大名や武将たちが政務を執り、日常生活を送っていた場所は天守ではありません。日頃は「御殿」と呼ばれる屋敷で過ごしていました。御殿は客や他国からの使者を迎える場所であり、重要な建物でした。御殿は天守や櫓のように堅牢な造りではなかったためか、焼失したり破損したりして失われたものが多く現存するのは全国に数例しかありません。特に川越城には玄関と大広間の部分だけが残っているだけだけですが、首都圏に残る例として特筆に値します。江戸の北の守りとして、物資の供給基地として重視され、幕府の重職を務める大名の領地となった川越。新河岸川や川越街道の物流で富を集め、江戸文化を取り入れ、小江戸とも呼ばれる川越城下町に残る歴史的な建物を蔵の町、商業都市としての川越とともに散策します。
室町時代後半の長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の命で太田道真・道灌父子によって築城されたのが、関東七名城のひとつであり日本100名城に選出されている「川越城」です。その後北条氏の北武蔵の拠点となるも天正18年(1590)の小田原征伐に際し、前田利家らに攻められ降伏します。徳川家康が江戸城に入ると川越は江戸の北の守りとして、物資の供給基地として重視され、重臣酒井重忠を置き、その後も酒井忠勝や松平信綱、柳沢吉保といった幕府の大老や老中といった幕政の重責を務める大名の領地となりました。
寛永15年(1638)1月の川越大火を機に翌年に川越藩主となった松平信綱が川越城の拡張整備を行い、本丸・二の丸・三の丸・追手曲輪・新曲輪などの8つ曲輪、3つの櫓、12の門からなる総面積約9万9千坪(約32万6千㎡)余りの規模をもつ徳川の親藩・譜代の大名の居城としての巨大な城郭になりました。
川越城は本丸を中心として、北側に二の丸、その西側に三の丸が置かれていました。現在の初雁公園から川越市役所に至る広さで、川越市立博物館あたりが二の丸、川越市立美術館のあたりが二の丸と三の丸を隔てる堀跡です。本丸の南側に田曲輪、東側に帯曲輪が置かれ、西側には八幡曲輪、その西に中曲輪、追手曲輪が配置されていました。写真は富士見櫓跡の南に隣接する田曲輪門跡
三の丸跡には埼玉県立川越高校となり、富士見櫓跡と中ノ門堀跡が、数少ない川越城の名残です。天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、そして富士見櫓跡は本丸御殿から南西へ直線で150m、道のりで300mのところ、川越城の最高地点にあたる本丸南西隅、三の丸跡地の高校の南の小高い丘の住宅地の中にポツンと天守閣の代わりに建てられた三重櫓です。
川越市が舞台のアニメ「神様はじめました。」で主人公が託された「ミカゲ社」のモデルとなり、慶応2年(1866)の記録によれば長さ八間3尺(約15m)、横八間(約14m)あったとあり、現在は櫓はなく高台のみが残っています。
中ノ門堀は、まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀です。現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多賀谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き、一階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。第2期「神様はじめました◎」で奈々生と巴衛がバスの間と合わせをした場所です。
中ノ門堀は西大手門から本丸方向への敵の侵入を阻むために造られた3本の堀の一つで、敵が堀に阻まれて直進できず、進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかける仕組みでした。また発掘調査で城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることが判明しました。中ノ門堀の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60°西側は35°で城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいました。
「本丸御殿」は名前の通り、城の中心部にあたる本丸に建っていたことから、戦国後期には天守とともに城の中核ともいえるものでした。しかし大半の城では本丸は面積が狭いため、二の丸や三の丸に御殿が置かれることも多かったのです。必見の遺構で、初雁公園にある「川越城本丸御殿」は、弘化3年(1846)の火災で二の丸御殿が焼失した後、城主の新たな御殿として嘉永元年(1848)当時の藩主松平斉典の時代に空き地だった本丸に造営されました。。
新しい本丸御殿は建物の数16棟、1025坪にも及ぶ広大な建物でした。城主の住まいだけでなく、城主が政務を行う場や家臣たちが常駐する部屋なども設けられており、文字通り城の中心となる建物でした。お城の御殿は全国に四つ(川越城、高知城、二条城、掛川城)しか残っていないことからも貴重なものです。残念ながら敷地面積にして8分の1、建坪で6分の1しか残っていませんが、玄関と大広間が残存し、家老詰所が移築復元されています
入母屋造りで豪壮な大唐破風と霧除けの付いた間口13間(約23m)・奥行きが5間の大玄関・車寄せが出迎えてくれます。懸魚と呼ばれる木彫りの装飾も美しく、屋根と梁に挟まれた蟇股も格式を高めています。玄関の左右にある格子窓がついた珍しいデザインの塀は櫛形塀といいます。瓦には葵御紋が輝き、垂木の小口が白く塗られているのは浸水や割れを防ぐためです。八寸角の太い柱が、17万石の大藩の大名屋敷の威容と凛とした武家の品格を感じさせる格式の高さがうかがえます。
