本丸は将軍上洛の休泊所。「関」を持つ東海道の要衝・伊勢亀山城

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三重県中北部にある亀山市は、江戸時代、東海道の要衝ということもあり、城主は8家が目まぐるしく変わったもののその多くが譜代大名であった伊勢亀山藩の城下町。志賀直哉の長編小説『暗夜行路』には伊勢からの帰り道に亀山駅から亀山城跡などをめぐった情景が描写されています。多門櫓は県内に唯一現存する城郭建造物であり、石垣、外堀、土居が良好な状態で残っています。東海道の江戸から数えて46番目、鈴鹿峠東側の宿場町として栄えました。亀山市にある宿場町「亀山宿」「関宿」に東海道の往時の面影が残っています。

スタート地点はJR亀山駅。駅前ロータリーにはヤマトタケル像が立っています。東征の帰路、伊吹山の荒ぶる神を倒すため山に入りますが、その山の神の怒りに触れ病となり下山します。故郷大和国へ向かう途中のある村では、歩き続けて疲れた足が「三重に曲がり固い餅のようだ」と嘆いたことから「三重」というようになりました。どんどん体調が悪くなりこの能褒野で亡くなったのです。最後に大和への望郷の思いが募って詠んだ歌が『大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れるやまとうるわし』です。古事記、日本書紀のこの記述に基づき亀山市にあった全長90mと三重県北部最大の前方後円墳が「日本武尊能褒野御陵」と定められています。この像は日本武尊とその妻で市内の忍山神社の祀官忍山宿禰の娘弟橘媛が寄り添う姿を描いた高さ約2.5m、幅約1mの像です。

亀山は駅の南側を流れる鈴鹿川近くの丘陵部の高いところが城内で、城内の南側がかつての亀山宿です。宿内の東海道は、城内を迂回するように何度か折れ曲がって京口門跡へと続いています。JR亀山駅から北に緩やかに旧国道一号線を跨いで坂を上っていくと、黄色く塗られた旧東海道と交わる亀山宿西町問屋場跡付近のミニ庭園は、池の側(外堀)越しに亀山城多門櫓を望むビューポイントです。さらに池の側沿いに石坂を上っていきますが、この左手辺りが現在亀山中学校になっている西の丸で、重臣の屋敷などが構えられていました。

亀山城内石坂門の南、池の側畔には亀山の仇討ちといわれる石井兄弟敵討の碑がたっています。亀山城主が板倉重常であった元禄14年(1701)5月9日早朝に石井源蔵(33歳)・半蔵(30歳)の兄弟が、28年目に父石井宇右衛門の敵、赤堀水之介を討ち取ったところです。大坂城代青山因幡守の家中であった父が武術の遺恨によって赤堀源五右衛門に討たれ、その後水之介と変名して板倉家にいた敵を探り出し首尾よく本望をとげた事件で、「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎・講談・浮世絵などに取り上げられ大評判だったといいます。その後旧主の青山忠重に帰参を許された兄弟は青山家が丹波篠山に移封になると藩主に従って移り住め、生涯を終えました。

伊勢亀山城は鎌倉時代の文永2年(1265)関久賀から移転してきた伊勢平氏の流れをくむ関左近将監実忠によって標高70mの若山の地に築かれたといい、信長によって元亀4年(1573)関盛信が追放されるまで関氏16代の居城でした。その後天正18年(1590)豊臣秀吉に従った岡本良勝(宗憲)が入城し、亀山古城の東に本丸、二の丸、三の丸が並列するかたちで新たに天守や各廓が今の縄張りに整備されたと伝わります、現在多聞櫓が建っているかつての天守台もこの頃に築かれたと思われます。

天守閣は幕府から丹波亀山城の天守閣を壊すように命じられた、出雲松江藩主堀尾吉晴が間違って、寛永9年(1632)ここ伊勢亀山城の天守閣を破却してしまったとのこと。その後、寛永13年(1636)に5万石で入城した本多俊次によって天守のあった場所に築かれたのがこの多聞櫓です。基本的に土塁で築かれた城のなかで、ここ本丸だけは高石垣で固められています。自然石をもちいた野面積みで、宝篋印塔等の石造物の転用も見られます。外側高13.5m、内側高は3.5mあり、見事な勾配を見せ、隅部は直方体の長辺と短辺を交互に積む算木積みに近づいています。

建造物は、東西八間(15.8m)南北六間(10.9m)の一重平櫓で屋根は入母屋造本瓦葺で、建築年代は18世紀後半と考えられます。明治6年(1873)の廃城令によって大部分が取り壊されましたが、唯一、原位置に残されたもので三重県で唯一現存する城郭建造物です。

明治期に残されたものの、旧藩士に落札されて士族の受産場になったり会議室や展示室として利用されたりしている間に外観も大きく変更されてしまっていました。それが平成21年(2009)から24年(2011)の「平成の大修理」で建築当初の姿に復元されました。入ってすぐに大きな梁が眼前に迫り迫力があります。

