東郷平八郎元帥をはじめ、歴代連合艦隊司令長官など海軍の勇士が参拝しています。播磨灘を太陽の光を浴びて眺めていると時間のたつのを忘れてしまうぐらいで、光る~海光る大~空♪浮かぶ島、そよぐ風、まさしく「波の数だけ抱きしめて」である。

伊和都比売神社から海へと続く坂道を「きらきら坂」と呼んでいて、誰もが憧れるロケーションである坂の一番下、一番海に近いところにあるお店が「リストランテ・さくらぐみ」です。赤穂御崎が、ナポリの景色に似ていることから、赤穂市街地から移転してきたお店です。

今回は境内の一隅にある海辺の洋菓子店「天と海と菓子と SANPOU」を訪れます。店名は近江商人が心構えとした「三方よし」をわすれないようにと付けられたとのこと。

 海の方向に大きく窓が切られた明るい陽射しがあふれる店内には15席、どの席からも海が一望でき、神社の鳥居越しに播磨灘をみながらコーヒとケーキをいただける至福の時間がここにはあります。

マロンがたっぷりはいったロールケーキと珈琲をいただき、お土産に砂糖を使わず、もち米と麦芽が発酵してできる自然な甘味のシュークリーム「のんシュー」一個180円を買って帰ります。しっかりとそしてスッキリとした甘味のクリームです。

 

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