玄関を入ると36畳の広さを誇る御殿内で2番目に大きかった大広間があり、南北に使者之間、使者詰所など襖で仕切られた部屋が6部屋連なります。板間で玄関と区切られ奥行き3間の座敷には9尺の廊下が四方を囲っています。現在は庭になっている本丸御殿の南側には、城主との対面をする大書院と呼ばれた建物が続いていました。
御殿内の部屋はどれも質素な装飾ですが、杉戸絵は、ふすまなどではなく、部屋を仕切る戸板に直接描かれていて、地元川越の岸村の名主で狩野派絵師の川越藩御用絵師を務めた舩津蘭山によるものです。
移築された家老詰所は本丸御殿に勤務していた藩の家老が詰めていた建物です。江戸時代藩主は参勤交代があり、実質的には家老が藩政を行っていました。本来の家老詰所は現在の位置よりさらに西側にあり、家老詰所があった方向に続く廊下の柱が、丸瓦で示されています。
家老たちが話し合う様子が再現されています。
川越城本丸御殿の向かい、天神曲輪跡に位置する三芳野神社は、童謡「通りゃんせ」発祥の地でこの神社の参道が舞台といわれます。創建は平安時代のはじめ大同2年(807)で、氷川神社を勧請したとも、京都の北野神社を勧請したともいわれているが定かでなく、三芳野という社名は在原業平の『伊勢物語』に出てくる「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であったことによります。
境内には毎年同じ時期に北から初雁が飛来し、杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去ったという故事がによる初雁の杉があります。太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから川越城を「初雁城」と命名したとされ、川越の鎮守としたと伝わります。
現存する社殿は、寛永元年(1624)川越藩主酒井忠次が三代将軍徳川家光の命を受け、幕府棟梁鱸近江守長次が造営にあたりました。翌寛永2年には天海僧正を導師として遷宮式が行われ、これ以降、喜多院、仙波東照宮とともに江戸幕府直営社となります。明暦2年(1656)には4代将軍徳川家綱の命を受けた川越城主松平信綱ば奉行となり、幕府棟梁木原義久により大改造が行われました。江戸城二の丸の東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮となり、明治5年に氷川神社境内に移築されています。移築された本殿と寛永に建てられた拝殿との間に幣殿を新しく設け、権現造りの形態になっています。
祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命に菅原道真と誉田別尊を配祀しています。当彩は川越城の天神曲輪に位置しすことから「お城の天神さま」と呼ばれていました。城内にあることから一般の参詣は時間を区切っての参詣が認められていましたが、反対に一般の参詣者に紛れて密偵が城内にまぎれ込むことを避けるため、返りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられました。そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い・・・」と唄われるようになったとのことです。
川越を訪れたら喜多院にも立ち寄ります。南の県道15号方向に歩いて「川越大師 喜多院」と同じ境内にある「仙波東照宮」に向かいます。川越大師として、初詣はもちろん、交通安全や七五三でも広く親しまれている 喜多院の創建は、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建され、星野山無量寿寺と名付けられたと伝わります。その後元久2年(1205)兵火で焼失、永仁4年(1296)伏見天皇の命により尊海僧正が入山し再興、慈恵大師(元三大師)をお祀りし、この頃に無量寿寺は仏蔵坊(現喜多院)・仏地坊(現中院)・地蔵坊(現南院)の三坊構成となり、関東天台宗の中心となりました。
また慶長4年(1599)、法灯を継いだ27世の天海僧正が家康の厚い信任を受け、徳川家康・秀忠・家光の顧問的存在として重用されます。慶長17年(1612)川越藩主酒井備後守忠利に命じ、家康は喜多院に4万8000坪を寄進し、費用を出して仏蔵坊北院を喜多院と改め伽藍も建立させました。山門は寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたもので4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていたといいます。
寺領をひろげましたが、寛永15年(1638)1月の川越大火で山門・鐘楼門を除き堂宇すべて焼失したため、同年7月、3代将軍徳川家光は、川越藩主堀田加賀守正盛に喜多院の復興を命じます。仙波東照宮・大堂(現寛永寺根本中堂)・多宝塔・客殿・庫裡・書院・慈恵堂等が相次いで再建されました。