亀山城には「姫垣」を意味する「粉堞城」の別名があります。江戸時代初頭の岡本良勝(宗憲)の築城時の亀山城には、上洛する将軍などの休泊所として本丸御殿が使用されていて、寛永11年(1634)の将軍宣下にかかる徳川家光の上洛の前年には大々的な整備が行われています。この御殿は正徳2年(1712)に取り壊され、その後再建されることなく空間地となっていました。現在の亀山神社、その北にある公園がかつての本丸でした。延享元年(1744)に石川総慶が入城後、城内に小祠を設けて奉斎したことが起源とされる亀山神社の祭神は亀山藩主石川家の祖、源義家と石川良純です。石川良純はかつて笠置山に逃れた後醍醐天皇に味方して20万の幕府軍と戦って自害しています。明治まで石川家が城主を務めました。

本多俊次が城主となり寛永16年(1639)から3ヵ年を掛けて行った大改修によってほぼ現在の城地が確定しました。現在の亀山市役所と亀山西小学校のあたりは亀山城の中核となる曲輪であった二之丸で、本丸が将軍の休泊所として整備された経緯から城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿(居屋敷)と、その別棟である向屋敷、馬場などが置かれていました。亀山城内で最も多くの建物があり、外周には三階櫓である太鼓櫓、二階櫓の神戸櫓・向屋敷櫓・石坂脇櫓、平櫓の二之丸北櫓が建ち並んでいました。

水堀南と北側に帯曲輪があり、北帯曲輪は、亀山西小学校北側に隣接し、本丸東空堀に向かって半島状に突き出た形の帯曲輪です。江戸後期には二之丸御殿の庭園の一部に組み込まれていた可能性があるとのこと。発掘調査により発見された二之丸北埋門と帯曲輪が平成17年(2005)に復元整備され、白亜の土塀も復元されました。

二之丸から帯曲輪への入口となる幅わずか1間の北向の門、北埋門も復元整備されました。土居を掘り込んだ半地下式となることから埋門の名があります。

城を敵から守るためにつくられた場所のことを曲輪と呼び、曲輪の中で帯のように細長い形をしているものが帯曲輪です。亀山城内には帯曲輪が6カ所ありました。この帯曲輪は東西43m、南北6.5mあり、殿様のいる二之丸御殿とはとなりあっています。帯曲輪には建物がなく、石を組んだ溝がめぐらされていました。

本丸、二の丸および本丸西の西出丸の北側は、急峻な崖になっています。その下には外堀の遺構の水堀・亀山公園池があり、続いて西側には菖蒲園もあります。丘陵のもっとも高い位置に重要な曲輪が連続して配置され、その下の堀で守られていて、自然地形を巧みに利用した縄張りの模様がよくわかります。

二之丸と丘陵が繋がる東側には東三之丸(東丸)がおかれ、東辺には大手門があり、旧東海道に面した城の玄関口にあたります。大手門前で東海道が直角に折れて広くなっており、亀山宿の高札場が置かれていました。高札場の大きさは間口三間二尺、奥行一間三尺、高さ二間二尺で、藩主が造ったものとのこと。この高札場は領内の宿場や各村からの距離を表す場合の基点にあたり、ここから江戸まで百四里半、庄野宿まで二里、関宿まで一里半あります。

かつての亀山城二之丸にあった御殿書院が亀山城南東、東海道沿いにある遍照寺に移築されています。街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた天台宗真盛宗の古刹です。

本堂が文久2年(1862)に建てられた亀山城二之丸御殿の大書院と式台部分を、明治5年に移築したもので、壮大な大名御殿の姿を示す貴重な遺構です。正面玄関には伊勢亀山藩石川家の笹竜胆の家紋がそのまま残され、千鳥破風の下り棟には上り亀と下り亀の装飾瓦が2対対峙して置かれ、郷土亀山のシンボルとして万年の命を壽いている。破風の三角形の頂点に欅造りの懸魚が下がっています。

亀山宿は東海道53次で江戸から数えて46番目の宿場町であるとともに亀山城の城下町としての顔ももっていました。見通しのきかない曲がりくねった複雑な道や坂道が多く、城下町らしい特徴的な町並みになっています。天正11年(1583)にこの付近で行われた合戦の戦死者を弔うために建てられた小堂露心庵跡から西が亀山宿となり、亀山城下の西の入口で門と番所を構え、その壮麗な姿から「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋ソテツに京口御門」と謡われた京口門跡までの約2.5kmにもおよぶ宿となります。しかしながら伊勢参詣の経路から外れているため、紀行文などでは「さびしき城下」と表現されています。

亀山宿の次の宿場町が東海道47番目の宿場町、町並みの美しさが東海道随一の関宿へ、「三重・関宿に奇跡的に残された旧東海道の素顔と美しき意匠を歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4111

 

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