現在の本堂である慈恵堂(大師堂)は、大火の翌年、寛永16年(1639)に再建された建物で、近世初期の天台宗本堂として貴重なものです。桁行9間、梁間6間、入母屋造で銅板葺。中央に元三大師とも呼ばれる慈恵大師良源・開山慈覚大師円仁・中興尊海僧正、左右両護摩壇に不動明王をお祀りしています。特に慈恵大師は「厄除けのお大師さま」として信仰を集めていて喜多院が「川越大師」と親しまれるゆえんです。潮音殿ともいわれる所以は、それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーとまるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだと云い、いつしか「潮音殿」と呼ぶようになったということです。※喜多院の七不思議
慈恵堂裏手に石の柵に囲まれ、大きな五輪塔が並ぶ越前松平家の流れを汲む松平大和守家の廟があります。ここは明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所です。
同家が川越藩主であった7代100年の間に川越で逝去した松平朝矩、直恒、直温、斉典、直候の5人が葬られています。
境内の小丘には正保2年(1645)徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海大僧正の木像を祀る慈眼堂があります。一名開山堂とも呼び、桁行3間・梁間3間、背面1間通庇付の単層宝形造で本瓦葺。宝形造は、四方の隅棟が1ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られています。6世紀後半~7世紀初頭の古墳上に建っています。
客殿・書院・庫裡は寛永15年(1638)に三代将軍徳川家光の命により江戸城紅葉山の別殿を移築したもので壮大な江戸城建築の一端を垣間見ることができます。この時新河岸川の海運が用いられ、「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」があるのはそのためです。
客殿は桁行8間・梁間5間、入母屋造で杮葺。12畳半2室・17畳半2室・10畳2室で12畳半の一室は上段の間で「家光公誕生の間」とも呼ばれ、床と遠棚が設けられ、81枚の格天井絵、墨絵の障壁画で飾られています。書院は桁行6間・梁間5間、寄棟造で杮葺。8畳2室・12畳2室、一部に中二階がある。8畳間は家光の乳母として名高い「春日局化粧の間」と呼ばれています。※撮影禁止
客殿から望む「紅葉山庭園」は遠州流庭園で、三つの縁石、丸・菱形・四角が見事に調和しつつ整然とした庭です。左端に見える家光公お手植えの枝垂れ桜が見事な花を咲かせる時期に来てみたいものです。
書院奥庭の「曲水の庭」は遠州流東好み枯山水書院式平庭で、関東好みの爽快さと品位が保たれた庭です。
庫裡を出て山門脇から入る川越の観光名所の中で人気の高い喜多院の五百羅漢は、日本三大羅漢の一つで、川越北田島の僧侶志誠の発願により天明2年(1782)~文政8年(1825)の約40年の歳月をかけて建立されました。釈迦十大弟子、十六羅漢を含め533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来。地蔵菩薩を合わせ全部で538体が鎮座しています。
笑っていたり、泣いていたり、怒っていたりと様々な表情をした羅漢様がおられます。表情だけでなく、いろいろな仏具や日常品を持っていたり、動物を従えていたりと、いつまでも見ていて飽きないくらい変化に富んでいます。
鐘楼門は寛永10年(1633)に東照宮の門として建立されたことが「星野山御建立記」の記録に見え、この頃東照宮は今の慈眼堂の場所にあり、川越大火を免れたと考えられています。桁行3間、梁行2間の入母屋造、本瓦葺で1階に袴腰と呼ばれる囲いがつきます。2階は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫、台輪でかため、組物に出三斗と平三斗を組みます。正面背面ともに中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げで正面には雲龍、背面には花鳥の彫物を飾ります。
徳川家康は元和2年(1616)駿府城で死去したあと、久能山に埋葬されていますが、その後遺骨は、関係が深かった天海僧正が創建した、川越の喜多院で4日間の大法要を経て、元和3年(1617)日光に移送されています。そのことから天海によって寛永10年(1633)に喜多院に隣接する南側に「仙波東照宮」は建立されました。そのため仙波東照宮は日本三大東照宮の一つとされています。しかしながら寛永15年(1638)の大火によって焼失、徳川家光の復興命令により寛永17年(1640)に再建されました。
境内入口にあたる随身門は、朱塗り八脚門・切妻造でとち葺形銅板葺。八脚門とは三間×二間の門で、門柱4本の前後に各一本ずつの控柱を持っている屋根付き門のことです。
石鳥居は寛永15年(1638)9月に造営奉行の堀田加賀守正盛が奉納したもので様式は明神鳥居です。
拝殿は桁行3間(5.36m)梁間2間(3.64m)で単層入母屋造、正面は向拝1間(1.82m)あって銅板本葺。幣殿は桁行2間、梁間1間で背面は入母屋造、前面は拝殿に接続し同じく銅板本葺です。朱塗りの柱や精巧な彫刻が見事で、内部も朱塗りで美しく、正面に後水尾天皇の御染筆なる東照大権現の勅額が懸けてある
本殿が三間社流造りの銅板葺、端垣は延長30間の瓦葺で中央正面には平唐門があります。
江戸の粋や文化が新河岸川の舟運によって運ばれ繁栄した「川越」は往時の面影を残すことから「小江戸」と称されています。そんな蔵の町・川越を歩きます。「風鈴の音に涼を求めて小江戸“川越”の蔵造りの街並み散策!」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/287